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11章
解けていく 21
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固く強い覚悟だ。
翠の覚悟は、生半可なものじゃない。
それがひしひしと伝わる……凛としたものだった。
だから、もう何も言わない。
「ふっ参ったな。翠のそんな顔……今になって見ると思わなかった」
「道昭……すまない」
「いや俺が口を出すことじゃなかった。こっちこそすまない」
「道昭……どうか謝らないでくれ」
「上手くやれよ。俺はまたお前のあんな何もかも諦めたような乾いた寂しい笑顔は見たくない」
そうだ。
もともと翠という人間は、不思議な男だった。
彼は大学に入ってすぐに出来た友人だった。
きっかけはなんだったか。
入学式の日に、俺の目の前を歩いていた。
その後ろ姿がすっとしていて、迷いがないと思った。仏教でいう「※中道《ちゅうどう》」という考えを、身体で表現しているような奴だと思った。
※中道…快楽と苦行、どちらにも傾かない生き方考え方のこと
バランスのとれた後ろ姿だと思った。
そのまま隣の席に座り話しかければ北鎌倉の寺の息子で、寺の跡を継ぐためにこの大学に入ったと教えてもらい、成程と唸ったものだ。
親からの押し付けで、中途半端な気分で京都から東京に出て来た俺とは覚悟が違うとも。
そんな翠とは気も合い切磋琢磨しながら大学生活を過ごした。お互いの寺を行き来したのも、この時期だ。
俺も翠にどんどん感化されて、気が付けば実家の京都の寺を継ぐと豪語するほどになっていた。
中道の道を真っすぐ歩んでいたはずの翠の様子が狂い出したのは、大学四年生になってからだ。
どんなに問い詰めても「大丈夫だ、なんでもない」の一点張りだった。
しかし身体はみるみる痩せ、顔色も悪く、何かにいつも怯えているようだった。
結局、それは卒業まで続いた。
そして何かから逃れるように、卒業後すぐに結婚すると告げた。
「なんでだよ! お前……それでいいのか。北鎌倉の寺はどうするんだよ?跡継ぎだったんだろう?」
そう叫んだ!
どうしても納得いかなくて。
力なく笑う……翠が気の毒だった。
こんな男じゃなかったのに、ここまで追いつめられた翠をこれ以上責めることはできなかった。
だから受け入れた、翠には翠の事情があったのだと。
結婚式にも参列した。
皆に祝ってもらい笑ってはいるが、寂し気だった。
彼の眼は遠くを見ていた。
「翠は乾いている」
そう思った。
あの結婚式以来会ってなかったから、一層そう強く感じるのか。
今の翠は大学生の頃のような、中道の雰囲気を漂わせていた清楚な翠ともまた少し違う。
なんというか……阿修羅のようだった。
戦いといっても、翠の場合は静かな戦いだ。
心の中で繰り広げられている静寂の戦いだ。
その姿が美しく妖艶だとも、しなやかだとも。
仏教の道を進む俺達にとって、このことが正しい道とは言えないだろう。
でも、今の翠はずっと人間らしく生きている。
それを見ることが出来て良かったと思う。
「道昭、もう一杯飲むか」
顔を上げれば、翠の清楚な笑み。
翠の酌か。
幸せだ。
****
二軒目の店は湯豆腐屋にした。
一次会のような五月蠅い店ではなく、ゆっくり話せるところがいい。
結局二軒目の店に来たのは、高瀬くんと俺だけだったが、丁度良かった。
「高瀬くん、今日はどうしたの? あんな風に大声出すなんて珍しいね」
「あっ陣内先生に気を遣わせちゃってすいません。ちょっとムキになって」
「うん……少し驚いたんだけど……なぁもしかして張矢のこと本気なのか」
「えっなんで」
「いや、高瀬くんのあんな本気な顔初めて見たからさ。あっ俺はそういう偏見はないから。ここだけの話、さっきは言えなかったが」
「はぁ……」
高瀬くんの深いため息を隣で浴びて、気の毒に思った。
高瀬くんは結構古くからの付き合いで、彼の人となりとはだいぶ理解しているつもりだった。
ライターの仕事は熱心だし、機転が利くので仕上げも早くて正確だ。明るく溌剌とした雰囲気で甘くハンサムな容姿でモデルみたいだ。もちろん女の子にもよくモテるだろう。
その彼のこと、俺が追うようになったのはいつからか。
だから目で追う相手が、何を見ているのかも知ってしまった。
張矢は確かにカッコいいよ。
包容力もあって外科医としての腕も抜群で、海外でも通用するほど優秀さ。
実際にソウルでも有名な外科医だったそうだし、経歴もなんだかすごいぜ。
大手製薬会社のメディカルドクターをした後は、韓国の製薬会社の研究員を経て、向こうの病院で外科医デビューと華々しい。
でも張矢先生には、そんな華やかな経歴なんて関係ない、何よりも大事な存在の奥さんがいるんだよ。
もうこう言っちゃなんだが、長年近くで働いていると分かるんだよな。
先生の奥さんへの深い愛情ってものが、ひしひしと……
といっても俺たち医局のものは奥さんの姿も見たことがないし、名前すら知らないが。でも皆もそれでいいと温かく見守っている。
俺達なんかが触れてはいけない程の大恋愛で、きっと大きな苦難を乗り越えて結婚したに違いない。だからそっとしておこう。
いつもは厳しい張矢がふと柔らかい笑みを浮かべるのは、奥さんのことを考えている時なのだろう。
「あの……陣内先生は張矢先生の奥さんを見たことがあるんですか。何か情報を知っているんですか」
高瀬くんが思いつめたように聞いて来る。
やっぱりな。この話になると思った。
だが丁度いいとも思った。
どうしても伝えてやりたいことがある。
翠の覚悟は、生半可なものじゃない。
それがひしひしと伝わる……凛としたものだった。
だから、もう何も言わない。
「ふっ参ったな。翠のそんな顔……今になって見ると思わなかった」
「道昭……すまない」
「いや俺が口を出すことじゃなかった。こっちこそすまない」
「道昭……どうか謝らないでくれ」
「上手くやれよ。俺はまたお前のあんな何もかも諦めたような乾いた寂しい笑顔は見たくない」
そうだ。
もともと翠という人間は、不思議な男だった。
彼は大学に入ってすぐに出来た友人だった。
きっかけはなんだったか。
入学式の日に、俺の目の前を歩いていた。
その後ろ姿がすっとしていて、迷いがないと思った。仏教でいう「※中道《ちゅうどう》」という考えを、身体で表現しているような奴だと思った。
※中道…快楽と苦行、どちらにも傾かない生き方考え方のこと
バランスのとれた後ろ姿だと思った。
そのまま隣の席に座り話しかければ北鎌倉の寺の息子で、寺の跡を継ぐためにこの大学に入ったと教えてもらい、成程と唸ったものだ。
親からの押し付けで、中途半端な気分で京都から東京に出て来た俺とは覚悟が違うとも。
そんな翠とは気も合い切磋琢磨しながら大学生活を過ごした。お互いの寺を行き来したのも、この時期だ。
俺も翠にどんどん感化されて、気が付けば実家の京都の寺を継ぐと豪語するほどになっていた。
中道の道を真っすぐ歩んでいたはずの翠の様子が狂い出したのは、大学四年生になってからだ。
どんなに問い詰めても「大丈夫だ、なんでもない」の一点張りだった。
しかし身体はみるみる痩せ、顔色も悪く、何かにいつも怯えているようだった。
結局、それは卒業まで続いた。
そして何かから逃れるように、卒業後すぐに結婚すると告げた。
「なんでだよ! お前……それでいいのか。北鎌倉の寺はどうするんだよ?跡継ぎだったんだろう?」
そう叫んだ!
どうしても納得いかなくて。
力なく笑う……翠が気の毒だった。
こんな男じゃなかったのに、ここまで追いつめられた翠をこれ以上責めることはできなかった。
だから受け入れた、翠には翠の事情があったのだと。
結婚式にも参列した。
皆に祝ってもらい笑ってはいるが、寂し気だった。
彼の眼は遠くを見ていた。
「翠は乾いている」
そう思った。
あの結婚式以来会ってなかったから、一層そう強く感じるのか。
今の翠は大学生の頃のような、中道の雰囲気を漂わせていた清楚な翠ともまた少し違う。
なんというか……阿修羅のようだった。
戦いといっても、翠の場合は静かな戦いだ。
心の中で繰り広げられている静寂の戦いだ。
その姿が美しく妖艶だとも、しなやかだとも。
仏教の道を進む俺達にとって、このことが正しい道とは言えないだろう。
でも、今の翠はずっと人間らしく生きている。
それを見ることが出来て良かったと思う。
「道昭、もう一杯飲むか」
顔を上げれば、翠の清楚な笑み。
翠の酌か。
幸せだ。
****
二軒目の店は湯豆腐屋にした。
一次会のような五月蠅い店ではなく、ゆっくり話せるところがいい。
結局二軒目の店に来たのは、高瀬くんと俺だけだったが、丁度良かった。
「高瀬くん、今日はどうしたの? あんな風に大声出すなんて珍しいね」
「あっ陣内先生に気を遣わせちゃってすいません。ちょっとムキになって」
「うん……少し驚いたんだけど……なぁもしかして張矢のこと本気なのか」
「えっなんで」
「いや、高瀬くんのあんな本気な顔初めて見たからさ。あっ俺はそういう偏見はないから。ここだけの話、さっきは言えなかったが」
「はぁ……」
高瀬くんの深いため息を隣で浴びて、気の毒に思った。
高瀬くんは結構古くからの付き合いで、彼の人となりとはだいぶ理解しているつもりだった。
ライターの仕事は熱心だし、機転が利くので仕上げも早くて正確だ。明るく溌剌とした雰囲気で甘くハンサムな容姿でモデルみたいだ。もちろん女の子にもよくモテるだろう。
その彼のこと、俺が追うようになったのはいつからか。
だから目で追う相手が、何を見ているのかも知ってしまった。
張矢は確かにカッコいいよ。
包容力もあって外科医としての腕も抜群で、海外でも通用するほど優秀さ。
実際にソウルでも有名な外科医だったそうだし、経歴もなんだかすごいぜ。
大手製薬会社のメディカルドクターをした後は、韓国の製薬会社の研究員を経て、向こうの病院で外科医デビューと華々しい。
でも張矢先生には、そんな華やかな経歴なんて関係ない、何よりも大事な存在の奥さんがいるんだよ。
もうこう言っちゃなんだが、長年近くで働いていると分かるんだよな。
先生の奥さんへの深い愛情ってものが、ひしひしと……
といっても俺たち医局のものは奥さんの姿も見たことがないし、名前すら知らないが。でも皆もそれでいいと温かく見守っている。
俺達なんかが触れてはいけない程の大恋愛で、きっと大きな苦難を乗り越えて結婚したに違いない。だからそっとしておこう。
いつもは厳しい張矢がふと柔らかい笑みを浮かべるのは、奥さんのことを考えている時なのだろう。
「あの……陣内先生は張矢先生の奥さんを見たことがあるんですか。何か情報を知っているんですか」
高瀬くんが思いつめたように聞いて来る。
やっぱりな。この話になると思った。
だが丁度いいとも思った。
どうしても伝えてやりたいことがある。
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