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12章
堕とす 5
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朝起きた時、自分がどこにいるのか一瞬分からなかった。
「えっと……」
一面の窓に、生まれたての太陽が木漏れ日の隙間から朝を告げにやってくる。
小鳥の囀りも自然の光も、北鎌倉にやってきてから意識するようになったものだ。母さんと住んでいたマンションは、高層階で窓なんて滅多に開けなかった。
師走のひんやりとした空気で、頭は冷えるけれども、身体はふかふかの羽毛布団に包まれて温かいや。あっそっか、ここ洋さんの家だ。昨日勉強を教えてもらって、そのまま寝ちゃったのか。
隣を見ると、洋さんがすやすやと寝息を立てていた。
うはっ! 睫毛長いな。眠っている顔も本当に綺麗なんだな。
待てよ。これって丈さんにバレたら怒られそうだよな。いくら甥っ子だからって、大目に見てくれそうにないんだよな。あの人って……
一刻も早く、このダブルベッドから退散しよう!
それにしても幸せそうな寝顔だな。きっといい夢を見ているのだろう。なんとなく夢の邪魔をすするのが悪くて、そっと抜け出した。それからメモ書きで「昨夜はありがとうございました」と残して、離れを出た。
「うわっ寒い!」
震えながら中庭に出ると、流さんとばったり会った。いつもの藍色の作務衣に長髪を緩く束ねている。
「おっ薙、おはよう! 」
「流さんおはよう! 驚いた。いつもこんなに早いの? 」
「あぁ、日課だ」
「ふぅん……オレはまだ眠いや」
手伝ってみたいけど、眠気に勝てなさそう。
「昨日は随分遅くまで勉強頑張ったんだな」
「まぁね期末が終わったら、また遊びにいきたいし」
「またって、どこへいくんだ? 」
「うん、また渋谷に行ってきてもいい? 拓人とさ」
「そうか……それはちゃんと父さんに話しておけよ」
「了解! 分かってるって」
「約束しろよ! 」
「はーい」
****
そんな約束を守らなかったのはオレだ。
まさかこんな事態に陥るなんて、思いもしなかった。
ど、どうして……こんなことに?
期末テストが終わった打ち上げを兼ねて、北鎌倉駅で拓人と待ち合わせして渋谷に遊びに来た。ゲーセンで軽く遊んでカラオケをした後、拓人のオススメという繁華街から少し外れたカフェに案内されて、炭酸ジュースを飲んだだけだったのに。
なのに、そこからの記憶がないんだ。
それにここは真っ暗で、身動きが取れない。
信じられないことに手を後ろで縛られている。
足も縛られていて身動きが取れない。
まさか誘拐されたのか。一気に震えあがる。こんなドラマみたいな状況に陥るなんて信じられないよ。それにしても一緒にいた拓人はどこだ? 拓人は無事なのか心配だ。
物音ひとつしない空間に、自分の震える息遣いだけが妙に大きく聞こえていた。
「拓人……どこにいるんだよ! ここはどこなんだよ!」
****
朝の読経と墓地の巡回を終えて母屋に戻り、それから、すぐに流を探した。
「流、ここにいたのか。あの、薙を見かけなかったか」
「さぁ昨日まで期末テストだったから、今日は寝坊したんじゃ」
「うん……確かに寝坊はしていたんだ。朝食の時はまだ眠っていたから起こさなかったんだ。でも今部屋を覗いたら……いなくて」
「あーそういえば期末テストの後、友達と渋谷に遊びに行くって言ってたな。まさか何も言わずにい行ってしまったのか」
「そんなことを言っていたのか……聞いてない」
薙の姿が見えないことに、さっきからなんとなく不安が過る。
「翠に話すようにと言っといたのにな」
「……そうか、夕方には戻るかな」
「大丈夫だろ? きっと寝坊して、慌てて飛び出したんじゃないか」
「あぁそうか。そのようだね」
そのまま十時から法事が入っていたので、住職としての仕事に没頭してしまった。やっと午後になって、自分の部屋に戻るとスマホにおびただしい量の着信が入っていた。
慌てて確認すると薙からだった。
一体何事だろう? 焦ってすぐにかけなおした。
「もしもし、薙っ、どうした? 何か困ったことでも? 」
「あぁ……待ってましたよ。やっとかかってきましたねぇ~」
すると相手は、薙ではなかった。
低く響く声に、寒気が走った。
「か……克哉くんが……何故? 」
「翠さん、俺ね、無事に退院したんですよ。女房が亡くなった時はご焼香に来てくれたようで、ありがとうございます」
背筋が凍る……
「そっそんなことより、これは薙のスマートフォンだ! なんで克哉くんが持っているんだ」
「聞いてないんですか。薙くん、今ここに遊びに来てくれていますよ」
「そんなはずがない……薙は君のことなんて知らない! それは嘘だ! 」
「くくっ、信じないんですか。薙くんは家で遊んでいるので、すぐには帰れませんよ」
そんな馬鹿な。薙が手元にいないので不安が募る。
「なっ薙に代わってくれ」
「あー今眠っていますよ。お父さんのお迎えを待って……なぁ翠さん、俺……あんたのせいで人生が滅茶苦茶なんです。どう落とし前つけてくれるんですか」
低く脅すような調子の声だった。
「そんなのは、君の勝手な理由だ」
「へぇ、いいんですか。じゃあ俺があなたの息子で、最初からやり直ししても」
「なっ、なんてことを! 」
目の前が真っ暗になる。
「さぁ今から言うカフェで待ち合わせしましょうよ。また前のようにふたりでいいことしましょうよ。あ……流には言わないでくださいよ。言ったら翠さんの大事な息子を犯してしまいますよ。彼はあなたによく似ているから身代わりになってもらおうかな」
恐れていたことが現実になってしまったのだ。
「き、君は卑劣だ!」
「どうとでも、俺ね……もう怖いものないんですよ。だからあなたを最後まで手に入れないと気が済まなくなってしまったんですよ。入院中ずっとあなたのことを考えていました。宮崎で再会できたのって運命ですよね? くくくっ、待ち合わせ場所は……」
見知らぬ住所をメモ取らされる。
「お願いだ。薙には手を出さないでくれ……頼む! あの子は何も知らない」
「あなたが来るまでは無事ですよ。来なかったら、どうなるかは保証できませんがね」
洋くんの案じていた通りだ。
どうして僕は、すぐにでも拓人くんの素性を調べなかったのか。
僕が迂闊だったから……とうとう薙まで巻き込んでしまった。
全部、僕のせいだ。
まただ……またやってしまった。
大切なものを失いたくない。もう二度と……
僕にとって薙は分身のような存在だ。
その薙が穢されるようなことがあっては、絶対にあってはならない。
一瞬、流の顔が過ったが、目を瞑って斬り捨てた。
ごめんよ……流。僕はお前に話さないで、行かないといけない。この躰を堕としてでも、救わないといけないものがあるんだ。
もう二度とこんなことがないように。自ら堕とすような真似だけはしないと誓ったはずなのに、運命はどうしてこうも急降下してしまうのだろう。
こんな業は……僕は望んでいない。
辛い……辛いよ。
流と結ばれ、密かに育みたかっただけだった。大きな波も小さな波も避けて、ふたりで静かに密かに流れていく人生だと思っていたのに。この先は……ずっと……
それは無謀だったのか。
「えっと……」
一面の窓に、生まれたての太陽が木漏れ日の隙間から朝を告げにやってくる。
小鳥の囀りも自然の光も、北鎌倉にやってきてから意識するようになったものだ。母さんと住んでいたマンションは、高層階で窓なんて滅多に開けなかった。
師走のひんやりとした空気で、頭は冷えるけれども、身体はふかふかの羽毛布団に包まれて温かいや。あっそっか、ここ洋さんの家だ。昨日勉強を教えてもらって、そのまま寝ちゃったのか。
隣を見ると、洋さんがすやすやと寝息を立てていた。
うはっ! 睫毛長いな。眠っている顔も本当に綺麗なんだな。
待てよ。これって丈さんにバレたら怒られそうだよな。いくら甥っ子だからって、大目に見てくれそうにないんだよな。あの人って……
一刻も早く、このダブルベッドから退散しよう!
それにしても幸せそうな寝顔だな。きっといい夢を見ているのだろう。なんとなく夢の邪魔をすするのが悪くて、そっと抜け出した。それからメモ書きで「昨夜はありがとうございました」と残して、離れを出た。
「うわっ寒い!」
震えながら中庭に出ると、流さんとばったり会った。いつもの藍色の作務衣に長髪を緩く束ねている。
「おっ薙、おはよう! 」
「流さんおはよう! 驚いた。いつもこんなに早いの? 」
「あぁ、日課だ」
「ふぅん……オレはまだ眠いや」
手伝ってみたいけど、眠気に勝てなさそう。
「昨日は随分遅くまで勉強頑張ったんだな」
「まぁね期末が終わったら、また遊びにいきたいし」
「またって、どこへいくんだ? 」
「うん、また渋谷に行ってきてもいい? 拓人とさ」
「そうか……それはちゃんと父さんに話しておけよ」
「了解! 分かってるって」
「約束しろよ! 」
「はーい」
****
そんな約束を守らなかったのはオレだ。
まさかこんな事態に陥るなんて、思いもしなかった。
ど、どうして……こんなことに?
期末テストが終わった打ち上げを兼ねて、北鎌倉駅で拓人と待ち合わせして渋谷に遊びに来た。ゲーセンで軽く遊んでカラオケをした後、拓人のオススメという繁華街から少し外れたカフェに案内されて、炭酸ジュースを飲んだだけだったのに。
なのに、そこからの記憶がないんだ。
それにここは真っ暗で、身動きが取れない。
信じられないことに手を後ろで縛られている。
足も縛られていて身動きが取れない。
まさか誘拐されたのか。一気に震えあがる。こんなドラマみたいな状況に陥るなんて信じられないよ。それにしても一緒にいた拓人はどこだ? 拓人は無事なのか心配だ。
物音ひとつしない空間に、自分の震える息遣いだけが妙に大きく聞こえていた。
「拓人……どこにいるんだよ! ここはどこなんだよ!」
****
朝の読経と墓地の巡回を終えて母屋に戻り、それから、すぐに流を探した。
「流、ここにいたのか。あの、薙を見かけなかったか」
「さぁ昨日まで期末テストだったから、今日は寝坊したんじゃ」
「うん……確かに寝坊はしていたんだ。朝食の時はまだ眠っていたから起こさなかったんだ。でも今部屋を覗いたら……いなくて」
「あーそういえば期末テストの後、友達と渋谷に遊びに行くって言ってたな。まさか何も言わずにい行ってしまったのか」
「そんなことを言っていたのか……聞いてない」
薙の姿が見えないことに、さっきからなんとなく不安が過る。
「翠に話すようにと言っといたのにな」
「……そうか、夕方には戻るかな」
「大丈夫だろ? きっと寝坊して、慌てて飛び出したんじゃないか」
「あぁそうか。そのようだね」
そのまま十時から法事が入っていたので、住職としての仕事に没頭してしまった。やっと午後になって、自分の部屋に戻るとスマホにおびただしい量の着信が入っていた。
慌てて確認すると薙からだった。
一体何事だろう? 焦ってすぐにかけなおした。
「もしもし、薙っ、どうした? 何か困ったことでも? 」
「あぁ……待ってましたよ。やっとかかってきましたねぇ~」
すると相手は、薙ではなかった。
低く響く声に、寒気が走った。
「か……克哉くんが……何故? 」
「翠さん、俺ね、無事に退院したんですよ。女房が亡くなった時はご焼香に来てくれたようで、ありがとうございます」
背筋が凍る……
「そっそんなことより、これは薙のスマートフォンだ! なんで克哉くんが持っているんだ」
「聞いてないんですか。薙くん、今ここに遊びに来てくれていますよ」
「そんなはずがない……薙は君のことなんて知らない! それは嘘だ! 」
「くくっ、信じないんですか。薙くんは家で遊んでいるので、すぐには帰れませんよ」
そんな馬鹿な。薙が手元にいないので不安が募る。
「なっ薙に代わってくれ」
「あー今眠っていますよ。お父さんのお迎えを待って……なぁ翠さん、俺……あんたのせいで人生が滅茶苦茶なんです。どう落とし前つけてくれるんですか」
低く脅すような調子の声だった。
「そんなのは、君の勝手な理由だ」
「へぇ、いいんですか。じゃあ俺があなたの息子で、最初からやり直ししても」
「なっ、なんてことを! 」
目の前が真っ暗になる。
「さぁ今から言うカフェで待ち合わせしましょうよ。また前のようにふたりでいいことしましょうよ。あ……流には言わないでくださいよ。言ったら翠さんの大事な息子を犯してしまいますよ。彼はあなたによく似ているから身代わりになってもらおうかな」
恐れていたことが現実になってしまったのだ。
「き、君は卑劣だ!」
「どうとでも、俺ね……もう怖いものないんですよ。だからあなたを最後まで手に入れないと気が済まなくなってしまったんですよ。入院中ずっとあなたのことを考えていました。宮崎で再会できたのって運命ですよね? くくくっ、待ち合わせ場所は……」
見知らぬ住所をメモ取らされる。
「お願いだ。薙には手を出さないでくれ……頼む! あの子は何も知らない」
「あなたが来るまでは無事ですよ。来なかったら、どうなるかは保証できませんがね」
洋くんの案じていた通りだ。
どうして僕は、すぐにでも拓人くんの素性を調べなかったのか。
僕が迂闊だったから……とうとう薙まで巻き込んでしまった。
全部、僕のせいだ。
まただ……またやってしまった。
大切なものを失いたくない。もう二度と……
僕にとって薙は分身のような存在だ。
その薙が穢されるようなことがあっては、絶対にあってはならない。
一瞬、流の顔が過ったが、目を瞑って斬り捨てた。
ごめんよ……流。僕はお前に話さないで、行かないといけない。この躰を堕としてでも、救わないといけないものがあるんだ。
もう二度とこんなことがないように。自ら堕とすような真似だけはしないと誓ったはずなのに、運命はどうしてこうも急降下してしまうのだろう。
こんな業は……僕は望んでいない。
辛い……辛いよ。
流と結ばれ、密かに育みたかっただけだった。大きな波も小さな波も避けて、ふたりで静かに密かに流れていく人生だと思っていたのに。この先は……ずっと……
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