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13章
慈しみ深き愛 6
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近くのパーキングに車を停め、洋の実家の住所と一致する一軒家を訪れた。
~創作フレンチレストラン 月湖tukiko~
どうやらここは、今はレストランになっているようで、入り口の門の脇に看板が出ていた。
果たして洋の祖母は、この家に住んでいるのか。ちらりと横を見ると、洋はひどく緊張した面持ちだった。
「どうする? 入るか。またにするか」
「ん……せっかくだから入ってみよう。お腹も空いたしな」
洋は、ぎこちない笑顔を作った。
無理することないのに……「今日はもう帰ろう」と言ってやるのがいいのか。それとも、その頑張りを後押しすべきなのか。
どちらへ進むのが最善なのか。
先のことなんて分からない。
進んでみないと分からない。
だから心の赴くままに行くしかない。
進んだ先で洋が悲しむようなことがあったら……その時はその時だ。私が傍にいるのだから、洋の行きたい道を自由に進むといい。洋が必要な時にさっと手を差し伸べられる距離でいたい。
「丈、ありがとうな。無茶なことをしている自覚はある。でもここまで来たら、中に入ってみたい。レストランになっているなんて想定外で……」
「あぁ入ってみよう。それに、とても美味しそうなメニューだ」
「うん! ありがとう」
洋の帰国は昼便だったので遅いランチとして丁度いい時間だ。いずれにせよ、どこかで食事を取る予定だった。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、黒いエプロンに白いシャツの若いウェイターだった。優し気な顔立ちで爽やかで品の良い青年だった。
季節が巡れば……美しい薔薇が咲くだろう緑のアーチをくぐり、中庭に入ると見事な庭園が広がっていた。都心にはあり得ない広大な敷地だ。ゆうに300坪以上はありそうだ。
早咲きの桜が今にも咲き出しそうに蕾を綻ばせており、古びた煉瓦の建物には蔦が絡まり、とてもいい雰囲気を醸し出していた。
「お客様は、こちらのご利用は初めてでいらっしゃいますか」
「ええ。あの……ここはいつからレストランに?」
「そうですね。もう二十年ほど前になります。このレストランは向いの洋館のオーナーが経営しているんですよ。ちなみに僕はその息子です。あちらのティーサロンはもっと歴史がありますよ」
「へぇ……」
確かに向いにもよく似た洋館があって、同じようにティールームとして一部を解放しているようだった。
洋はもう我慢できなかったようで、唐突に質問した。
「そうなんですね、あの……この洋館に人は住んでいるのですか」
「え? お知り合いですか」
「あっ……いや……その……とても立派な洋館だから、もともとの持ち主はどんな方だろうと思ったもので、すみません。立ち入ったことを」
「いえいえ、こちらの洋館の持ち主の大奥様なら、もちろんご健在ですよ。まぁ滅多にレストランには降りていらっしゃいませんが」
「……そうなんですね」
そこまで聞いて……今日はもう充分だと、洋の表情が物語っていた。
「丈、今日はここでランチするだけでいい。また来るから」
「そうだな。そうしようか」
「ではお席をご用意しますね。庭が見えるテラス席はいかがですか」
「お願いします」
サンルームのようになった席からは、洋館の中庭が一望出来た。洋の母親もかつて、この庭で遊んだりしたのだろうか。涼の母親と一緒に無邪気に駆け回ったのだろうか。
洋には何の記憶もない世界だが、何故かしっくりこの庭に溶け込んでいた。
それは洋の美しい顔立ちが、母親に似ているからだろうか。洋の瞳は今とても穏やかで、優しい眼差しで外を見つめていた。
穏やかな昼下がり。
運ばれてきたポタージュスープは、どこまでも優しい味わいだった。
****
「りゅ……流、離せっ! 駄目だ……薙がいるのに」
お決まりのように翠が抵抗する。いつだって薙のことを気にかけているのが、ちょっと憎たらしいな。
「そんなこと言ったって仕方ない。翠が余計なことを口走るからだ」
「ごっ……ごめん。ちょっと動揺して」
「分かる……見えない世界は怖かったろう。とても」
宥めるように胸元に沈めた翠の形のよい頭を撫でてやると、翠は感極まったように嗚咽した。
「うっ……う……」
「おっおい、馬鹿、泣くな! また俺が苛めているみたいだろう」
すると今度は、くすっと小さく笑ってくれた。
「……流、お前はそんなことしない。したことなんてないのに……」
「いや、したじゃないか。翠が結婚していた間……俺はどこまでも卑劣な男だったじゃないか。翠のことを無視して口も聞かない、目も合わせない、最低最悪なことをし続けたのを忘れたのか」
自虐的に言い放つと、翠が驚いたように顔をあげた。
「流、もしかしてずっと気にしていたのか。そんなこと……あれは僕が招いたことだ。流に責任なんてないのに。僕が逃げたからだ。結婚というものに……」
「だが……おれのせいで、あの時、翠は……」
「流、もういいんだよ」
しゃべろうとする口を、今度は翠に塞がれた。翠の暖かな唇の感触が心地よい。俺の呼吸も声も、全部翠が吸い込んでいく。
「……お人好し過ぎるのが、翠の悪いところだ」
そう言いながら、「でもそんな所も好きだよ。翠……」と囁いてやった。
「とにかく、今は眼に異常はないんだな?」
「うん大丈夫だ。さっき一瞬だけだったみたいで」
「何か変化があったらすぐに言うように。あぁそうじゃない。明日病院へ行こう。丈にも相談しないと」
「はぁ……大袈裟だな、流は。それより洋くんたちが帰ってくるんだよね。夕食を一緒に食べられるかな」
「あぁ今日はちらし寿司にしよう。何しろ我が家の姫の帰国だからな」
「また! そんな風に言うと洋くんが怒るよ」
翠が聞きたがった克哉の件から話を反らしたくて、必死だった。
あいつは結局、何度かの精神鑑定の結果、刑事責任を問えないと不起訴になってしまい……都内の精神病院に入院しているなんて、絶対に翠が知ってはならない。
~創作フレンチレストラン 月湖tukiko~
どうやらここは、今はレストランになっているようで、入り口の門の脇に看板が出ていた。
果たして洋の祖母は、この家に住んでいるのか。ちらりと横を見ると、洋はひどく緊張した面持ちだった。
「どうする? 入るか。またにするか」
「ん……せっかくだから入ってみよう。お腹も空いたしな」
洋は、ぎこちない笑顔を作った。
無理することないのに……「今日はもう帰ろう」と言ってやるのがいいのか。それとも、その頑張りを後押しすべきなのか。
どちらへ進むのが最善なのか。
先のことなんて分からない。
進んでみないと分からない。
だから心の赴くままに行くしかない。
進んだ先で洋が悲しむようなことがあったら……その時はその時だ。私が傍にいるのだから、洋の行きたい道を自由に進むといい。洋が必要な時にさっと手を差し伸べられる距離でいたい。
「丈、ありがとうな。無茶なことをしている自覚はある。でもここまで来たら、中に入ってみたい。レストランになっているなんて想定外で……」
「あぁ入ってみよう。それに、とても美味しそうなメニューだ」
「うん! ありがとう」
洋の帰国は昼便だったので遅いランチとして丁度いい時間だ。いずれにせよ、どこかで食事を取る予定だった。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、黒いエプロンに白いシャツの若いウェイターだった。優し気な顔立ちで爽やかで品の良い青年だった。
季節が巡れば……美しい薔薇が咲くだろう緑のアーチをくぐり、中庭に入ると見事な庭園が広がっていた。都心にはあり得ない広大な敷地だ。ゆうに300坪以上はありそうだ。
早咲きの桜が今にも咲き出しそうに蕾を綻ばせており、古びた煉瓦の建物には蔦が絡まり、とてもいい雰囲気を醸し出していた。
「お客様は、こちらのご利用は初めてでいらっしゃいますか」
「ええ。あの……ここはいつからレストランに?」
「そうですね。もう二十年ほど前になります。このレストランは向いの洋館のオーナーが経営しているんですよ。ちなみに僕はその息子です。あちらのティーサロンはもっと歴史がありますよ」
「へぇ……」
確かに向いにもよく似た洋館があって、同じようにティールームとして一部を解放しているようだった。
洋はもう我慢できなかったようで、唐突に質問した。
「そうなんですね、あの……この洋館に人は住んでいるのですか」
「え? お知り合いですか」
「あっ……いや……その……とても立派な洋館だから、もともとの持ち主はどんな方だろうと思ったもので、すみません。立ち入ったことを」
「いえいえ、こちらの洋館の持ち主の大奥様なら、もちろんご健在ですよ。まぁ滅多にレストランには降りていらっしゃいませんが」
「……そうなんですね」
そこまで聞いて……今日はもう充分だと、洋の表情が物語っていた。
「丈、今日はここでランチするだけでいい。また来るから」
「そうだな。そうしようか」
「ではお席をご用意しますね。庭が見えるテラス席はいかがですか」
「お願いします」
サンルームのようになった席からは、洋館の中庭が一望出来た。洋の母親もかつて、この庭で遊んだりしたのだろうか。涼の母親と一緒に無邪気に駆け回ったのだろうか。
洋には何の記憶もない世界だが、何故かしっくりこの庭に溶け込んでいた。
それは洋の美しい顔立ちが、母親に似ているからだろうか。洋の瞳は今とても穏やかで、優しい眼差しで外を見つめていた。
穏やかな昼下がり。
運ばれてきたポタージュスープは、どこまでも優しい味わいだった。
****
「りゅ……流、離せっ! 駄目だ……薙がいるのに」
お決まりのように翠が抵抗する。いつだって薙のことを気にかけているのが、ちょっと憎たらしいな。
「そんなこと言ったって仕方ない。翠が余計なことを口走るからだ」
「ごっ……ごめん。ちょっと動揺して」
「分かる……見えない世界は怖かったろう。とても」
宥めるように胸元に沈めた翠の形のよい頭を撫でてやると、翠は感極まったように嗚咽した。
「うっ……う……」
「おっおい、馬鹿、泣くな! また俺が苛めているみたいだろう」
すると今度は、くすっと小さく笑ってくれた。
「……流、お前はそんなことしない。したことなんてないのに……」
「いや、したじゃないか。翠が結婚していた間……俺はどこまでも卑劣な男だったじゃないか。翠のことを無視して口も聞かない、目も合わせない、最低最悪なことをし続けたのを忘れたのか」
自虐的に言い放つと、翠が驚いたように顔をあげた。
「流、もしかしてずっと気にしていたのか。そんなこと……あれは僕が招いたことだ。流に責任なんてないのに。僕が逃げたからだ。結婚というものに……」
「だが……おれのせいで、あの時、翠は……」
「流、もういいんだよ」
しゃべろうとする口を、今度は翠に塞がれた。翠の暖かな唇の感触が心地よい。俺の呼吸も声も、全部翠が吸い込んでいく。
「……お人好し過ぎるのが、翠の悪いところだ」
そう言いながら、「でもそんな所も好きだよ。翠……」と囁いてやった。
「とにかく、今は眼に異常はないんだな?」
「うん大丈夫だ。さっき一瞬だけだったみたいで」
「何か変化があったらすぐに言うように。あぁそうじゃない。明日病院へ行こう。丈にも相談しないと」
「はぁ……大袈裟だな、流は。それより洋くんたちが帰ってくるんだよね。夕食を一緒に食べられるかな」
「あぁ今日はちらし寿司にしよう。何しろ我が家の姫の帰国だからな」
「また! そんな風に言うと洋くんが怒るよ」
翠が聞きたがった克哉の件から話を反らしたくて、必死だった。
あいつは結局、何度かの精神鑑定の結果、刑事責任を問えないと不起訴になってしまい……都内の精神病院に入院しているなんて、絶対に翠が知ってはならない。
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