重なる月

志生帆 海

文字の大きさ
上 下
879 / 1,657
11章

解けていく 18

しおりを挟む
 風呂上がりの僕の躰を、流がバスタオルで丁寧に拭いてくれた。

 大人しくじっとしてくれていると……薄い身体の心臓の下で、いつものように流の手が止まってしまった。

 今もうっすらと残る傷跡を、流が辛そうな眼差しで見つめて来る。

 この傷のせいで僕達ずいぶんと遠回りしたね……

「流……また見ているのか。もういいじゃないか。もう過ぎ去ったことだ」

「だが今もこうやって翠の躰に留まる傷が憎い。翠は俺のモノなのに」

「流、この世では恨みが恨みによって静まることはないんだよ。恨みは恨みを捨てることによって静まるんだ。だからもう気にするな。僕はお前のモノだよ」

 流は、まだじっと僕のことを見つめていた。

 そんな流の濡れたままの髪を、もう一度撫でてやる。そうすることで、流の燃え上がりそうになっている闘志を静めてやりたい。

 思えば僕は小さい時から流を落ち着かせるために、背を撫でてやったりしたものだ。

 不思議なことに兄弟で身体を繋げたら、もう兄として弟を想う気持ちはなくなるのかと思ったが、そうではなかった。

 僕は今でも流の兄でもある。その気持ちは少しも萎えていない。

 兄でありながら、流を想う人だと実感している。

 そんな僕の零れ落ちる気持ちを、流はちゃんと拾ってくれる。

「兄さんがそういうのなら、俺もそう思いたい。さぁ冷えるから、これも着て」

 浴衣の上に丹前を羽織らせてくれ、更に足袋靴下も履かせてくれた。

「さぁこれで寒くないだろう」
「あぁ完璧だ。流も早く着ないと」

 まだ腰にタオルしか巻いていない流のことが心配になり、今度は僕がバスタオルで流の身体を拭いてやろうとしたら、さっと手で制された。

「何故?」
「いいよ。自分でやる」
「たまには僕にもさせてくれ」

 流の手を無理矢理押しのけて、タオルで上半身を丁寧に拭いてやる。

 その逞しい腹筋や厚い胸板、よく鍛えられた躰を間近で見ると、この躰に抱かれたのかと、昨夜の情事を思い出し妙に照れ臭くなってしまった。

 華奢な僕の躰とは骨格からして違うよな……そのことが同じ男として、少し羨ましくなる。

「翠……もういい」
「いい身体しているな」
「なっ」

 流は少し震えながら、深いため息を漏らした。

「はぁぁぁ~せっかく静めたばかりなのに、翠は案外意地悪だな」
「えっ! そんなつもりは」

 そんなことを話していると、浴室のドアの外から道昭の声が響いた。

「おいそろそろ上がれるか。待っているお客さんがいるんだ」
「悪い、今出るよ!」
「はぁ──やっぱり辛い」

 流の声が、情けなく響く。



****
 
 高瀬くんの冷たい声に、周りの人も静まった。

 まずいな……変に注目されてしまう。

 こんな状況、望んでいない。
 
 すると場が冷めたのを察した陣内という医師が、助け舟を出してくれた。

「おいおい高瀬くーん。そんなにマジになるなって。いくら高瀬くんが張矢先生の大ファンだからって、それじゃまるで『ガチ』だろう。もうその位でやめておけよ~ 冗談も行き過ぎると笑えないぞ」

 最後の一言は凄みがあった。

 その声に高瀬くんも冷静さを取り乱したようだった。

「あっ……冗談が過ぎました! 酔ったのかな、熱くなりすぎました。張矢先生に悪いですよね……浅岡さん、すみませんでした」

「……いえ」

 俺と丈の関係は、日本ではまだまだ偏見を買う事実だ。

 俺も丈に職場でカミングアウトして欲しいなんて……これっぽっちも望んでいない。

 俺は丈とひっそり暮らせればいいのに、どうしてこんなことになったのか……申し訳ないことをした。

 ただ医療系ライターとして、俺も社会に出てみたかっただけ。そして丈と同じ目線とは言わなくても、丈の仕事ぶりを見てみたかった。

 こんな風に、波風を立てるつもりなんて毛頭なかった。

 丈、ごめん──

 俺って……足手纏いだよな……

 心の中で深く謝った。

 高瀬くんに言われた「あざとい」という言葉にも腹が立ったが、それ以上に丈の事を想っていた。

「よーしっ、じゃあ飲もう! ほら高瀬くんこっちに来いよ。浅岡さんさ、悪いけど席変わってもらってもいいかな~高瀬くんともっと話したくて」

「あっもちろんです」

 陣内医師の願いを受けて高瀬くんと席を替わったが、すれ違う時、彼の眼はまだ笑っていなかった。

 まずいな……争いたくないのに。

 いずれ仕事仲間になる人だし、なんとか穏便にできないだろうか。

 そんなことを席を替わってからも、一人で悶々と考えていた。

「……悪かったね。さっきはカッとして」
「あ……はい」

 丈の余所行きの話し方に違和感と寂しさを抱きつつも、今はこれが最善なんだと言い聞かせた。

 近すぎても駄目だ、難しい。

 もう帰りたいよ。

 都合が悪くなると逃げてしまいたくなる悪い癖が、出て来た。

 そんな俺の心細い心を丈は全部分かってくれていた。

 会話の盛り上がりに紛れ……俺だけに囁いてくれた言葉が効いた。


 「洋、気にするな。所詮私たちの事を何も分かっていない外野の意見だ。洋のことは私が一番深く理解しているのを知っているだろう? どれだけの歴史が私たちの間にあると思っている? どれだけの愛を私が募らせていると? 私は洋が今ここにいてくれることが、とても嬉しいよ」

 思わず涙が出そうになるほど、嬉しい言葉だった。

 俺の丈だ。

 誰にも渡したくない程、俺も好きだ。

 そう大きな声で言いたくなってしまった。

  すると……丈が、テーブルの下でしっかりと俺の手を握り締めてくれた。

「洋、『絆』だ──誰にも渡せない『強い絆』がここにある」


しおりを挟む
感想 54

あなたにおすすめの小説

忘れ物

うりぼう
BL
記憶喪失もの 事故で記憶を失った真樹。 恋人である律は一番傍にいながらも自分が恋人だと言い出せない。 そんな中、真樹が昔から好きだった女性と付き合い始め…… というお話です。

『これで最後だから』と、抱きしめた腕の中で泣いていた

和泉奏
BL
「…俺も、愛しています」と返した従者の表情は、泣きそうなのに綺麗で。 皇太子×従者

【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます

夏ノ宮萄玄
BL
 オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。  ――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。  懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。  義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

帰宅

pAp1Ko
BL
遊んでばかりいた養子の長男と実子の双子の次男たち。 双子を庇い、拐われた長男のその後のおはなし。 書きたいところだけ書いた。作者が読みたいだけです。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

合鍵

茉莉花 香乃
BL
高校から好きだった太一に告白されて恋人になった。鍵も渡されたけれど、僕は見てしまった。太一の部屋から出て行く女の人を…… 他サイトにも公開しています

悩める文官のひとりごと

きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。 そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。 エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。 ムーンライト様にも掲載しております。 

処理中です...