重なる月

志生帆 海

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11章

いにしえの声 8

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 着慣れないスーツとネクタイが窮屈で、駅の改札口で少しだけ首元を緩めた。

 それにしたってビジネススーツなんていつぶりだろう。もしかして丈と出逢った製薬会社に勤めていた時以来なのか。出版社や広告代理店に行く時もジャケットは着たが、こんなカチッとしたビジネススーツではなかった。

 俺が今日着ている濃紺のシンプルなビジネススーツは、この仕事が決まってから丈と横浜のデパートまで行って揃えたものだった。

 そういえば、今日は丈もスーツのはずだ。

 丈も普段は外科医という仕事柄、緊急手術が入ることも多いので、※スクラブを着ているから、新鮮だ。

(※スクラブとは、半袖で首元がVネックになっている医療用白衣のこと。丈夫で着替えも容易にでき、清潔感が重視される医療現場ではよく用いられています)


 間もなく会える丈へと想いを馳せていると、トントンっと突然肩を叩かれた。

「あーやっぱり、さっきホームでコケてた人だ。美人さんなんで覚えていましたよ」

「えっ」

 ギョッとした。

 あの転んだところを見られただけでも恥ずかしいのに、また会うなんて。

 なんの因果だよと、恨みたい。

「……さっきはありがとうございます」
「偶然ですね~もしかして医学学会へ行かれるんですか」

 この駅は外科医の学会へ行く人で溢れているから、もうバレバレだろう。

 観念して答えた。

「……そうですが」

「あーもしかして、その荷物といい医師ではなさそうだから、マスコミ関係かな? んーでもう少し堅そうだからライターさんとか」

 いきなりの図星で唖然とする。

 俺の無言を肯定と受け取ったらしく、彼はしたり顔で名刺を渡してきた。

 俺と同じ年位の青年で、爽やかな印象で嫌味なところはない。人懐っこい性格なのだろうと思うが、多少強引だが。

「同業ですよね。 僕は主に医療系をメインに活動している高瀬といいます。どうぞよろしく。これ名刺です」

 名刺までもらっては、名乗らないわけにはいかない。

「あ……俺の名刺です」

 仕事用の名刺を交換することにした。

 彼の医療系のライターという肩書を聞いて、今後も顔を合わせるような気がしたので、突っぱねることは出来ないと判断したからだ。

「へぇ『浅岡 洋さん』って言うのか。翻訳や通訳……じゃあ英語が得意なんですか」
「まぁ……」

 名刺はとうの昔に亡くなった実父の苗字の『浅岡』にしてある。

 仕事ではこの苗字のままにしているから。ましてこれから医療系の分野に進むのなら『張矢』とは名乗らない方が得策だと思った。

 それより、そろそろ丈が到着する時間だ。

「もしかして誰かと待ち合わせですか」

 気もそぞろにしていると、やはりまた気づかれてしまった。

 んん? 俺ってそんなに分かりやすいのか。

「ええっと……」

 ここで医師である丈が登場するのは、まずいと思った。どうやって切り抜けようかと思っていると、丈がもう改札を潜り抜けてしまった。

 もう……あと十歩の距離だ。

 どうしよう!

 俺のことを見つめる丈の顔。

 何? と怪訝な表情を浮かべていた。

****

 地下鉄の中で、洋との短いやりとりを終えて、スマホをポケットにしまった。

 好きな人との交信はいいものだ。少しメールをやりとりするだけでも、ぐっと満たされた気持ちになるものだな。

 それにしても私としたことが、洋に会いたいばかりに、予定より随分早い新幹線に飛び乗ってしまうなんて。全く自分でもどうかしていると思いつつも、ただ素直に洋に一分一秒でも早く会いたいという気持ちに忠実になった。

「案外いい仕事だ」

 思わず、そう呟いてしまった。

 ソウルから日本に戻り実家に身を寄せるにあたり、とりあえず非常勤で通い出した大船の総合病院で、そのまま正式な勤務医となったのは自然な流れだった。

 正式に就職した途端、待ってましたとばかりに学会への顔出しなど、医療行為以外の仕事も山ほど降りかかってくるようになったのには驚いたが。

 だがこんな風に京都で洋に会えるのは嬉しい。今回の学会の仕事が私に割り振られたことに、感謝したいほどだ。

 それにしても久しぶりのスーツは窮屈だ。スーツを着なくなってどの位経っただろう。

 外科医の仕事は多忙でスーツなど悠長に脱ぎ気している場合ではない。タフでなくては務まらない仕事だよ。全く……

「にしても、きついな」

 喉元のネクタイに指をいれてクイッと緩めた。 同時に今、洋も同じような仕草をしたような気がした。

 さて、もうすぐだ。

 あの濃紺のノーブルなスーツを着こなした洋と会えると思うと、胸が躍るようだ。

 私は意気揚々と改札を潜り抜けた。


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