重なる月

志生帆 海

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13章

解き放て 23

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 タルトンネ──

 『月を望む街』という美しい名前とは裏腹に、どこもかしこも劣悪な環境だった。急傾斜の坂道に立つプレハブの家並みだ。

 今日Mikaさんと訪れたこの土地は、特に昔の面影を色濃く残していた。

 Mikaさんは20代だから、その母親が駆け落ちしたというのは恐らく20数年前になるのだろう。

 ここはまるで……時が止まってしまったようだ。

 一軒一軒いつものように、MIKAさんの母親の若い頃の写真を見せながら聞き込みをした。母親は日本に帰化しておりMikaさんは韓国名を教えてもらっていなかったので、探すのに難航している。

 結局……こうやって人海戦術になっているのは、そういう理由からだ。

 今日も何軒も在宅の家に写真を見せ問い合わせてみたが、全く収穫はなかった。しかも随分と足元にごみや瓦礫が転がっていて歩きにくい場所だ。足元が良く見えないじゃないか。

「MIKAさん、そこに段差が……足元に気を付けて!」
「あっ! きゃっ」

 注意した矢先に……段差でバランスを崩したMIKAさんが、俺の方にドサッと倒れて来た。なんとか地面に転がってしまう前に支えることは出来たが、どこか痛そうに眉をしかめていた。

「だっ、大丈夫?」
「どうしよう。足をくじいちゃったかも……」
「えっ、それは大変だ。ちょっとここに座って」
「えぇ……」

 コンクリートの台のような所に座らせて、MIKAさんの足首を確認すると、どうやら軽い捻挫をしてしまったようだ。

「まずいな……少しひねってしまったようだ。どうしよう……歩けるか」
「う……ん」

 MIKAさんが足を地面にトンっと降ろすと、ズキンっと痛んだようで顔を大きくしかめた。

「すごく痛そうだ。タクシーでホテルに戻ろう。そこまで歩ける?」
「ううん……痛くて無理……困ったわ」
「じゃあ、俺がおぶるよ」
「え! そんなの恥ずかしいっ」

 MIKAさんは身長はそれなりにあるが、すらっとしているので、俺でもおぶってあげられると思った。

「いや……遠慮しないで、日が暮れるとこのあたりは物騒になるし、あまりこんな状態で長居しない方がいい。あの通りまでだから少しだけ我慢して。ほらっ乗って」
「じゃあ……本当に洋くん、ごめんなさい。洋くんの奥さんにも申し訳ないな」
「……大丈夫だよ。そんなこと心配しなくても」

 美香さんをおぶると変な感じがした。意識しないようにしても感じてしまう。うわ……女性ってこんなに柔らかいんだ。母さんにおんぶしてもらった記憶はないけど、母さんのことを思い出した。

 そういえば、父さんにおんぶされて街を歩いた記憶はある。おんぶされると視界がぐんと上にあがって、今まで見えなかったものが見えて面白かったな。

「うう……ごめんね、重たいでしょ」
「大丈夫だよ。軽いよ」
「洋くんって、意外と体力あるのね」
「そ、そうかな?」

 体力がついたのかもしれない。まぁ……あれだけ夜な夜な丈に求められたら、嫌でも体力が付くよな。まさかこんな所で役に立つとはな。

「あっ……え……あそこの家! あの壁って」
「えっ、何?」

 おんぶしていたMIKAさんが、突然すごく驚いた様子で指差した方向には、コンクリートの家が古いアパートが建っていた。

 五階建てくらいだろうか。一番上には掘っ立て小屋のようにボロボロの屋根裏部屋があり、目を凝らすと、その壁は一面水色で、しかも二羽の白い鳥の絵が描かれていた。

「鳥だわ……そうよ白い鳥! あの時……母が話していたわ。どうして今まで忘れていたのかしら」

****

「美香、ママはもう長くないわ。死んだらどうやって天国にいけばいいのかしら」
「いやだ。ママ……そんな弱気なことを言わないでよ」
「……小さい頃住んでいた家には二羽の白い鳥がいたの。その鳥なら天国に連れていってくれるかも……」
「もう、縁起でもないこと言わないで。もうその話は、なしよ」

****

「あそこかもしれない。母が暮らした家は……あの鳥のことかもしれない。洋くん、お願い! あそこに行ってみたいわ」
「分かった」

 何か深い事情がありそうだ。

 MIKAさんをおぶったまま階段を頑張って上った。人の気配がするので誰か住んでいそうだ。インターホンなんてないので、ドアをドンドンっと叩くと、中から中年の女性が出て来た。

「どなた?」
「あの……突然すいません。この女性のことを知りませんか」

 女性はまじまじと写真を見つめてから、震えだした。

「これは……私の妹のヨナだわ。どうして……この写真を……」

 ビンゴだ! とうとう見つけた!
 この女性は……美香さんのお母さんのお姉さんということなのか。

「本当ですか、私はあなたの妹のヨナさんの娘です」
「え? あの子の……? あの子は日本人の青年と行ってしまった。私達を置いて……遠くに」
「ごめんなさい。母は最期まで日本で暮らしました。……幸せでした」
「まさか……ヨナは亡くなってしまったの? なんてことかしら……私や両親が日本になんかに行っても幸せにはなれないと猛反対してしまったから、駆け落ちして出て行ってしまったの。そうだったのね……幸せに暮らせたのね」
 
 女性は涙を浮かべて、MIKAさんの頬に触れた。

「あなたがヨナの娘だなんて……信じられない。そう言えば似ているわ。若い頃のヨナに」

****

 MIKAさんが足をくじいていることを知ったおばさんは部屋にあげてくれ、湿布薬で治療をしてくれた。

「ありがとうございます。すごく効きそう」
「今晩はここに泊って行きなさい。足を無理に動かなさい方がいいわ。あなたのダンナさんと一緒に泊まっていいから」
「えっ」
「えっ」

 MIKAさんは慌てた様子だった。もちろん俺も!
 傍からみたらそんな風に見えるのかと、驚きもあった。

「洋くん……ごめん。一晩だけつきあって欲しいの。私通訳がないとおばさんと話せないし、母のことを、もっと知りたいの」
「うっ……うん……」
「だから一日だけダンナさんのふりしてくれない?」

(きっともうこの方とは簡単には逢えない気がするの。幸せな姿でお別れしたい。我儘言って、知り合ったばかりの洋くんを巻き込んでごめんなさい。旦那さんのふり……駄目かな?)

 小声で頭を下げて懇願されてしまった。

 確かにここは儒教の国なので、配偶者と言った方が泊まるのに問題がないのは分かる。そう言っておくのが流れ的に楽なのかもしれない。でも……そこだけはどうしても譲れなかった。

 丈が心配することはしたくない。だから通訳だと言うことと、ここまで来た経緯を韓国語で丁寧に説明したら、なんとか分かってもらえたのでほっとした。

 それにしても、こんな展開になるなんて……

 とりあえずKaiに電話して事情を説明した。Kaiがすごく心配したので、ここの住所やおばさんの名前などを告げざっと調べてもらい、問題なさそうなのでOKしてもらえた。

 その晩……マッコリを飲みながら、俺はMIKAさんとおばさんの昔話の間に入りずっと通訳し続けた。

 ボロボロの街だと思ったけれども、ここは、夜になれば月に手が届きそうな程近く……瓦礫の中の硝子が宝石箱のように月明かりを静かに反射し、美しい情景を生み出してた。

「そうだったので、ヨナは昨年……病気で亡くなったのね。私たち姉妹は小さい頃、約束したの。死ぬ時は、あの外壁の白い鳥が天国への道案内をしてくれるから、どんなに離れていても戻ってこよう。ここでまた逢おうとね……だから娘のあなたが訪ねてくれて嬉しいわ。ありがとう」

 そう言って涙を零した。

 その光景を見ながら、母のことを俺は密かに思った。MIKAさんのお母さんと同様に勘当された身の上だったのは知っている。その事実が重く、俺の方から母の実家のことを知ろうと思うことは一度もなかった。

 だが、本当にそうだったのだろうか。

 母の母は、腹を痛めて産んだ娘にもう一度今生で会いたいと思ったことはなかったのだろうか。もう間に合わないかもしれない。でも俺にはやるべきことがあるような気がして仕方がない。

 何故だか気が急いてしまう──



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