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12章
堕とす 4
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「翠さん、いらっしゃい」
「夜分に悪いね」
「いえ」
「薙はどこに? 」
「あ……ベッドです」
電話を切って間もなく、翠さんが離れにやってきた。部屋に上がるなり薙くんの寝顔を確かめにいく所が、翠さんらしい。
俺の父親も……翠さんみたいだったら、どんなに良かったか。
ベッドですやすやと眠る薙くんを見守る翠さんの眼は、どこまでも穏やかで優しかった。
「やれやれ、この子はこんなにぐっすり眠ってしまって。場合によっては起こして連れて帰ろうと思ったけれども、これじゃ……洋くんのベッドは丈のベッドでもあるから、明日見つかったら怒られそうだね」
「大丈夫ですよ。丈も……たぶん甥っ子には弱いはずです」
「ふっ……だといいけどね。あっそうだ、洋くん日本酒は飲める? 一緒に飲まないか」
翠さんの手には『翠』というラベルの日本酒の瓶が握られていたので、リビングのソファへ案内した。ここなら寝室まで距離があるし、小さな声で話す分には万が一薙くんが起きてしまっても、すぐに対処できるだろう。
「あっこれ、京都で買ってきたのですね」
キッチンの後ろの棚から江戸切子の杯を取って、日本酒を注ぐと、透明感のある芳醇な香りがして、それだけでも酔いそうな上質なお酒だと思った。
「うん、流があれからいつも取り寄せしてくれてね」
「……やっぱり愛されていますね」
小声でそう告げると、翠さんは恥ずかしそうに目を伏せた。ふたりは大丈夫、とても幸せそうだ。それを確かめたかった。さて、ここだからが本題だ。
「翠さんに聞いていいのか分からないのですが、最近気になっていることがあって」
「うん?」
「嫌なことを思い出させるようで忍びないのですが、あの宮崎旅行中……大浴場で会った人とは、その後どうなっているんですか」
「……っ」
翠さんの顔が途端に歪む。
「うん、実は……彼の奥さんがあの後交通事故亡くなったそうだよ。洋くんも確かあの時ロビーで会ったよね」
「えっ! あのお子さんたちと一緒にいた人が……」
「だから……扇の要が外れてしまったのかもしれないと不安に思っている」
「まだ何かされたわけじゃないんですよね」
「うん……彼は事故で大怪我をしてずっと入院していたから。でも退院したら、もしかしたらまたやって来るのかもと思うと最近怖いんだ……どうしてあんな場所で再会してしまったのか」
奥さんを亡くした夫か……どこかで聞いた設定だ。
とても嫌なシチュエーションだ。暴走しないといいが。翠さんが彼に襲われかけたという過去の話はちらりと聞いたが、きっと何十年にも渡り翠さんを苦しめているのだ。
「くれぐれも、気を付けてください。それから、こんなこと言うと告げ口みたいなんですが……薙くんの友達の拓人くんという子の素性はしっかり確かめていますか」
「どうして?」
「実は少しお金の使い方が派手になっているみたいで、薙くんも心配していたので」
「えっそうなのか。この前ふたりで渋谷に遊びに行っていたし……きちんと親御さんのことも確認してみるよ」
「ぜひそうして下さい。俺、感じるんです。一度歪んだ執着をもたれてしまうと……それは長年に渡り続き、最終的に最後まで望んでくることを。だから必要以上に気をつけて欲しくて」
断片的に、話ながら脳裏にフラッシュバックしてくるのは、俺の過去。
もう見たくない記憶。恥ずかしく、知られたくない過去だった。
「洋くん、心配かけてごめん。いやなこと思い出させたね」
「あ……いえ……」
翠さんの声が静かに響く。
「洋くん……君の過去をどうか恥じないで『一切は苦』であるのだから……」
「それって?」
「人間はね、誰でも逃れられない苦を背負って生きているんだよ。だから僕は人生は思い通りにならないと、大前提に大きく捉えている」
寺の住職らしい翠さんの言葉。
そうか……だから俺に課せられた苦は、時折こうやって顔を覗かせるのか。もう共存していくしかないのだろう。
「だからこそ愚かなものを道連れにしないで……まっすぐに生きたいものだね」
「はい……」
「それが※八正道だから」
翠さんの言葉には仏教用語が混ざり少し難解だが、心に染み入るものばかりだ。俺のささくれだった心を宥めてくれるのは、月影寺の主……翠さんだ。
「そろそろ帰るよ。流が心配するからね。貴重で的確なアドバイスをありがとう」
翠さんと酒を交わしたあと見送ると急激な睡魔に襲われたので、ベッドに潜り込み、薙くんの隣で夢を見た。
いつもと違う若い匂いは……遠い昔の楽しい記憶を呼び出してくれる導入剤だ。
****
「洋!」
学ラン姿の俺が夕焼け空の下を歩いている。明るく元気な声に呼ばれ、振り返ると安志が笑っていた。
「ほら、この音楽聴いてみろよ」
イヤホンを片耳ずつ分けた帰り道。
好きなミュージシャンの話、漫画の話……クラスの女の子の話題も少しは話したっけ?
まだ明るかった俺……中学生の頃かな。懐かしい自宅。玄関を開けるとエプロン姿の母だ。
「洋、お帰りなさい。あら安志くんも遊びにきたのね。どうぞ」
母が生きている! 元気そうな笑顔なんて久しぶりに見た。これは中学一年生くらいの時か。今……夢の中の俺は、薙よりちょっと若いんだ。
「洋の家っていいよなー」
「なにが? 」
安志が勝手にベッドにあがってくつろいでいる。そんな光景を俺も楽しそうに味わっていた。
「だって優しいお母さんに、手作りのおやつだろ」
「ははっ。今日はなんだろうな」
「そりゃクッキーだよ」
「なんで分かる?」
「美味しそうな匂いしてたじゃん。洋はにぶいなー」
「うるさいなぁ」
じゃれ合う子供の俺だ。懐かしい。
「ふふっその通り、おやつはクッキーよ」
母が部屋にやってきた。
お盆にはソーダと本当にクッキーだ。
「やった! おばさんのクッキー大好きです! 」
「まぁ嬉しいわ。洋はいい友達持ってるわね。安志くん、洋とずっと仲良くしてやってね」
そうか、母さん、あの時そんなこと言ってたのか。
その願いは叶っているよ。安志はちゃんと傍にいてくれて……ずっと友達でいてくれているよ。
※八正道……「苦」を滅するための八つの道。正しい行いをすることを説いている。
「夜分に悪いね」
「いえ」
「薙はどこに? 」
「あ……ベッドです」
電話を切って間もなく、翠さんが離れにやってきた。部屋に上がるなり薙くんの寝顔を確かめにいく所が、翠さんらしい。
俺の父親も……翠さんみたいだったら、どんなに良かったか。
ベッドですやすやと眠る薙くんを見守る翠さんの眼は、どこまでも穏やかで優しかった。
「やれやれ、この子はこんなにぐっすり眠ってしまって。場合によっては起こして連れて帰ろうと思ったけれども、これじゃ……洋くんのベッドは丈のベッドでもあるから、明日見つかったら怒られそうだね」
「大丈夫ですよ。丈も……たぶん甥っ子には弱いはずです」
「ふっ……だといいけどね。あっそうだ、洋くん日本酒は飲める? 一緒に飲まないか」
翠さんの手には『翠』というラベルの日本酒の瓶が握られていたので、リビングのソファへ案内した。ここなら寝室まで距離があるし、小さな声で話す分には万が一薙くんが起きてしまっても、すぐに対処できるだろう。
「あっこれ、京都で買ってきたのですね」
キッチンの後ろの棚から江戸切子の杯を取って、日本酒を注ぐと、透明感のある芳醇な香りがして、それだけでも酔いそうな上質なお酒だと思った。
「うん、流があれからいつも取り寄せしてくれてね」
「……やっぱり愛されていますね」
小声でそう告げると、翠さんは恥ずかしそうに目を伏せた。ふたりは大丈夫、とても幸せそうだ。それを確かめたかった。さて、ここだからが本題だ。
「翠さんに聞いていいのか分からないのですが、最近気になっていることがあって」
「うん?」
「嫌なことを思い出させるようで忍びないのですが、あの宮崎旅行中……大浴場で会った人とは、その後どうなっているんですか」
「……っ」
翠さんの顔が途端に歪む。
「うん、実は……彼の奥さんがあの後交通事故亡くなったそうだよ。洋くんも確かあの時ロビーで会ったよね」
「えっ! あのお子さんたちと一緒にいた人が……」
「だから……扇の要が外れてしまったのかもしれないと不安に思っている」
「まだ何かされたわけじゃないんですよね」
「うん……彼は事故で大怪我をしてずっと入院していたから。でも退院したら、もしかしたらまたやって来るのかもと思うと最近怖いんだ……どうしてあんな場所で再会してしまったのか」
奥さんを亡くした夫か……どこかで聞いた設定だ。
とても嫌なシチュエーションだ。暴走しないといいが。翠さんが彼に襲われかけたという過去の話はちらりと聞いたが、きっと何十年にも渡り翠さんを苦しめているのだ。
「くれぐれも、気を付けてください。それから、こんなこと言うと告げ口みたいなんですが……薙くんの友達の拓人くんという子の素性はしっかり確かめていますか」
「どうして?」
「実は少しお金の使い方が派手になっているみたいで、薙くんも心配していたので」
「えっそうなのか。この前ふたりで渋谷に遊びに行っていたし……きちんと親御さんのことも確認してみるよ」
「ぜひそうして下さい。俺、感じるんです。一度歪んだ執着をもたれてしまうと……それは長年に渡り続き、最終的に最後まで望んでくることを。だから必要以上に気をつけて欲しくて」
断片的に、話ながら脳裏にフラッシュバックしてくるのは、俺の過去。
もう見たくない記憶。恥ずかしく、知られたくない過去だった。
「洋くん、心配かけてごめん。いやなこと思い出させたね」
「あ……いえ……」
翠さんの声が静かに響く。
「洋くん……君の過去をどうか恥じないで『一切は苦』であるのだから……」
「それって?」
「人間はね、誰でも逃れられない苦を背負って生きているんだよ。だから僕は人生は思い通りにならないと、大前提に大きく捉えている」
寺の住職らしい翠さんの言葉。
そうか……だから俺に課せられた苦は、時折こうやって顔を覗かせるのか。もう共存していくしかないのだろう。
「だからこそ愚かなものを道連れにしないで……まっすぐに生きたいものだね」
「はい……」
「それが※八正道だから」
翠さんの言葉には仏教用語が混ざり少し難解だが、心に染み入るものばかりだ。俺のささくれだった心を宥めてくれるのは、月影寺の主……翠さんだ。
「そろそろ帰るよ。流が心配するからね。貴重で的確なアドバイスをありがとう」
翠さんと酒を交わしたあと見送ると急激な睡魔に襲われたので、ベッドに潜り込み、薙くんの隣で夢を見た。
いつもと違う若い匂いは……遠い昔の楽しい記憶を呼び出してくれる導入剤だ。
****
「洋!」
学ラン姿の俺が夕焼け空の下を歩いている。明るく元気な声に呼ばれ、振り返ると安志が笑っていた。
「ほら、この音楽聴いてみろよ」
イヤホンを片耳ずつ分けた帰り道。
好きなミュージシャンの話、漫画の話……クラスの女の子の話題も少しは話したっけ?
まだ明るかった俺……中学生の頃かな。懐かしい自宅。玄関を開けるとエプロン姿の母だ。
「洋、お帰りなさい。あら安志くんも遊びにきたのね。どうぞ」
母が生きている! 元気そうな笑顔なんて久しぶりに見た。これは中学一年生くらいの時か。今……夢の中の俺は、薙よりちょっと若いんだ。
「洋の家っていいよなー」
「なにが? 」
安志が勝手にベッドにあがってくつろいでいる。そんな光景を俺も楽しそうに味わっていた。
「だって優しいお母さんに、手作りのおやつだろ」
「ははっ。今日はなんだろうな」
「そりゃクッキーだよ」
「なんで分かる?」
「美味しそうな匂いしてたじゃん。洋はにぶいなー」
「うるさいなぁ」
じゃれ合う子供の俺だ。懐かしい。
「ふふっその通り、おやつはクッキーよ」
母が部屋にやってきた。
お盆にはソーダと本当にクッキーだ。
「やった! おばさんのクッキー大好きです! 」
「まぁ嬉しいわ。洋はいい友達持ってるわね。安志くん、洋とずっと仲良くしてやってね」
そうか、母さん、あの時そんなこと言ってたのか。
その願いは叶っているよ。安志はちゃんと傍にいてくれて……ずっと友達でいてくれているよ。
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