重なる月

志生帆 海

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14章

追憶の由比ヶ浜 5

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 ガチャリ――

 鍵穴に差し込んだ鍵を回すと、重たい音を立てて扉が開いた。

 長い年月そこに留まっていた空気が、ふわりと広がったのを感じた。

 白い壁と白いカーテン。

 白い机に白いベッド。

 白の洪水だ。

 ここが当時、診療所として使われていたことが即座に理解出来る部屋の内装だった。

 壁には、白薔薇の油絵が掛かったままだった。

 ここは純白の世界だ。

 あぁ……なんと清らかな光に包まれているのか。
 
 最後にこの家に鍵をかけたのは、海里先生という方だったのだろうか。重い病が見つかり白金のお屋敷に戻られたと聞いたが、どのようなお気持ちだったのか。

 不思議だな。会ったこともない人たちの話なのに、俺の目には自然と涙が浮かんで来た。

「うっ……」
「翠さん?」

 隣からも小さな嗚咽が聞こえた。翠さんが泣きそうな顔をしている。

 いつも長兄として凜として颯爽として……人一倍頑張り屋だから、俺に涙を見せた事ないのに、必死に泣くのを堪える姿に切なさが募った。

「翠さん、大丈夫ですか。故人を偲ばれて流す涙は、ご供養になるのでは……」

 だから……今は泣いてもいいと思います。
 そう……そっと促した。

「洋くん、ごめん。ここには思い出が沢山あって……辛くてね」
「……とにかく座りましょう」

 かつて海里先生が座っていた白い革のゆったりとした椅子。その対面に置かれた白い長椅子に翠さんと並んで座った。

 俺は少し躊躇ったが、そっと翠さんの薄い肩を抱いてあげた。

 翠さんとはほぼ背格好も同じだから、まるでもう一人の自分のように愛おしく感じてしまった。

「洋くん……ありがとう」
「翠さん。あの……俺では頼りにならないかもしれませんが、今は……あなたに肩を貸すこと位は出来るようになりました」
「うん、うん……僕は……そんな洋くんに甘えてしまいそうだ。少しだけ昔話をしてもいいかな」
「もちろんです。当時、海里先生と何を話していたのですか」

 翠さんの目は、赤く充血していた。
 必死に堪える涙を、流させてあげたい。
 そっと促すように、翠さんの目元に触れた。

「翠さん、ここに溜まった涙をどうか解放してください。ここには俺しかいません。誰も見ていませんから……どうか泣いて下さい」
「う……っ」

 翠さんの美しい頬に、清らかな涙がこぼれ落ちる。

 一滴……二滴と。

 天窓から光が降り注いでいるので、まるで水晶の珠のようにも見えた。

 翠さんは俺の肩に額をあてて暫く泣いていた。

 泣くと言っても、声を殺し肩を震わす……切ない泣き方だった。

「洋くん、僕はね……聞いていると思うが……24歳で彩乃さんと結婚し、29歳で離婚したんだ。最初は彩乃さんのご実家の寺に婿養子のような形式で入り、すぐに薙が生まれた。最初の3年ほどは順調といえば順調だった。だが……」

 翠さんの話の端々には、いつも流さんがいた。

 常に流さんとの関係が付いてまわっていた。

 ずっと誰にも言えなかった……兄弟で求め合い、愛し合うことへの後ろめたさ。踏み切れずに煮え切らなかった想いで、翠さんの二十代~三十代前半はとても苦しいものだったにちがいない。

 それが痛い程、俺の心にも伝わってきた。やがて……翠さんは精神的な我慢が重なり、視力を失ったそうだ。

「月影寺に戻って来てからね……流は僕にとても優しくなったんだ」
「だから一時、流さんが月影寺の副住職として働かれていたのですね」
「そうなんだ。僕が逃げ出したツケを全部被ってくれて、そして目が見えない僕の手となり足となって。そんなある日、僕は静養先の葉山の海で溺れたんだ」
 
 その時、溺れた翠さんを助けて診察してくれたのが、偶然往診帰りだった海里先生だそうだ。

「この先は……洋くんだから話せることだよ。こんな風に流との歴史を語れるのは……君だからだ。海里先生には何故か一発で見破られたよ。僕が流を愛し、流が僕を愛しているのをね」
「最初からですか。鋭いですね」
「うん……後に先生のお宅にお邪魔した時に、柊一さんという恋人と暮らしているのを知って……先生とその方が心を寄り添い合って暮らしているのを目の当たりにして……海里先生は人の心にとても敏感な方だと悟ったよ」

 柊一さんというのは、白江さんの幼馴染みの男性だ。

「僕は海で溺れたのをきっかけに視力を回復した。だが……そこからは辛かったよ。流の顔がよく見えるが嬉しいのに、とにかく苦しくてね。その翌年……どの病院も休診のお盆休み中、流が突然高熱を出してしまい、僕は焦って海里先生の診療所を頼ったんだ。それが縁で、ここに個人的にお邪魔するようになったんだよ」

 翠さんの視線は、過去を彷徨っていた。

 当時を追憶しているようだ。

「では……当時、海里先生に流さんへの恋心を話していたのですか」
「先生は察していたかもしれないが、僕からは話さなかったよ」
「そうだったのですね」
「先生は外科の名医でね……僕は……」

 そこまで話して、翠さんは押し黙ってしまった。

 今日はここまでなのだろう。

 無理に掘り起こすのは禁物だ。

 翠さんが話したいことだけを、今は聞こう。

「この長椅子に座って、先生と話した日々が懐かしいよ。ある日……突然休診になってしまって、お別れを言えずに残念だった。僕も寺のお勤めが日に日に多忙になり少しずつ足が遠のいて、ようやく久しぶりに訪れた時には、もう先生は……まだ大切な相談の途中だったのに、悔やまれるよ」

 大切な相談? その相談とは何だったのか、気になるな。

 何か掴めそうで掴めない……思いだった。

「そうだ……洋くん、ここを出るとすぐに海なんだ。お昼は海辺で食べないか」
「いいですね」

 潮騒が心を急き立てるが、今は焦らない。

 翠さんの心の赴くままに、語って欲しい。

 言葉に出して放つと楽になる想いがあることに、自ら気付いて欲しいから。 
 
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