重なる月

志生帆 海

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14章

追憶の由比ヶ浜 9

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「洋くん……どうか……助けて欲しい」

 こんな弱音を吐いたら駄目だ、翠……。
 お前はいつだって耐えてきただろう。

  彼方から声がする。
 
『流水を失って……寿命を全うするまでの40年近く、お前はひとりで耐えてきた』

 無理だ、もう耐えられない! 
 流の温もりを知ってしまったら、一人で背負って生きていけなくなってしまった。
 
「翠さん、大丈夫です。あなたひとりで背負わないでいいのです」
「洋くん……」

 洋くんは、こんなに強い瞳を持っていただろうか。
 彼の薄い肩は、泣き崩れる僕をしっかり受け止めてくれていた。

 君はこんなに逞しかっただろうか。
 
 君がこの月影寺にやってきた当初、まだまだ危なっかしく警戒心も強く……深手を負った猫のように痛々しかったのに……。

「俺も同じです。ずっと一人で耐えてきました。中学で母を亡くして、1年しか一緒に暮らしたことのない他人のような義父と暮らすようになり……誰にも言えないことばかり、挙げ句の果てに無理矢理……」
 
 いけない! 君の口から……その仄暗い過去を語らせてはいけない。

 僕は不甲斐ない、早く泣き止まないと。

「大丈夫です。翠さんが不甲斐ないなど……少しも思っていないです」
「どうして……そこまで……? 君の苦しみを、何故……わざわざ話すんだ?」
「それは翠さんを救いたいからです。こんなの……俺が言うのは烏滸《おこ》がましいですか」

 洋くんの目も、涙に濡れていた。
  
 僕の苦しみは、ずっと僕の心の中に閉じ込めたままだった。

「……もう随分前のことだ。アイツとの因縁は……高校時代に達哉に辞書を返そうと、あいつの家に行ったんだ。達哉は風呂に入っていたので部屋で待ていると克也がやってきて、いきなり押し倒された。胸を露わにされ耳朶に舌を入れられ股間を揉み解されて……女性と経験もなかった僕には、一体何が起きているのかすぐには分からなかった。ただ嫌悪感で気絶しそうだった」

 洋くんが僕を抱きしめてくれる。だから話せる……誰にも話したことがない、流が助けに来るまでにされたことを。

「翠さん、あなたは何も悪くないです。抵抗出来ないのは尤もです。そんな状況では口を塞がれなくても、声なんて恐怖で出なかったでしょう」
「あ……洋くんも……? そうだったの」
「同じです。俺も義父にソファに押し倒されて……翠さん、他には?」

 どうして? どうしてだろう。洋くんになら恥を捨てて話せるのは、洋くんが同じ方向から寄り添ってくれるからなのか。

 流……お前はここまで見越していたのか。

 お前の覚悟……僕が受け止めなよう。

「それからずっと避けていたのに、流の高校の卒業式に向かう途中……克哉と再会してしまい、公園に連れ込まれ熱い煙草を胸に押しつけられた。痛くても耐えた……流に被害があってはならないと、僕が黙っていればいいと思った。それから1年後、僕は初めて克哉に抵抗したんだ」

 洋くんが、ハッと顔を上げた。

「そうしたら……もっと酷いことになったのでは?」
「そうだ……洋くんも」
「俺は義父に……やられ……監禁されました」
「な……なんてことを……、君も僕も何も悪くない。ただ守りたい人がいただけなのに」
「そうです。それを逆手に取って、懐柔しようとするヤツは最低だ」

 洋くんと心がしっかりと揃っていく。
 今なら思い出せそうだ、あの日あった全てを。
 もう今更だ……どんな結末でも受け入れよう。
 僕の隣には洋くんがいて、月影寺には、洋くんに心を託してくれた流と丈がいる。

 当時の声が聞こえてきて、ざわざわと鳥肌が立った。

『あーなんかむしゃくしゃする煙草はもうやめだ! 抱かせろよ。一年も待ったぜ』
『やめろっ! 嫌だ!』

 気絶して当時は何も思い出せなかった行為が蘇る。

 吐き気が込み上げるほどの屈辱を……僕は受けていた。
  
 そうか……口づけはあの時、もう既にされていたのか。
 指も突っ込まれていたのか。
 挿入されていないだけで、もう……最悪だ。

「はっ……僕はもうとっくに汚れていたのに、記憶の底に沈めて、初めてのような素振りで流に抱かれてしまったな。清らかなふりをして……とんだ人間だ。この前だって裸に剥かれて、入り口にはあいつのものが何度もあたり……うっ、うっ……」
「翠さん、俺を見て下さい。俺も当時同じことで嘆きました。し……死んでしまいたいとも……」

 その言葉にハッとした。

 どうしてやられた方ばかりが、こんなに苦しまないといけないのか。

 こんなのおかしい! 理不尽だ。

「翠さんも……俺も同じです。でも……俺たちは何も悪くない。堂々と生きていいのです!」
「洋くん……」

 同じ立場に陥ったことのある洋くんの言葉が、染み入った。

「堂々と生きていい……?」
「えぇ、清らかな道を歩んでいいのです。翠さんあなたが切り開く道は、目映いのです!」
「僕の歩む道が……綺麗だと?」
「翠さんには、流さんがいます。翠さんはひとりじゃない! あなたの哀しみを一緒に背負ってくれます。俺も……丈とそうやって生きています」
「りゅ……流……流に会いたい」

 最後の一言、それが本音だった。

「流に……会って、ちゃんと話したい。もう隠しきれない……僕を追い詰める過去を放ちたい……この傷も消して欲しい」

 胸元に手をあてて、嗚咽した。

 軋む床にポタポタと、涙の雨が降っていく。
 
「……その件ですが、火傷痕のことは、丈を頼っても?」
「あぁ……そうしたい」

 全部吐き出したら、心が軽くなって素直になれた。

「了解です。そろそろ……今日は戻りましょうか」
「ん……洋くん、君は大丈夫なの?」
「俺もすっきりしました。知らず知らずのうちに少し溜まっていたのかもしれません」
「洋くん……君が来てくれてよかった。君がいてくれて良かった。僕の……大切な弟」

 洋くんをギュッと抱きしめると、彼も僕を抱きしめてくれた。

「翠兄さん、俺は……あなたの弟でいいですか」
「当たり前だ。どこにも行かないでくれ」
「ずっと……一緒です。そうだ、今度は丈と流さんも一緒にここに来ましょう」
「そうだね。 ぜひそうさせて欲しい」

 海里先生の診察室をもう一度ぐるりと見渡した。

 白い革の椅子に、海里先生の幻が見える。

 柔和な笑み……懐かしい人だ。

『翠くん、その酷い火傷痕の原因を思い切って話してくれてありがとう。だがそうやっていつも心に溜めてばかりいると毒だぞ。弟さんにも話してみないか。彼ならきっと受け入れてくれると思うが』
『出来ません。絶対にそんなこと……』

 西洋の血が混ざった海里先生はお年を召していても、とても麗しい男性だった。だが浮ついた所はなく、柊一さんを一途に愛していた。
 
『そうか……今はまだ乗り越える壁は高いかもしれないが、君はいつかその先の景色を見たくなるよ。それまでは私でよければ相談に乗るし、その傷痕を目立たなくする手伝いも出来るから……いつでも頼りなさい。君とは不思議な縁を感じるよ。きっとどこかで繋がっているのだろうね』
 
  本当に……繋がっていたのですね、海里先生。

 





 補足 (回想シーンのリンクです)
**** 
『忍ぶれど』他サイト

届かない距離5 https://estar.jp/novels/25570850/viewer?page=42

別れ道 6 https://estar.jp/novels/25570850/viewer?page=54
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