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12章
愛しい人 7
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翠の運転する車が小さくなるまで見送った。吐く息は白く乾燥していた。山門の柱にドンっと手をつくと棘が刺さったのか、ズキンと指先が傷んだ。
「くそっ本当に大丈夫なのか」
強がりを言った。本当は一番不安なのは俺の方だ。
翠がもしも彩乃さんをまた抱いたら……そんなことを想像すると、嫌悪感と嫉妬で狂い死にそうだ。
余裕ぶったことを言って翠を慰めて送り出したが、本当は違う。
俺の翠なんだ。元妻だろうが絶対に手を触れて欲しくない!
もう……もう十分だろう、彩乃さん。翠と離婚した後も、十年近くそうやって翠を縛ってきたじゃないか。翠が一番困る急所をついて。
山門から空を睨み上げると月が冴え冴えと浮かんでいた。静かな月光は俺の荒れ狂った心を慰めてくれる。あんな服装で行かすべきではなかったか。今日の翠はいつもにまして、たおやかなだった。女だって自分から思わず押し倒したくなるほどだろう。
さっき外した月の帯どめをポケットから取り出した。これは俺と翠の重なった証。丈と洋くんから受け継いだ『懸命な恋』の証。
とにかく翠は行ってしまった。俺は戻って翠の代わりの勤めを果たすだけだ。
月を背に寺に戻ろうと歩き出すと、背後から声をかけられた。
「兄さんですか。そこにいるのは」
振り向くと、仕事帰りの丈が立っていた。
「あぁ、お前か」
「どうかしましたか。元気ありませんね。それに流兄さんが袈裟姿とは珍しい」
「今宵は翠は外出だから代行だよ」
「珍しいですね。どこへ?」
「彩乃さんを迎えにいったよ」
「……今日でしたか」
「まぁな」
「ここに泊まるのですか」
「らしいよ」
「……」
それきり丈は言葉を発さなかった。翠が結婚した時は、丈はまだ医大生で寮にいたので、俺と翠の当時の確執について深く知らないはずだ。
だが、翠の精神が一時期病んでしまい……さまざまな弊害が生じた時、カウンセラーや病院を紹介して親身になってくれたのは丈だった。
「心配ですね。ぶり返さないといいのですが。今はすごく落ち着いているから」
「あぁ、まったくだよ」
「でも、翠兄さんもいつまでもいいなりではないと思いますよ。最近の兄さんには生きる目標が出来たので、強くなりましたよね」
丈がはっきりとそう告げてくれると、俺の方も急に元気を取り戻し、明るい気持ちになれた。
「そうだよな。翠はもう以前の翠ではない。丈、お前、なかなか良い言葉をくれるようになったな」
図体はでかいが可愛い弟の励ましに、思わずその肩を抱きしめてやると、怪訝な顔をされた。
「ちょっと! 放してくださいよ。兄さんはまったくスキンシップ過剰だ」
「あぁ? お前さぁ結構言うようになったな。よしよし、もっと触ってやろう」
「わぁ!」
二人でバランスを崩して、転びそうになった。だから顔を見合わせて笑った。
「兄さん……その調子ですよ。いつもの調子で迎えましょう。彼女のことも」
「あぁそうだな。変に構え過ぎてもよくないな。助かったよ。丈」
****
もうすぐ丈が帰って来る。離れで、ひとりでいると最近とても人恋しくなってしまうから参った。だが、その拍子にふと、昔のことを思い出して後悔した。
母が亡くなり義父と暮らしていた時は、ひとりでいる方がましだった。
あの人が帰ってくる玄関の門がギィっと響く音が聞こえると、躰の震えが止まらなかった。
──
「洋。お帰りいい子にしていたかい」
そう言いながら頬を撫でる手も、肩に置かれる手も……正直気持ちがいいものではなかった。
「あの……父さん、今度期末テストの勉強会を安志としたくて」
「うん? それがどうした?」
「その……安志の家に泊まりに行ってもいいですか」
恐る恐る聞いてみると、恐ろしく低い怖い声で、ため息交じりに返事をされた。
「洋。君は何も分かってないね。そんなことが許されるとでも? 父さんと一緒に風呂に入ったり父さんが添い寝をしてあげるのが、全部出来なくなるだろう。断りなさい」
「……はい」
中学生の頃の俺は、まだ何をされたわけでもなかった。
まだ発育も遅かった俺の身体に、何かされたわけではない。
それでも親子のような水入らずの関係とは思えなかった。まったく血がつながらない数年を共に過ごしただけの男性としか思えなかったから、違和感が消えなかった。
必要以上の干渉も、束縛も息が詰まりそうだった。
──
久しぶりに昔のことを思い出してしまった。きっと最近よく薙くんと話したりするからなのか。薙くんの中学校生活に自分の昔を重ね、思い出してしまうせいだ。
馬鹿。思い出さなくていいのに、記憶っていうのは厄介だ。
「洋、どうした。思い詰めた顔をしているぞ」
はっと顔をあげると丈が立っていた。いつの間に帰宅したのか。俺はそれに気が付かずに、考え事をしていたようだ。丈には何でもすぐに伝わってしまう。
「お帰り……丈」
「おいで」
優しく手を広げられると吸い込まれるように、その胸に収まりたくなって、抱きついた。
俺の場所。今はここが俺の場所だ。
ここがあるから怖くない。寂しくない。
「丈……少しだけ、中学生の頃を……思い出していた」
隠さない、正直に言う。それが俺と丈のルール。
「そうか」
丈も多くは語らない。だが俺の震えを沈めるように背中をさすってくれる。俺はじっと幼子のようにそれを受け止める。温かい手の丈。いつだって俺の気持ちを落ち着かせてくれる存在だ。
「丈が、すごく好きだ──」
「嬉しいよ。素直な洋も可愛いな」
額に軽くキスを落とされ、笑われた。
「俺はいつも素直だ」
「そうかな? さぁ電気をつけて。夕食の支度をしてやろう」
「うん、俺も手伝うよ」
「いいか。この前みたいに火傷しないでくれよ」
「分かってるって」
自然と日常へと戻っていく。
溶け込んでいく。
これが丈との生活のペースだ。
「くそっ本当に大丈夫なのか」
強がりを言った。本当は一番不安なのは俺の方だ。
翠がもしも彩乃さんをまた抱いたら……そんなことを想像すると、嫌悪感と嫉妬で狂い死にそうだ。
余裕ぶったことを言って翠を慰めて送り出したが、本当は違う。
俺の翠なんだ。元妻だろうが絶対に手を触れて欲しくない!
もう……もう十分だろう、彩乃さん。翠と離婚した後も、十年近くそうやって翠を縛ってきたじゃないか。翠が一番困る急所をついて。
山門から空を睨み上げると月が冴え冴えと浮かんでいた。静かな月光は俺の荒れ狂った心を慰めてくれる。あんな服装で行かすべきではなかったか。今日の翠はいつもにまして、たおやかなだった。女だって自分から思わず押し倒したくなるほどだろう。
さっき外した月の帯どめをポケットから取り出した。これは俺と翠の重なった証。丈と洋くんから受け継いだ『懸命な恋』の証。
とにかく翠は行ってしまった。俺は戻って翠の代わりの勤めを果たすだけだ。
月を背に寺に戻ろうと歩き出すと、背後から声をかけられた。
「兄さんですか。そこにいるのは」
振り向くと、仕事帰りの丈が立っていた。
「あぁ、お前か」
「どうかしましたか。元気ありませんね。それに流兄さんが袈裟姿とは珍しい」
「今宵は翠は外出だから代行だよ」
「珍しいですね。どこへ?」
「彩乃さんを迎えにいったよ」
「……今日でしたか」
「まぁな」
「ここに泊まるのですか」
「らしいよ」
「……」
それきり丈は言葉を発さなかった。翠が結婚した時は、丈はまだ医大生で寮にいたので、俺と翠の当時の確執について深く知らないはずだ。
だが、翠の精神が一時期病んでしまい……さまざまな弊害が生じた時、カウンセラーや病院を紹介して親身になってくれたのは丈だった。
「心配ですね。ぶり返さないといいのですが。今はすごく落ち着いているから」
「あぁ、まったくだよ」
「でも、翠兄さんもいつまでもいいなりではないと思いますよ。最近の兄さんには生きる目標が出来たので、強くなりましたよね」
丈がはっきりとそう告げてくれると、俺の方も急に元気を取り戻し、明るい気持ちになれた。
「そうだよな。翠はもう以前の翠ではない。丈、お前、なかなか良い言葉をくれるようになったな」
図体はでかいが可愛い弟の励ましに、思わずその肩を抱きしめてやると、怪訝な顔をされた。
「ちょっと! 放してくださいよ。兄さんはまったくスキンシップ過剰だ」
「あぁ? お前さぁ結構言うようになったな。よしよし、もっと触ってやろう」
「わぁ!」
二人でバランスを崩して、転びそうになった。だから顔を見合わせて笑った。
「兄さん……その調子ですよ。いつもの調子で迎えましょう。彼女のことも」
「あぁそうだな。変に構え過ぎてもよくないな。助かったよ。丈」
****
もうすぐ丈が帰って来る。離れで、ひとりでいると最近とても人恋しくなってしまうから参った。だが、その拍子にふと、昔のことを思い出して後悔した。
母が亡くなり義父と暮らしていた時は、ひとりでいる方がましだった。
あの人が帰ってくる玄関の門がギィっと響く音が聞こえると、躰の震えが止まらなかった。
──
「洋。お帰りいい子にしていたかい」
そう言いながら頬を撫でる手も、肩に置かれる手も……正直気持ちがいいものではなかった。
「あの……父さん、今度期末テストの勉強会を安志としたくて」
「うん? それがどうした?」
「その……安志の家に泊まりに行ってもいいですか」
恐る恐る聞いてみると、恐ろしく低い怖い声で、ため息交じりに返事をされた。
「洋。君は何も分かってないね。そんなことが許されるとでも? 父さんと一緒に風呂に入ったり父さんが添い寝をしてあげるのが、全部出来なくなるだろう。断りなさい」
「……はい」
中学生の頃の俺は、まだ何をされたわけでもなかった。
まだ発育も遅かった俺の身体に、何かされたわけではない。
それでも親子のような水入らずの関係とは思えなかった。まったく血がつながらない数年を共に過ごしただけの男性としか思えなかったから、違和感が消えなかった。
必要以上の干渉も、束縛も息が詰まりそうだった。
──
久しぶりに昔のことを思い出してしまった。きっと最近よく薙くんと話したりするからなのか。薙くんの中学校生活に自分の昔を重ね、思い出してしまうせいだ。
馬鹿。思い出さなくていいのに、記憶っていうのは厄介だ。
「洋、どうした。思い詰めた顔をしているぞ」
はっと顔をあげると丈が立っていた。いつの間に帰宅したのか。俺はそれに気が付かずに、考え事をしていたようだ。丈には何でもすぐに伝わってしまう。
「お帰り……丈」
「おいで」
優しく手を広げられると吸い込まれるように、その胸に収まりたくなって、抱きついた。
俺の場所。今はここが俺の場所だ。
ここがあるから怖くない。寂しくない。
「丈……少しだけ、中学生の頃を……思い出していた」
隠さない、正直に言う。それが俺と丈のルール。
「そうか」
丈も多くは語らない。だが俺の震えを沈めるように背中をさすってくれる。俺はじっと幼子のようにそれを受け止める。温かい手の丈。いつだって俺の気持ちを落ち着かせてくれる存在だ。
「丈が、すごく好きだ──」
「嬉しいよ。素直な洋も可愛いな」
額に軽くキスを落とされ、笑われた。
「俺はいつも素直だ」
「そうかな? さぁ電気をつけて。夕食の支度をしてやろう」
「うん、俺も手伝うよ」
「いいか。この前みたいに火傷しないでくれよ」
「分かってるって」
自然と日常へと戻っていく。
溶け込んでいく。
これが丈との生活のペースだ。
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