重なる月

志生帆 海

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11章

いにしえの声 3

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「そうよ、この翡翠のような色合いは、あの薫《かおる》の作品だわ」

「薫……? それは人の名ですか」

 ここでまた聞きなれない名前が出て来た。

「えっとね、薫は大正時代の京都を代表する京友禅作家のひとりなのよ。薫の後期の作品に、この色とそっくりな着物が数多くあったのを思い出したわ。あぁそうよ、いつもこの翡翠色と蒼い清流のような色がメインテーマのようだったのよ」

「え……蒼い清流!」

 翠さんが珍しく大きな声を出した。

 そうだ……俺も見せてもらったから分かる。月影寺には二枚の風呂敷があったのを思い出した。一枚はまさに翡翠のような碧色で、まるで深い森林の濃淡を映しとったような色合いだった。柄はなく、ただ色と色が滲んでいく様子を描いていた。

 もう一枚は蒼い清流のような色合いで、清らかに真っすぐ流れ行く水の勢いは、どこまでも澄んでいた。

「あの、その薫という人のこと、もう少し詳しく教えてもらえませんか」

「たしか目録があったような。私の母が集めていたのよ。薫のファンだったのかしらね。えっと確かここに……私が呉服屋を継いで若女将となった時に、母からよく聞いていたの」

 年老いた女性は懐かしそうに目を細め、身体を労わりながら、番頭机の引き出しから古い冊子を取り出した。酷く黄ばんだ古い冊子だったが、今でいう着物のカタログのようなものらしく、白黒ではあったが中には着物や作家の情報が網羅されていた。

「ここよ。これが薫の系譜」

 皺のある指が差す箇所には「薫」という文字が見えた。

ーーーー

京友禅作家『薫』

遠山 夕顔氏、藤平 夕顔氏と続く女流作家「夕顔」の系譜を受け継ぎ、伝統的な文様を基礎としながら、若さ溢れる現代風の草花文様を優しい色使いで繊細に仕上げております。

ーーーー

 翠さんと俺は、思わず顔を見合わせた。

「夕顔って」
「夕顔ってあの……夕顔ですかね」

 そうだ、月影寺で亡くなったという夕顔さんのお墓を思い出した。

「どうやら何か縁がありそうな話だな」

「確かに……あの、この薫さんはどこに住んでいたのですか。薫さんの作品はお持ちではないのですか」

「あったわ。だから私はこの風呂敷の色で思い出したの。母は薫の作品の訪問着を一枚だけ持っていたのよ。母の願いで亡くなった時に一緒に荼毘に付したので、もう手元にないのだけど……私はよく覚えているわ」

「なるほど翠さん、これは薫の足取りも調べる必要がありそうです」

「あの薫の作品なら京都一の呉服屋、大鷹屋に展示してあったはずよ。あそこの専売特許だったから…」

「翠さん…そこに行けば何か分かるかもしれません」

「そうだね。でも時間が足りないな」

「あっ確かに」

「とにかくすごい収穫だよ。今後は宇治と大鷹屋という呉服店の二つを調べてみよう」


****

 一宮屋の若女将と女将に丁寧に見送られて、俺達は帰路に就いた。

 伝統的な町屋の風情に、胸が締め付けられる程の懐かしさがこみあげて来る。

 この家は……ここはもしかして……俺にとって故郷の一つだったのか。

 後ろから声がする。空耳か……
 
「夕凪さん……」

 優しい声に誘われて、俺の知らない情景がぶわっと浮かび上がる。

……

 広がる夕凪の空。
 茜色に染まる京の町。

 今までずっとこの時間は、家に帰れる幸せな時だと思っていたのに、今は独り……生まれ育った家を出て行かなくてはいけない時間となってしまった。

 厳格だった父。ただただ優しかった母。
 美しい着物で色鮮やかに溢れていた一宮屋。

 きっともう二度と戻れない。
 いや、戻らない場所になるだろう。

「さようなら……」


……

(『夕凪の空 京の香り』ためらい3より引用)

 一歩、また一歩と歩くたびに視界がぼやけていくのは何故だろう。

「洋くん、泣いているのか。なぜ…」

「翠さん、夕凪が俺の中で泣いている。ここに別れを告げた日の彼が、今ここに……」

 胸にそっと手をあてた。

 もしかして、ここは夕凪の家だったのか。

 君の生家だったのか。

 でもこの家にはもう君の面影は残っていなかった。

 ここを出てどこへ行ったのだろう。

 本当に……

 俺という人間は、一体幾人の人生を……

 想いを受け継いで来たのだろう。

 何も知らなかったでは済ませられない深い悲しみに襲われる。

「洋くん……」

 そんな俺のことを、翠さんが優しく抱きしめてくれる。

「大丈夫。君はもう一人じゃないよ。沢山の過去の想いは君を苦しめたり悲しめたりするかもしれないが、今の君なら大丈夫。受け止めてあげて……君が受け止めきれないものは、周りの人が助けるから大丈夫だから」


 静かな厳かな声。
 兄になった人の逞しさ。
 意志の強さに励まされる。

「翠さん……翠さんっ」

 小さな子供のようにその名を繰り返しているうちに、涙は収まり心も落ち着いてきた。


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