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11章
初心をもって 7
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北鎌倉の夜
離れでスーツを脱いで部屋着に着替え、それから母屋へ向かった。
離れが完成してから、二人で食事を取ることもあったが、洋の希望でもあり私たちは母屋で皆で向かい合いながら食事をすることも多かった。
今日はひとりだし、母屋で流兄さんと薙が待っている。こういう時に同じ敷地に兄弟や甥っ子がいるのは、助かるな。
あんなにひとりが好きだった私は……もういない。
****
「洋、無理しなくてもいいんだぞ? 離れで二人で食事は済ましてもいいと翠兄さんも言ってくれているのだから」
「無理はしていないよ。俺はずっと一人っ子だったし、母が亡くなった後はひとりで食事をしてばかりだったから憧れていたんだ。家族団欒というものにさ」
もしかして気を使い過ぎていないかと心配で問うと、洋はいつだって微笑んでこう言った。
確かに洋の壮絶な過去を思えば、こんな平和な食卓はないだろう。だから洋の願うままに、私はすべて受け入れた。
優しい微笑みを浮かべる洋が愛おしくて、同時に私自身も中学から家を出たので、こんな風に毎晩のように兄達と食事を共にする家族の団欒は初めての体験だ。
洋と私は状況は違えども、こんな風に似ている部分がある。
****
母屋の台所へ行くと食事の片付けもしないまま、食卓のテーブルに教科書やノートを広げ、薙が流兄さんに勉強を教えてもらっていた。
「ただいま」
「あっ丈さん、お帰りさい」
「おっ丈、ちょうどいいところに帰って来たな。ここ教えてあげてくれないか」
「テスト勉強ですか」
「そうなんだが、俺は芸術系はいいが、数学とか本当に駄目でさ」
流兄さんは悪びれることもなく、いつものように豪快に笑っていた。
「ははっいいですよ。その代わりここ片付けて私に食事を」
「おう」
中学生のテストか。懐かしいな。
「どこだ? 分からないのは」
「あっえっと、ここの問題」
「どれ、あぁ……これはな」
口に出して説明し出すと、ふと昔のことを思い出した。
あれは中学生の頃だ。
図書館で勉強していると、よく同級生に因縁をつけられたものだ。友達も作らず一人で勉強ばかりしている寡黙なクラスメイトが、鬱陶しかったのだろう。
****
「張矢、お前ってさ、なんでそんなえらそーなわけ」
「……別にそんなつもりは」
「取り澄ましてお高く止まってよぉ。ちょっと来いよ」
図書館で期末テストのための勉強をしていたら、突然声を掛けられた。
ノートが影が映るのが邪魔で不快に思い顔をあげると、クラスメイトが数人立っていた。
明らかに喧嘩腰の奴らの相手はしない。無視して座っていると肩をぐいっと掴まれた。
「ムカツク!ちょっと顔貸せよ」
「そんな暇はない」
「なんだと」
結局いつもそんなやりとりの後、連れて行かれるのは、お決まりのように校舎裏の空き地。コンクリートの校舎の壁に背中を押し付けられるが、別に動じない。明らかに背が格段に高い自分が、相手を強くにらみつけると、ひるんでいく。
「こいつ本当にムカツク! 達観した顔して胸糞悪い!」
ビリビリに破られた教科書やノートが風に舞う。
そんな目に見えない体に残らない傷を、沢山残された。
だが、そんなことは本当に自分にとって小さなことだった。
自分はこんな事で、一喜一憂している場合ではない。
強くならないと。
どんな試練にも耐えられるように心を鍛えておけ──
なぜか幼い頃から芽生えた感情は、まるで遠い過去からのメッセージ。
****
「丈さん、どうしたの?」
若い頃の翠兄さんそっくりの顔をしている薙が、不思議そうに見つめて来る。
あぁこの顔……似ている。
いつだって翠兄さんは美しい顔を優しく緩め、私に話しかけてくれた。
****
「丈、学校はどうだった? 今日は何を習ったの。分からない所はないか」
両親が忙しい中、小学校から帰ると必ず学生服を着た翠兄さんが、優しい口調で聞いてくれた。
「……別に」
だがそんな優しい兄に対して、当時の私は無愛想に返事をする程度のことしか返すことは出来なかった。それでも兄さんはたおやかな手つきで私の頭を撫でてくれた。
「お前は偉いね。いつもひとりで頑張っている。でもお前はひとりじゃないよ。兄が二人もいること忘れないで」
****
そんなぎくしゃくな日々を細切れに思い出してしまうな。
こんな日は……
その時、家の電話が鳴った。
「あっ電話だ」
「いいよ、俺が出る」
流兄さんが皿洗いを中断して、慌てて受話器を握った。薙は演習問題を解くのに夢中で、顔をあげない。
私も電話の音に胸が熱くなった。
電話の相手は聞かなくても分かる。
受話器の向こうには、きっと。
離れでスーツを脱いで部屋着に着替え、それから母屋へ向かった。
離れが完成してから、二人で食事を取ることもあったが、洋の希望でもあり私たちは母屋で皆で向かい合いながら食事をすることも多かった。
今日はひとりだし、母屋で流兄さんと薙が待っている。こういう時に同じ敷地に兄弟や甥っ子がいるのは、助かるな。
あんなにひとりが好きだった私は……もういない。
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「洋、無理しなくてもいいんだぞ? 離れで二人で食事は済ましてもいいと翠兄さんも言ってくれているのだから」
「無理はしていないよ。俺はずっと一人っ子だったし、母が亡くなった後はひとりで食事をしてばかりだったから憧れていたんだ。家族団欒というものにさ」
もしかして気を使い過ぎていないかと心配で問うと、洋はいつだって微笑んでこう言った。
確かに洋の壮絶な過去を思えば、こんな平和な食卓はないだろう。だから洋の願うままに、私はすべて受け入れた。
優しい微笑みを浮かべる洋が愛おしくて、同時に私自身も中学から家を出たので、こんな風に毎晩のように兄達と食事を共にする家族の団欒は初めての体験だ。
洋と私は状況は違えども、こんな風に似ている部分がある。
****
母屋の台所へ行くと食事の片付けもしないまま、食卓のテーブルに教科書やノートを広げ、薙が流兄さんに勉強を教えてもらっていた。
「ただいま」
「あっ丈さん、お帰りさい」
「おっ丈、ちょうどいいところに帰って来たな。ここ教えてあげてくれないか」
「テスト勉強ですか」
「そうなんだが、俺は芸術系はいいが、数学とか本当に駄目でさ」
流兄さんは悪びれることもなく、いつものように豪快に笑っていた。
「ははっいいですよ。その代わりここ片付けて私に食事を」
「おう」
中学生のテストか。懐かしいな。
「どこだ? 分からないのは」
「あっえっと、ここの問題」
「どれ、あぁ……これはな」
口に出して説明し出すと、ふと昔のことを思い出した。
あれは中学生の頃だ。
図書館で勉強していると、よく同級生に因縁をつけられたものだ。友達も作らず一人で勉強ばかりしている寡黙なクラスメイトが、鬱陶しかったのだろう。
****
「張矢、お前ってさ、なんでそんなえらそーなわけ」
「……別にそんなつもりは」
「取り澄ましてお高く止まってよぉ。ちょっと来いよ」
図書館で期末テストのための勉強をしていたら、突然声を掛けられた。
ノートが影が映るのが邪魔で不快に思い顔をあげると、クラスメイトが数人立っていた。
明らかに喧嘩腰の奴らの相手はしない。無視して座っていると肩をぐいっと掴まれた。
「ムカツク!ちょっと顔貸せよ」
「そんな暇はない」
「なんだと」
結局いつもそんなやりとりの後、連れて行かれるのは、お決まりのように校舎裏の空き地。コンクリートの校舎の壁に背中を押し付けられるが、別に動じない。明らかに背が格段に高い自分が、相手を強くにらみつけると、ひるんでいく。
「こいつ本当にムカツク! 達観した顔して胸糞悪い!」
ビリビリに破られた教科書やノートが風に舞う。
そんな目に見えない体に残らない傷を、沢山残された。
だが、そんなことは本当に自分にとって小さなことだった。
自分はこんな事で、一喜一憂している場合ではない。
強くならないと。
どんな試練にも耐えられるように心を鍛えておけ──
なぜか幼い頃から芽生えた感情は、まるで遠い過去からのメッセージ。
****
「丈さん、どうしたの?」
若い頃の翠兄さんそっくりの顔をしている薙が、不思議そうに見つめて来る。
あぁこの顔……似ている。
いつだって翠兄さんは美しい顔を優しく緩め、私に話しかけてくれた。
****
「丈、学校はどうだった? 今日は何を習ったの。分からない所はないか」
両親が忙しい中、小学校から帰ると必ず学生服を着た翠兄さんが、優しい口調で聞いてくれた。
「……別に」
だがそんな優しい兄に対して、当時の私は無愛想に返事をする程度のことしか返すことは出来なかった。それでも兄さんはたおやかな手つきで私の頭を撫でてくれた。
「お前は偉いね。いつもひとりで頑張っている。でもお前はひとりじゃないよ。兄が二人もいること忘れないで」
****
そんなぎくしゃくな日々を細切れに思い出してしまうな。
こんな日は……
その時、家の電話が鳴った。
「あっ電話だ」
「いいよ、俺が出る」
流兄さんが皿洗いを中断して、慌てて受話器を握った。薙は演習問題を解くのに夢中で、顔をあげない。
私も電話の音に胸が熱くなった。
電話の相手は聞かなくても分かる。
受話器の向こうには、きっと。
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