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13章
正念場 17
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「さてと書類は揃ったわ。雪也さんが今日は立ち会ってくれるのよね。ありがとう。心強いわ」
あれから一週間は、あっという間に過ぎた。
こんなにも充実した忙しい時間は久しぶりで、楽しい程だった。
人を雇って夕の部屋を綺麗に掃除してもらい、それから弁護士の先生を呼んで、相続の手続きの書類を急いで揃えてもらったの。
夕が駆け落ちしてしまった時に、カンカンに怒った主人が、夕を※『推定相続人の廃除』という扱いにしようと思ったけれども、そう簡単には認められなくて、そのままうやむやになっていたのよね。
(※推定相続人の廃除とは被相続人対して虐待、重大な侮辱その他著しい非行をした場合、被相続人の意思に基づいて推定相続人から相続資格を奪うという制度)
どうして主人が亡くなり相続が発生した時に、夕をすぐに探さなかったのかしら。お葬式などで茫然としてしまっていたのね。私という人間は、いつからこんなに無気力な人間になってしまったのかしら。
若い頃の私は、狭い世界でも、自分らしく生きようと両手を伸ばして生きていたのに。
さぁ……書類は整ったわ。
夕にはもう財産を譲れないけれども、あの子の血を色濃く受け継ぐ息子がいてくれて本当に良かったわ。
「ねぇ雪也さん……あの子は『洋』という名前なのよね」
「そうですよ。とても優しい青年ですから、安心して下さい」
「えぇ……私、あの子を怪我させてしまったことを悔いているの。怪我は大丈夫かしら。心配で心配で……」
「いい治療を受けたようですから、だいぶ綺麗になっていましたよ。もう下に到着していますよ」
「そうなのね! 良かった……私も早く会いたいわ」
私の心は以前とは別人のように、孫に会うことを望んでいた。
「白江さん……彼は確かにカフェに到着しましたが、その……」
ところが、雪也さんが何か言い淀んだので気になった。
「なあに、どうしたの?」
「……実は洋くんはひとりで来たのではなく、連れがいて」
「連れ? こんな大切な日に連れてくるなんて……それは誰なの?」
もしかして洋くんは結婚していたのかしら?
していてもおかしくない年頃よね。
まさか奥さんと一緒なのかしら。
「直接話すそうなので、どうか聞いてやってください。二人とも立派な青年ですよ」
「せ……青年ですって? ……分かったわ」
****
白江さんの様子は落ち着いていた。この一週間は、まるで二人のお嬢さんが幼い頃のように生き生きとしていた。
『何か目的をもって成すべき事がある』ということは、人に良い影響を与えるのだな。
ご主人を亡くし長女の朝さんとも疎遠になっている白江さんは、もう長い間、笑うこともなく覇気のない日々を送っていたから、久しぶりに彼女の明るい笑顔を見られて安堵した。
白江さんには幼い頃から、ずっとお世話になってきた。
僕が幼い頃は……病弱で学校にも行けない日々の遊び相手になってくれ、僕が結婚してからは家族ぐるみで付き合った。白江さんは春馬をまるで自分の息子のように可愛がってくれ、僕の妻にも、ありとあらゆる知識を授けてくれた恩人だ。
だからこそ……今度は僕が役に立ちたい。
白江さんは僕の兄の幼馴染で、お互いの家は華族に繋がる由緒正しい家柄だったが、時間差で零落し財力を失い彷徨った時期がある。お互いの両親の早死も左右した。
兄さまが、その躰を売ろうとする程に冬郷家はひっ迫し、見てはいられない程だった。一緒に死を望まれたこともあった。そんな兄さまを救ったのが海里先生だった。
彼は……兄さまにとって本物の運命の相手だった。
海里先生が同性だとか、そういことは、僕には全く問題なかった。とにかく僕のために苦しんだ兄さんが見つけた幸せを、応援したかった。
何故だろう……?
どうして先程から、海里先生のことばかり思い出すのか。
おそらく洋くんが連れて来た連れの男性が、若かりし頃の海里先生の姿を彷彿させるからだろう。彼も……海里先生も、白衣の似合う医師だった。
それにしても、兄さまは、生涯幸せだった。
海里先生に愛され守られて、歳を重ねた。
きっと……連れの男性も海のように広く深い心で、洋くんを愛しているのだろう。
いずれにせよ、今度は上手くいくだろう。
洋くんを許す白江さんの姿を、早く見たい。
若い頃、僕の背中を強く押してくれた白江さんに会いたい。
そして残された余生をゆったりと過ごす話し相手として、彼女の傍にいてあげたい。
そんな予感で満ちた……優しい春の日だった。
補足
****
雪也さんのお兄さんのエピソードはこちらから
→『まるでおとぎ話』
雪也さん目線で『まるでおとぎ話』を描いた作品はこちら
→『おとぎ話を聞かせてよ~』
あれから一週間は、あっという間に過ぎた。
こんなにも充実した忙しい時間は久しぶりで、楽しい程だった。
人を雇って夕の部屋を綺麗に掃除してもらい、それから弁護士の先生を呼んで、相続の手続きの書類を急いで揃えてもらったの。
夕が駆け落ちしてしまった時に、カンカンに怒った主人が、夕を※『推定相続人の廃除』という扱いにしようと思ったけれども、そう簡単には認められなくて、そのままうやむやになっていたのよね。
(※推定相続人の廃除とは被相続人対して虐待、重大な侮辱その他著しい非行をした場合、被相続人の意思に基づいて推定相続人から相続資格を奪うという制度)
どうして主人が亡くなり相続が発生した時に、夕をすぐに探さなかったのかしら。お葬式などで茫然としてしまっていたのね。私という人間は、いつからこんなに無気力な人間になってしまったのかしら。
若い頃の私は、狭い世界でも、自分らしく生きようと両手を伸ばして生きていたのに。
さぁ……書類は整ったわ。
夕にはもう財産を譲れないけれども、あの子の血を色濃く受け継ぐ息子がいてくれて本当に良かったわ。
「ねぇ雪也さん……あの子は『洋』という名前なのよね」
「そうですよ。とても優しい青年ですから、安心して下さい」
「えぇ……私、あの子を怪我させてしまったことを悔いているの。怪我は大丈夫かしら。心配で心配で……」
「いい治療を受けたようですから、だいぶ綺麗になっていましたよ。もう下に到着していますよ」
「そうなのね! 良かった……私も早く会いたいわ」
私の心は以前とは別人のように、孫に会うことを望んでいた。
「白江さん……彼は確かにカフェに到着しましたが、その……」
ところが、雪也さんが何か言い淀んだので気になった。
「なあに、どうしたの?」
「……実は洋くんはひとりで来たのではなく、連れがいて」
「連れ? こんな大切な日に連れてくるなんて……それは誰なの?」
もしかして洋くんは結婚していたのかしら?
していてもおかしくない年頃よね。
まさか奥さんと一緒なのかしら。
「直接話すそうなので、どうか聞いてやってください。二人とも立派な青年ですよ」
「せ……青年ですって? ……分かったわ」
****
白江さんの様子は落ち着いていた。この一週間は、まるで二人のお嬢さんが幼い頃のように生き生きとしていた。
『何か目的をもって成すべき事がある』ということは、人に良い影響を与えるのだな。
ご主人を亡くし長女の朝さんとも疎遠になっている白江さんは、もう長い間、笑うこともなく覇気のない日々を送っていたから、久しぶりに彼女の明るい笑顔を見られて安堵した。
白江さんには幼い頃から、ずっとお世話になってきた。
僕が幼い頃は……病弱で学校にも行けない日々の遊び相手になってくれ、僕が結婚してからは家族ぐるみで付き合った。白江さんは春馬をまるで自分の息子のように可愛がってくれ、僕の妻にも、ありとあらゆる知識を授けてくれた恩人だ。
だからこそ……今度は僕が役に立ちたい。
白江さんは僕の兄の幼馴染で、お互いの家は華族に繋がる由緒正しい家柄だったが、時間差で零落し財力を失い彷徨った時期がある。お互いの両親の早死も左右した。
兄さまが、その躰を売ろうとする程に冬郷家はひっ迫し、見てはいられない程だった。一緒に死を望まれたこともあった。そんな兄さまを救ったのが海里先生だった。
彼は……兄さまにとって本物の運命の相手だった。
海里先生が同性だとか、そういことは、僕には全く問題なかった。とにかく僕のために苦しんだ兄さんが見つけた幸せを、応援したかった。
何故だろう……?
どうして先程から、海里先生のことばかり思い出すのか。
おそらく洋くんが連れて来た連れの男性が、若かりし頃の海里先生の姿を彷彿させるからだろう。彼も……海里先生も、白衣の似合う医師だった。
それにしても、兄さまは、生涯幸せだった。
海里先生に愛され守られて、歳を重ねた。
きっと……連れの男性も海のように広く深い心で、洋くんを愛しているのだろう。
いずれにせよ、今度は上手くいくだろう。
洋くんを許す白江さんの姿を、早く見たい。
若い頃、僕の背中を強く押してくれた白江さんに会いたい。
そして残された余生をゆったりと過ごす話し相手として、彼女の傍にいてあげたい。
そんな予感で満ちた……優しい春の日だった。
補足
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雪也さんのお兄さんのエピソードはこちらから
→『まるでおとぎ話』
雪也さん目線で『まるでおとぎ話』を描いた作品はこちら
→『おとぎ話を聞かせてよ~』
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