重なる月

志生帆 海

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11章

初心をもって 9

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 受話器を空振りし虚しく空を掴んだ手を見て、流兄さんが微笑んだ。

 嘲笑ではない、温かい笑みだった。

「何です?」
「お前は可愛くなったよ、本当に」
「は?」
「ほらっもう帰れ。離れで思う存分電話して来いよ」
「……分かりました」

 離れへ戻る道すがら、漆黒の夜空を見上げた。

 空に浮かぶのは、もうすぐ満月になろうとする大きな月。

 少しだけ足りない歪な形に、洋のことを想う。

 間もなく十二月、気ぜわしい季節が訪れる。

 その前に私は金曜日から洋の待つ京都へ行く。私は学会に参加し、洋はその取材だ。久しぶりに肩を並べて堂々と外の世界で働けるのが待ち遠しい。

 すぐに洋に会えるのに、それでも夜になれば洋を探すように求めてしまうのは、長年染みついた癖なのか。

 洋も今頃、京都で同じ月を見ているのだろうか。

 こんなにも当たり前のように傍にいてくれるようになっていたのだな。

 少しでも離れると、寂しく感じる程に。

 離れに戻って、私から洋の携帯にかけてもよかったのだが、今宵は月を肴に酒を飲みながら、洋からのコールをゆったりと待ちたい気分だった。
 
 さっとシャワーを浴びて、バスローブのまま、ベッドで兄が漬けた梅酒のロックを傾けた。洋がいたら怒られるだろうか。こんな不作法。それにしても洋がいないと、広いベッドは深い海のようだ。

 まろやかな梅酒を口に含みながら、私は母屋での会話を思い出していた。

 変わったのは流兄さんの方では?

 本当は……さっきそう言い返したかった。

 呼び水のように再び、いつも考えていることをまた考え出してしまう。

 月影寺に戻ってから、何度も感じたことを。

 こんな関係じゃなかった。

 私はずっと二人の兄との接触が怖かった。

 どこまでも甘えてしまいそうで。

 一番上の翠兄さんは、いつだって慈悲深く私に接してくれた。優しく丁寧に弟として何不自由なく扱ってもらった。一方流兄さんは風来坊といった雰囲気で、自然に伸びやかに思うがままに生きていた。

 眩しかった。憧れていた。

 理想的な兄を二人も持っていたというのに、優しくされてもどう返せば分からず、冷たくされる方が楽だった。

 子供の割に大人びた性格が災いして、いつだって素直になれなかったのは、私の方だった。なのに、この歳になり洋を連れて、この家に戻って来てから、ガラリと空気が変わった。

 私は心の底から幸せを感じ、素直に笑えるようになり、そんな私のことを、兄達が喜んで見守ってくれている。

 ずっと上手く回らなかった歯車が回り出している。

 人の心なんて動かせないとずっと思っていた。

 それは違っていた。

 自分が変わると、相手も変化することを知った。

 ロックグラスがカランと氷とぶつかり、透明な音を立てた。

 それは……いつの日か洋と奏でたあの音と似ていた。

 

 重なる月の音色に──





****

 京都風空寺 宿坊

 宿坊の風呂は共用で使える時間が限られているそうで、促されるままに翠さんと二人で湯船に浸かった。翠さんと風呂を共にするのは、あの宮崎旅行以来だ。

 そういえば、あの時のあの不気味な男性とはその後、大丈夫なのか。

 翠さんが若い頃、彼に傷つけられそうになったと聞いて驚いた。穏やかで静かな春の海のような人だが、人知れず苦労して来た人なのだと思う。

 本気で、その後何もないのか心配してしまうよ。

 俺よりずっと大人でしなやかな男性なのに、どこか儚く脆く……そして俺と波長が合う人だから。

 そんな翠さんの心臓の下のケロイドのような痕が、さっきからお湯の狭間に見え隠れして気になってしょうがない。この前はキスマークかと思ったが、全然違った。

 もうずいぶん前なのだろう、うっすらだが確かにそこには傷痕があった。

「どうした?洋くん」

 まずい……じっと見つめ過ぎていたみたいだ。

「あっ、あの……その」
「これが気になる?」
「あっすいません。そういうわけでは」

 翠さん自身の指が、その傷痕に触れた。

 本当に翠さんの躰に似合わない傷だとキリリと胃が痛む。

「……これは戒めだった。近づきたい人に近づくなという警告だった」
「戒め?」
「でももう意味はなさないね」

 そう言いながら、翠さんは風呂場の腰高窓から、そっと夜空を見上げた。

 空には満月になりきれない月が輝いていた。

「僕らも……洋くん達みたいに生きられるだろうか」

 小さな、でも確かに願いの籠った呟き。

「それは……流さんと……ですか」

 そっと言葉を添えると、はっと俺を見上げた翠さんは火照った身体と同じように頬を赤く染めた。

「……ふっ……もうお見通しだね。でも、洋くんになら何でも話せるから、不思議だ」

 翠さんは静かに、でも……はっきりと認めた。



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