重なる月

志生帆 海

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12章

愛しい人 10

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 檀家さんとの打ち合わせは順調に終わった。

 翠の代行業務をつつがなく終えて自室へ戻り、重たい袈裟を脱いだ。

 素肌はじっとりと汗ばんでいた。

 こんな寒い季節でも、動き回ると汗をかくのか。

 久しぶりに本格的に袈裟を着て、そんな感想が思わず漏れてしまった。

 翠はずっと若い時から、こんなに重たいものを背負って生きてきた。

 俺は翠がいない5年間代わりをしただけで、彼がこの寺に離婚して戻ってからは、何もかも任せて、いつも作務衣姿で気ままに過ごしていた。

 窮屈なのはもともと苦手だ。

 悪いな……翠。

 時計の針を見れば、もう二十三時近くだった。飛行機が遅れたのか。いや、そんな報告はなかった。渋滞情報もなかった。じゃあ何かトラブル? それとも……。

 その先は考えたくないことだった。まさか……そうなのか。

 翠と彩乃さんが離婚後も男女の関係を結んでいたのは察していた。

 先ほどの翠の出かけ際の様子でも……今宵もそれがある可能性を強く匂わせていた。

 さっきからずっとキリキリと胃が痛むので、奥歯を噛みしめながら脇腹を押さえた。
 
「参ったな……俺はこんなに心配症だったか」

 作務衣姿のまま畳にゴロンと仰向けに寝転ぶと、急激な睡魔に襲われ、しばらくウトウトしてしまったようだ。

 目覚めそうで覚めない……そんな状態でまどろんでいると、突然人の気配がした。

「翠かっ」
 
 慌てて飛び起きると、翠ではなく丈だった。湯気の上る湯呑をお盆に乗せていた。

「流兄さん、お勤め、お疲れ様です。どうぞ」

 湯呑には透明なお湯しか入ってなかった。

「なんだ白湯か」
「……胃にいいですからね」
「なんで分かるんだよ」

 兄として気恥ずかしい面もあり睨みつけると、丈は肩を竦めた。

「分かりますよ……経験があるから。大事な人がひとりで困難に立ち向かおうとている時、すぐ横にいてあげられないのが不甲斐なく、必要ではないのかとがっかりしたり、心配で居ても立っても居られなくなったり、不安になったり……あらゆる感情に侵されますから……胃がやられます」

「あっ……」

 そうか。丈は洋くんとの事を言っている。俺たちはほんの触りしか知らない。洋くんが義父から性的被害に遭い……そのためにソウルに一時的に避難していたとしか聞いていない。詳細をこちらから聞くつもりもなかった。

 今、幸せになっているのだから、俺たちは干渉すべきでないと翠と判断したから。

「彩乃さんと翠兄さんのことが、心配なんですね」
「くそっ、お見通しかよ」
「こんなに余裕がない流兄さんは珍しい」
「うっ五月蠅いな」

 丈は穏やかな笑みを浮かべていた。

「……兄さん、私もずっと心配でした。洋が何をひとりで仕出かすか。傍にいてやれないことも多く、辛かったです」

 俺の頭の中で考えていたことだ。それは。

「あぁ……すごくよく分かるよ」
「頼ってくれない洋を恨んだことも……」

 確かに、俺も同じだ。

 本当は翠に『付いて来てくれ』と言って欲しかったのだ。

「でもそれでは成長できないし、抜け出ることが出来ないんですよね。洋も男だから、自分でなんとかしたいという気持ちがあって……それを尊重してやらないといけないのに、途中からようやく気が付きました。もちろん、葛藤はありました。実際、彼はその後も狙われやすくて、それでもぐっと堪えて送り出しました。洋が帰ってくる場所でありたいと願って」

「参ったな、丈。お前……やるな。俺よりずっと人生経験が豊富だ。いつの間に俺の知らない間に、いろいろ経験したんだな。お前も頑張ったな」

 丈の肩をポンっと叩くと、途端に気恥ずかしそうな表情になった。冷めてつまらない弟だと決めつけて、近寄らせなかったのは俺だ。本当は心のうちに秘めるものが多かったのに、すまない。

「……なんだか照れますね」
「おいおい、そんな風にしおらしくいうなよ。俺の方が気恥ずかしくなる」
「ははっ」
「あーくそっ、翠、おせーな」

 悪態をつくように叫ぶと、丈が笑った。

「さっき帰ってきましたよ」
「え……なっ!お前それを先に言えよっ!」

 俺は勢いよく立ち上がった。
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