重なる月

志生帆 海

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13章

正念場 3

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「大丈夫では……なさそうだ」
「いえ……それより床を汚してしまい、すみません。それに……お騒がせして……申し訳ありませんでした」

 頰の傷はかなりヒリヒリ、ズキズキしたが、大切なカフェの床をガラスの破片と俺の血で汚してしまった方が気になった。

「謝らなくていい。ふぅ……君はお人好しだね。春馬、彼を早く病院に連れて行ってあげなさい。綺麗な顔に傷が残っては大変だ」
「はい、父さん。俺もそう思っていました」
「洋さん、立てる? 傷が深そうだ。早く病院に行こう」
「いや……でも大丈夫ですので、どうか気にしないで下さい」
「おいおい、こういう時は甘えるもんだよ。たとえ君が良くても……君の大切な家族が心配するだろうし」

 そう言われて、真っ先に丈の心配そうな顔が……それに翠さんや流さん、薙くんの顔も次々と浮かんでくる。安志も涼も思いだした。

 こんな時にすぐに浮かぶ顔がいくつもあるのは、打ちひしがれた俺の慰めになった。確かにこのまま帰宅したら、さぞかし驚かれるだろう。それは避けたい。

「ですが……」
「いいから、言うこと聞いて」

 強い口調で言われ、結局そのまま春馬さんの運転で都内の形成外科へと連れて行ってもらう事になった。

「ちゃんとタオルで押さえて止血して。さぁ急ごう!」
「……はい」

……

 先ほどの話は、確かに僕にとってもショックな内容だった。

 あの美しい双子の娘さんのことなら、僕も良く覚えている。とても対照的で……印象深い姉妹だったし、幼い頃はよく子守りを手伝った。

 我が家に遊びに来た時は、朝さんは活発に屋敷中を走り回り、兄さまたちと追いかけて……一方、夕さんは白江さんから離れなかった。

 長女の朝さんは名前の通り、生命力に溢れ生き生きとして、少し男勝りの強気な性格だった。一方、妹の夕さんは、昔から大人しく内向的で儚げな……夕顔のようなひっそりとした女性だった。

 まさか……あの夕さんがもう15年も前に亡くなっていたとは……正直驚いた。人の命は儚いものだ。

 お姉さんの朝さんは健康で逞しかったが、妹の夕さんは弱々しく病気がちだったので、きっと裕福な家に嫁ぎ、お手伝いさんがいるような優雅で静かな結婚生活をすると思っていた。

 だから……夕さんの方が、家庭教師の男性と駆け落ちしたと聞いた時は驚いた。夕さんの秘めたる意志の強さ、芯の強さを知った。

 さっきのあの青年は……確か洋くんと言ったか。見た目は夕さんにそっくりで儚げだが、芯が強い所も……夕さんに似ていると思った。

 春馬が運転する車を見送ってから、僕は二階に上がった。

「……白江さん……入っていいかな」
「雪也さん……」
「少し話をしても?」
「……えぇ」

 白江さんは双眸からとめどなく涙を流し、後悔で押し潰されそうな表情で縋るように僕を見上げた。

「あ、あのね……信じられないの。あの子が……夕がもうこの世にいないなんて! その事実を夕にそっくりな顔をした息子の口から告げられて……頭の中が真っ白になって。あぁ……なんてことなの。私は実の娘が死んだことも知らずに、のうのうと生きていたのね。どうしてこんな事になってしまったの……」

 白江さんの深い皺に涙が溜っていく。苦悩の表情だ……。

「あの青年に罪がない事は、白江さんだって理解しているのに……気が動転したのですね」

 どうやら漸く……白江さんも正気になったようだ。

「見苦しい所を見せてごめんなさい……彼にも悪いことをしたわ。あの……彼は今どこに?」
「……病院に行かせました」

 白江さんは、彼が怪我したことに気付いてなかったようだ。

「えっ! それは……私のせいなのね。私が癇癪を起こして床に……あぁ、なんてことをしてしまったのかしら」

 10歳の年上の女性に向かってだが、はっきりと事実を告げた。

「割れた写真立てのガラス片が、彼の綺麗な頰を掠めたのです。頬が深く切れてしまいましたよ。それで……これをカフェで拾ったので、置いて置きます。どうするかは白江さん次第ですよ。ただもう必要のない意地を張らないで欲しいです。彼は……夕さんの大事な忘れ形見ですよ。どうか大切にしてあげて下さい。彼の中にあなたの大事な娘……夕さんがいるのに……」

 僕は泣き崩れて震える白江さんの手元に、あの青年が渡そうとしていた白い封筒と、床に散らばったシーグラスをいくつか置いて、部屋を出た。

 どうか白江さん……冷静なご判断を。

 若かりし頃のあなたは判断力に優れ……僕に何度も何度も力をくれました。

 あの頃の気持ちを思いだして下さい。
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