重なる月

志生帆 海

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11章

解けていく 11

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「そろそろ午後の部会が始まりますね」

 高瀬くんが腕時計を確認し、皆を促した。

「じゃあ、お開きにしよう」
「次はこのテーマで発表だな」
「ご馳走様でした」

 それぞれがそれぞれのことを口に出し、雑多な雰囲気になった。

 ふぅ……やっと終わりか。

 俺はどっと疲れてしまった。

 初対面の人と話すのは、ただでさえ苦手なのに、一緒にランチを食べながら和気あいあいなんて、ハードルが高すぎた。

 いや……待てよ、そうじゃないのか。

 俺はこんな当たり前のことすらも出来なくなっていたのだと、痛感してしまった。同時に日本に戻って来てから月影寺での日々があまりに心地良く、何不自由なく過ごさせてもらっていたのを改めて実感した。

「人と接することの優しさ」というものを、俺は丈と丈の家族から惜しみなく注いでもらっている。まだ離れて数日だというのに、月影寺での暮らしが懐かしくなってしまった。

 早く帰りたいな。

 仕事を頑張ろうという気持ちの反面そんな風に思ってしまう程、あの寺は俺にとって自然に帰る場所になっているようだ。

「浅岡さんも次のコマはこの研究発表でしょう。さぁ行きましょうよ」
「あっうん……ちょっとトイレに寄ってから」
「了解です!先に行って隣の席を取っておきますからね!」
「ありがとう」

 やれやれ……高瀬くんは本当に積極的だ。

 何事に対しても前向きに、自分から飛び込んでいく。

 さっきだって輪の外に外れた俺のことを、ぐいっと引っ張ってくれたお陰でひとりでポツンとすることはなかったから、感謝しないとな。

 でもニューヨークに丈が出張で行くと言った後の視線や態度はちょっと怖かった。

 丈は俺を指名したそうだったが、高瀬くんが名乗り出ていた。

 どうなるのか。

 ニューヨークには義父さん達が暮らしている……そして涼の両親も。

 俺にとって縁のある国だ。

 でも積極的に行きたいかというと、どうだろう。

 それでも丈の通訳として行けるのなら、高瀬くんに負けないつもりだ。

 化粧室の鏡を見ながら、そんなことを考えていた。

 ぼんやりと手を洗っていると、白いワイシャツにオレンジ色の染みを見つけてしまった。

 あっこれは、さっきのエビチリか。また汚しちゃったのか……まずいな。丈に呆れられる。ハンカチを少しだけ濡らして胸元にあてようとすると、すっと手が伸びてきて制止された。

 最初は驚いたけれども、丈だとすぐに分かった。

「丈っ」

「洋、また汚したな。さっき見ていたが、ここのエビチリは本格的で殻付きだったらから食べにくかっただろう。私が隣にいたら剥いてあげたのにな」

 そう言いながら、丈はウェットティッシュのようなものを取り出し、俺のワインシャツを掻い摘んで拭いてくれた。

 するとオレンジ色の染みはすっと消えて行った。

 まるで手品のようで驚いた。

 本当に俺の丈は、何でも出来る頼りになる。

「すごい! 消えた!」

 丈は俺の反応に目元をふっと緩めて、低く響く声で囁いた。

「そんな目を丸くして魔法を見たような表情をするな。これは染み抜きシートだよ」
「あっそうか」

 ここには俺達以外、誰もいない。
 ここにいる丈は、俺だけの丈だ。

 そんな気持ちが込み上げてきて、衝動的に丈の手を俺から握ってしまった。

「洋?」
「あっ悪い」
「ふっ甘えたくなったのか」
「ちっ違うから」

 慌てて離れようと思ったら、丈の手を上から重ねられてしまった。

 なんだか、まるでバックハグされているような恰好になって焦ってしまう。

 動揺する俺の顔が、鏡にしっかりと映った。

「だっ駄目だろ」
「もうみんな部屋に入ったよ」
「でも……」
「洋、頑張っているな」

 俺の肩に丈の息がかかって、ぞくっとしてしまう。

 もちろんいつ誰が入ってくるか分からない化粧室の中だ。

 ほんの一瞬の、風のような抱擁だった。

 そして甘い言葉だった。

 それでも今の俺には、かけがえのないものだった。

「頑張るよ、俺」
「偉いな。あとで褒美をあげよう」

 いつもの丈だ。

 褒美っていうのは、きっととんでもないやつだ。

 寝かせてもらえない程の……

 なんだか、肩の力がいい感じに抜けていくのを感じた。

 緊張していた心がすっと解けていく。

 丈が丈らしいことに、妙にホッとした。
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