重なる月

志生帆 海

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13章

始動 3

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「うっ……」

 トイレに駆け込んだ途端に胃の中のものを全て吐いてしまった。もともと風邪をひいたせいで吐き気はあったのだ。でも……これは。

 洗面所で口を濯ぎながら、鏡に映る自分の顔をキッと睨みつけてしまった。

 こんなことで吐くなんて惨めだ。情けないぞ、翠。

 そう思うのに、躰に植え付けられるように染み込んだ記憶というものが厄介なのを、僕は知っている。

 もう長いこと僕は……克哉にいいようにされていた。

 あいつはサディズムだった。僕に身体的虐待を与えたり、精神的に苦痛を与えるとによって性的快感を味わっている奴だった。僕の心臓の下に何度も何度も押し付けられた煙草の火。治りかけるとまた呼び出され、火傷痕をチロチロと舌先で舐められる恐怖。

 あの日の……嫌悪と苦痛に歪む僕の顔を見ながら、あいつは目の前で自慰に耽っていた。

 今になって思えば、長い年月をかけていつ最後まで犯されるのかという恐怖と紙一重の所にいたのだ。当時は我慢すれば僕が黙っていればと、馬鹿みたいに必死に押し隠していた。

 ただ……事を荒立てたくなかった、
 それは今となっては、流を自分勝手な方法で守りたかっただけの行為。

 克哉の実家は『建海寺』……鎌倉でも五本の指に入ると言われる大きな寺で、この寺と月影寺の仲は、僕が生まれる前から非常に悪かった。一方的に月影寺が恨まれているようだったが、鎌倉内の寺院仏閣同士の争いは聞こえが悪い。とにかく達哉と克哉の両親が僕たちを嫌っているのは、折に触れて感じていた。何かのきっかけに全面戦争になりそうな程の危うい境界線だった。
 
 同じ鎌倉内の寺同士が仲違いしたのは何故かと、以前母に聞いたことがある。

 それは僕の先祖……湖翠さんと流水さんの時代に、建海寺のお嬢さんとのお見合い話を無下に断ったのが発端だとは驚いた。まさかその因縁がここまで尾を引くとは。

 だが、唯一達哉だけは違った。そういう憎しみの縁は俺達の代でもうおしまいだ。友達でいようと言ってくれた。その言葉が嬉しかったし、心強かった。

「翠さん……大丈夫ですか。俺の不注意です。すみません」

 気が付くと洋くんが背後に立っていた。ひどく思い詰めた心配そうな顔をしている。あぁ、君にこんな顔をさせるつもりではなかったのに、すまない。

「……大丈夫だよ」
「無理しないでください。俺には分かるんです。スマホの音に何かを思い出してしまったのですね……アイツの気配を感じるものを」
「……」
「俺も実は……そういうことが、今でもあるんです」

 それは思いもよらない告白だった。

 もうすっかり洋くんは、それを乗り越えたと思っていたから。

「それは、本当にふとしたきっかけなんです。すれ違う人の煙草の匂いとか、ドアが突然ガチャっと開く音とか。もう普段は忘れているはずなのに……今の俺には必要のない記憶だから。でも厄介なんです。記憶って奴は……勝手になくなってくれなくて」
「洋くん」

 僕のために……辛い思い出を必死に話してくれる洋くんの健気な姿に心打たれた。

 そうだ。僕だけではない。

 遠い昔の夕凪も、洋くんも……あぁまさか湖翠さん……あなたは無事だったのか。一抹の不安が過っていく。

 でも、もうどうしようもないことだ。全部もう過去のことだ。僕は……今の僕の肉体を健全に保っていくことが最優先だ。

 だからこそ……今、僕の傍に洋くんがいてくれることは、本当に励ましになっている。

「洋くん……僕は囚われた過去の持ち主だ。この記憶を封じこめるのに必死なちっぽけな男だよ。幻滅した?」

「とんでもないです。俺は不謹慎な言い方かもしれないですが、俺の痛みを実感してくれる人が傍にいてくれて心強いです」

「……そうだね。僕たちはある意味、運命共同体みたいなものだね。たまに恥ずかしいが、さっきみたいなことになってしまうかもしれない。洋くんにだけは打ち明けておくよ」

「大丈夫です。俺には遠慮しないでください。気持ち悪い時は……さっきみたいに吐けば楽になるんです。身体が拒否反応しているのなら、物理的な方法でも何でもいいから、その原因をなくすことが大事です。それと……翠さんが俺を信頼し、信用してくれるのが分かって嬉しいです」

「うん、そうするよ。君は大事な弟だ。僕の光でもあるよ。僕の弟たちは僕にとって皆、光のような存在だ」
「光……」
「まるで夜明けの光のように大切な弟だよ」
「俺が、夜明けですか」

 洋くんと話しているうちに気持ちが落ち着いてきたので、台所の椅子に座った。洋くんはそんな僕に温かい紅茶を淹れてくれた。

「温かいね」

「少しさっぱりしたのならよいですが。夕食の準備は俺がしますから、翠さんはそこに座って見ていてください。今は独りにならない方がいいです」

「ん……」

 優しい気遣いに心が癒されていると、そこに袈裟姿の流がドカドカと入ってきた。

「はぁ~やっと終わった。えらく疲れたぜ。おーい洋くん、捗っているか。あれ? 翠兄さん、起きていて大丈夫なのか」

 流は僕を見るなり、真顔になり眉をひそめた。

 ……まずいな。

「……さっきより顔色が悪いな。どうした?」

 ほら、すぐに見つかってしまう。
 僕の些細な変化を、流が見逃すはずがない。

 でも今は、それがとても嬉しい。
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