重なる月

志生帆 海

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11章

初心をもって 6

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 鎌倉・月影寺

 灯りがついていない離れへ帰るのは、引っ越してから初めてだ。いつも洋が私より早く帰って、色を灯してくれていたから。

 時計を見るともう20時前。
 
 金曜日の朝から京都の学会へ行くため、やるべきことが沢山あって残業になった。

 今頃洋は、翠兄さんと京都で夕食でも食べている頃か。

 いつものように私は置いてけぼりだ。

 前はそれが不甲斐なく、人命を預かる仕事のため抜けられない自分が腹立たしく、洋を一番に助けてるのが自分でなかったことが悔しかった。

 どうして、私でないのか。
 そう心の中で醜く叫んだこともある。

 特にあの韓国のホテルで重役の懐に、おとりとして飛び込むという危険を冒した洋。すぐ傍にいてやれず、すぐに助けられなかったことは本当に辛かった。

 もっと早く駆けつけたかった。
 最初から傍にいてやりたかった。
 洋に危険を冒させたくなかった。

 私が仕事を切り上げ駆けつけた時には、結局寸でのところで安志くんとKaiに助けられた洋は、裸のまま毛布に包まって意識を朦朧とさせていた。

 あの日のあの光景は、暫く私を自責の念で苦しめることになった。

 だが今は違う。

 こうやって一人で洋のいない家に帰るのは確かに寂しいが、前のような焦燥感はない。

 先日つい木枯らしにあてられて、洋に「温めて欲しい」と弱音が漏れてしまった。

 その言葉に打たれたように、私たちは深く熱く抱きあった。

 洋が私を抱いてくれた。優しくその腕で包み込んで……

 洋は最近特に穏やかで幸せな笑顔を浮かべることが多くなった。

 出会った頃の、君の寂し気な横顔を思い出す。何かに耐えるような悲壮な表情が見え隠れしていた。

 その笑顔を引き出しているのは、私だという自負もある。

 そして洋は日に日に、前向きに明るくなってきている。そんな土壌を私は洋に作ってあげることが出来たとも自負している。

 離れていても、こんなにも通じ合っていると思えるのは、お互い辛い思いをした年月のおかげだ。

 すべての物事には意味があったというわけだ。

「だが……やっぱり試練の連続だったぞ……洋」

 誰もいない部屋に向かって、私はぼそっと呟いた。


****

京都祇園

「クシュンっ──」
「あはは、可愛いくしゃみだね。洋くん」

 木枯らし吹き受ける祇園を道昭さんと翠さんの3人で歩いていたら、急にくしゃみが出てしまった。夕食に京都らしい懐石料理をご馳走になった帰り道だ。

「洋くん、寒いんじゃないか。ほら僕のマフラーを使うといいよ」
「え?いいですよ」
「洋くんは風邪をひきやすいから、気を付けた方がいいよ。金曜日から仕事だし、初めての学会ライターなんだから」
「あっはい」

 そう言われると気が引き締まる。

 これはチャンスだ。

 日本に戻ってからはほとんど月影寺に籠って、翻訳の下請けのような仕事をこなしてきたが、外に出たい。社会にもう一度出て働きたいと思いが強まっていくのは、二十代男子の健全な心なのか。

 特に丈の働く病院へ行き、働いている姿を目の当たりにしてからその思いは強くなった。

 初めての依頼だ。医学系のライターとしてやっていけるかかかっている。

 失敗は出来ない。まして今回の学会には丈も来る。丈にもしっかりと見せたいよ。俺の働いている姿。

 素直にマフラーを借りると、首元が一気に温かくなった。

「しかし翠さん準備がいいですね。まだ十一月なのにマフラーなんて」
「あっうん、流が持って行けって、しつこいから」

 そう言いながら視線を外す翠さんの目元はうっすら赤くなっていて、可愛かった。こういうところ十歳も年上とは思えないな。いつもは凛として隙がないのに、どうやらお酒を飲むと緩むようだ。

「でも、今日は何も収穫がなかったですね」

 道昭さんの紹介で法衣専門店からいくつかの老舗呉服屋を紹介してもらい、今日は祇園界隈に絞って、写真を見せながら何軒も周ってみたが、手ごたえは皆無だった。

「まぁ……まだ他にもあるし、明日に期待しようぜ」

 道昭さんは変な自信を持っているようで、でもそれが温かく頼もしい人だった。少しだけ流さんのことを思い出す。翠さんの周りには、こういうおおらかなタイプの人が集まるのかもしれない。

「そうだよ、洋くん。大丈夫。京都に来ただけで胸が騒いでいるよ。きっと近くに手がかりがあるということだろう」

 翠さんも明日への希望を失っていなかった。

 そう言われれば、俺の心もトクントクンと反応している。

 あの日邂逅した夕凪。

 君が産まれ生きた土地にやってきたからだ。



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