重なる月

志生帆 海

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14章

追憶の由比ヶ浜 2

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「どこに行くの?」
「実は昨日話した由比ヶ浜の家に行って見ようかと」
「そうだったのか。僕も行って見たかったから嬉しいよ」
「俺、待ちきれなくて」
 
   朝早くに流さんが思い詰めた顔でやってきて、翠さんと二人で由比ヶ浜の洋館に行ってきてくれないかと頼まれた。それに丈も同意してくれた。

 ふたりの真剣な眼差しに、俺は察した。 
 やはり……翠さんの状態が良くないのだと。

  あの事件は表向きはもう処理し終えたように見えているが、翠さんの身体に植え付けられた恐怖は、まだ完全に拭えていないのだろう。

 分かる……それは痛い程分かる!
 
  自分の意志と反し、他人に身体を蹂躙される屈辱。俺はその恐怖がどんなにしつこいものか知っている。あの日のうちに応急処置を流さんがしてくれたが、まだ……小さな棘が残っているのかもしれない。

 俺だって、かなり時間がかかった。
 最後はあの人と向き合って……丈も俺も本当に苦しかった。

 当時のことを思い出すと、胸がまだ痛むのが本音だ。

「そうだ! 洋くん、せっかくなら向こうでお昼を食べよう。あそこの和菓子やさんに寄ってくれるかな?」
「あ、はい」

『月下庵茶屋』

「あ、ここって、最中を持たせて下さったお店ですね」
「うん、そう。昔から贔屓にしているお店だよ。君たちの七夕の披露宴でも、ここの和菓子を手配したんだよ」
「ここのだったのですね」

 流さんが俺の希望を聞いて特別に用意した練切りは、月をイメージした淡黄蘗色のもので、更に夜毎に姿を変えていく月を模した干菓子も注文してくれた。

 とても上品な甘さで綺麗だったな。

 暖簾を潜ると、何故か黄色い悲鳴が響いた。

 な……何事?

「きゃああ……翠さんいらっしゃいませ♡ わぁぁ今日は洋服なんですね!」

 女性の店員さんが、俺と翠さんの顔を見て、顔を真っ赤にしていた。
 
  俺はこういうの慣れていないので気まずくて俯いてしまうが、翠さんは涼しげな笑みを湛えていた。

「やぁ、こんにちは。今日はお赤飯とおいなりさんを頂きたいんだけど、あるかな?」
「あ、はい。今作っています」

 小首を傾げて問う翠さんの色気は半端ない。
 禁欲的な袈裟姿だったら、卒倒ものだろう。

 店員さんが中に引っ込むと、入れ替わりに白髪のおばあさんが出てきた。

「あらあら、すいちゃん。今日はおでかけかい?」
「はい、海まで」
「まぁぁ、可愛い子とデートかい。ふふふ」
「ン? あぁ弟ですよ」
「あらぁ、いつの間にこんなに大きな弟さんが。どれどれ」

 おばあさんが俺の顔をしげしげと見つめる。

 翠さんに堂々と『弟ですよ』と言ってもらえたのは嬉しいが、恥ずかしい。

 ところで……『すいちゃん』と呼ばれる翠さんって、なんだか可愛いな。

「ふぅん、どことなく似ているね。すいちゃんの雰囲気に」
「そうでしょう。僕の弟ですからね」
「はいはい。ほら、あまいものもたべないとだめだよ」

 おばあさんはおいなりさんにお赤飯、そして美味しそうなあんこの付いた白玉団子をつめてくれた。

「あら。 今日はりゅうちゃんがお留守番?」
「はい、僕の代わりに」
「じゃあご褒美もいるね。りゅうちゃんのすきな最中をおまけしとくよ」
「ありがとうございます」
「そちらの弟さんの名前は?」
「あ……洋です」

 急いで答えると、おばあさんがしわしわの手で、俺の頬に触れてくれた。

「ようちゃん、よかったね。すいちゃんもりゅうちゃんも、やさしいおにいさんだよ。仲良くやるんだよ」
「あ、はい!」

『ようちゃん』とは、俺のことだ。この歳になって『ちゃん』付けで呼ばれるなんて、照れ臭い。でも、もしも白江さんと幼い頃に交流があったら、こんな風に呼ばれていたのかもしれない。そう思うと、ポカポカした心地になった。

 ****

「白江さん、今日は妻が戻って来ているので、一緒に我が家でアフタヌーンティーをしませんか」
「まぁ! 春子ちゃんは相変わらず日本中の片田舎を飛び回っているのね」
「はは……そうです。彼女は今は、民俗学者ですからね」
「本当に、立派よね」
 
 雪也さんに正式なお茶に誘われて、久しぶりにとても華やいだ気持ちになったわ。

 白いドレスに着替え、久しぶりに冬郷家の中庭にお邪魔した。

 春の陽射しが降り注ぐ瀟洒な洋館は、今も健在ね。もう少ししたら白薔薇が咲き乱れるでしょう。ここの白薔薇は我が家のより更に見栄えがいいので、洋にも見せてあげたいわ。

「相変わらず素敵なお庭ね」
「庭師の腕がいいですからね」

 かつてここで……二人の娘が走り回り、和やかな時間を過ごしたわ。

 もう大昔の話。あの頃の私はまだ20代……今はもう70代。あの時10代だった雪也さんも、もう60代で……海里先生に柊一さんはもうこの世にいないなんて不思議ね。そして夕も親より先に逝ってしまったなんて……無情だわ。

  記憶の彼方に、朝と夕の幼い姿が映った。

 白いワンピースに麦わら帽子。ふたりで仲良く手を繋いで走り回っていたわね。夕はすぐに疲れてしまうけれども、朝は元気一杯で、しまいには桂人くんに木登りを習い出して慌てて止めたわ。

『あーちゃん、だめよ!』
『ゆうちゃん、いらっしゃい』

 娘達の幼い頃の呼び名が、今はとても懐かしい。

 洋の小さい頃は、やっぱり『ゆうちゃん』に似ていたのかしら。
 きっと似ていたわよね。
 もしもその頃のあなたに出逢えていたら……私はきっとこう呼んだはずよ。

『ようちゃん』……とね。
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