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14章
追憶の由比ヶ浜 10
しおりを挟む山の端が夕焼けに色に染まり、空の青が暗くなってきた。
日が傾いてきたな。
ならば……そろそろ翠が帰宅するだろう。
そう思うと、そわそわしてきた。
重たい袈裟を払って立ち上がると、窓の外から声がした。
「あのぉ~」
庭掃除をしていた坊主の小森くんの声だった。
「なんだ?」
「副住職……そろそろお暇してもいいですか」
「あぁ、今日は住職不在で、君を忙しくさせて悪かったな」
「いえ! あの……明日は住職いらっしゃいますよね?」
「あぁ」
「よかった~じゃあ明日はおやつが出る」
「ん?」
小森くんがひもじそうにお腹をさすった。
「腹でも減っているのか」
「い、いえ!」
顔を真っ赤にして首を横に振る小森くんに、戸棚の中からカステラを出して食べさせてやった。これは本当は翠のために取っておいた物だが、翠にはカステラよりも、俺自身が必要な気がしたので、特別に譲ってやった。
「あぁ美味しい~、しあわせです」
「カステラぐらいでゲンキンだな」
「でも翠さんはいつも美味しいおやつを下さるんですよ」
「はは、翠に手懐けられているな」
「どうとでも言って下さい。住職のファンはボクだけじゃないですからねー!」
「むっ」
腹を満たした小森くんを見送ったあと、作務衣に着替える時間も惜しく、袈裟姿のまま山門に向かった。
分かるのだ。俺には分かる。
翠は泣いただろう。きっと激しく泣いただろう。
俺が見たことがないほど、泣いただろう。
洋くんの肩を借りて、ようやく溜まっていた思いを吐き出せたはずだ。
洋くんなら翠を導いてくれたはずだ。
翠……翠は口に出さないが、俺には分かった。伝わって来たのだ。
俺たちが幸せになればなるほど、翠の身体に居座る克哉の爪痕が辛くなってきたよな。翠の傷痕ごと愛すと誓ったのに、俺は嫉妬心に駆られた小さな男になってしまった。翠は翠で、俺と触れ合えば触れ合うほど、その傷痕を隠したがるようになっていった。
お互いに口には出せず、苦悩していた。
このままでは、駄目だ。翠の身体に負担を掛けてしまう。
そう思っていた矢先に、翠の目の調子がまた悪くなり出したのだ。
絶対に弱音を吐かない翠だから、視力が霞むことを隠し通すのが辛かった。
怖くて不安で怯えているのに……俺が抱けば啼いてくれるのに、泣いてくれない。
心に溜まり続けたものがあるのだろう?
まだ俺に見せていない、ずっと隠しているものが……あるのだろう?
どうやったら吐き出させるのか。
翠はストレスを抱え込む。また以前のように目に障害が起きる可能性がどんどん高くなっていく。だから丈と話し合ったのだ。二度目の視力障害が万が一起きてしまうと、今度はもっと長引くだろうと。そうなる前に手を打つしかないと。
ストレスの元を取り払おう、翠はひた隠すものをのぞけるのは……洋くんしかいないという結論に至ったのだ。洋くんを利用するようで忍びなかったが、丈も賛同してくれた。
『私は……今の洋なら打ち勝てると思います。そして洋も翠兄さんと話すことで、知らず知らずのうちに溜まってしまった膿を出せるのかもしれません。だから翠兄さんと洋を一緒に、由比ヶ浜に行かせるのは、ある意味有効かと……』
結果はどうだった? 俺は翠を迎える準備万端だ。
どんな翠でも、この胸に迎えるつもりだ。
やがて洋くんが運転する車が静かに戻ってきた。
助手席から降りてきた翠は、想定通り、泣き腫らした顔だった。
良かった。沢山……泣けたのだな。
その顔にホッとした。
「流……迎えにきてくれたのか」
「あぁ、お帰り。二人とも……洋くん、今日はありがとう」
洋くんの顔も同じだった。
「君も……翠と一緒に泣いてくれたのか、ありがとう」
「……俺で役に立てたのかどうか」
「いや、助かったよ」
「どうぞ、早く……翠さんと二人きりになって下さい」
「いや、君も疲れただろう。母屋で茶でも入れるよ」
労い、誘おうと思ったら、丈の車が戻ってきた。いつになく早い帰宅だな。
「あ……丈だ。あの、というわけで、ここで二手に分かれましょう」
「そうか、悪いな」
「薙くんは部活で遅くなり、7時頃戻るそうです」
「了解だ、それまで行方をくらませても?」
「もちろんです」
洋くん、君でなかったら、こんな会話は成り立たない。
丈にも相談出来なかった。
俺は末弟の洋くんの存在が愛おしくて溜らないよ。
「洋くん、君は頼りになるいい男だ。俺の大切な弟だ」
「流さん……翠さんもそう言ってくれました」
彼が笑うと、甘美な百合の花が咲くように艶めいた華が生まれる。
車から降りた丈が近づいてくると、洋くんは目を細めて丈を見つめた。
お前たちも惚れあっているんだな。
「洋……」
「丈」
ふたりは磁石のように歩み寄る。
俺と翠は、そっとその場を離れた。
「翠、茶室にいこう」
「え……でも工事中だろう? そ、その……縁側は駄目だ」
「はは、今日は鍵をもらったので中に入れるから、安心しろ」
「そうなの?」
もうほぼ完成した俺たちの離れ。
特に茶室は今日中に使えるように、急いで仕上げてもらったのさ。
「新しい場所に入るのは、緊張するね」
「翠のための、翠の部屋だ。今日が相応しいのさ」
「そうか……流と過ごす部屋になる」
翠は憑きものが落ちたようにすっきりした顔をしていた。
あぁ大丈夫だ、翠は打ちのめされていない。由比ヶ浜で洋くんと共鳴し泣きまくっただろうが、俺の知る翠は、ちゃんとここにいる。
「さぁ入れ」
「ふっ、今日の流は大人びた物言いだね。さては、その袈裟のせいかな?」
翠らしい兄モードの口調に、心から安堵した。
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