重なる月

志生帆 海

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11章

夜の帳 4

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 話は少し遡る。

 季節はいつの間にか巡り、もう11月になっていた。俺は薄いセーターを着て、朝からいつものように翻訳の先生の所で、助手をしていた。

「洋くん、ちょっといいかな」
「はい」
「ここの部分なんだが、君が訳してみてくれないか」
「分かりました」

 先生が俺に翻訳を原文から頼むなんて珍しいな。いつもは校正やチェック作業なのに。

 机に座り英文を読み込むと、物語は医師の話だったので医療用語など特別な単語が多数出ていた。

 俺はアメリカの大学専攻した心理学から興味が広がり、医療のことを多少学んだ。たまたま就職先も製薬会社だったので、割とこういう文章に慣れている。更にソウルで暮らした五年間、医師の国際的な会議や学会の通訳を多数こなしていた。

 そつなく訳して先生に見せると、目を丸くされた。

「へぇ君は医療系に本当に詳しいね。それに文章もよくまとまっていて的確だな。ふむ……翻訳の仕事だけでなく、ライターの仕事にも手を出してみてはどうかね?医療系に強い人のニーズはあると聞いたよ。私の知り合いの編集長に紹介してあげようか」

「え……本当ですか」

 実は秋に丈の病院で倒れてしまった時、俺のことをライターだと言って丈が誤魔化してくれたことが、ずっと気になっていた。嘘ではなく本物のライターとなれば、仕事の幅も広がるのではないかと思い、あれこれ調べていた矢先だったので、これは願ってもない話だと思った。

「是非お願いします。俺、やってみたいです」

「いいことだね。ここに来た当初の君は、まだまだ消極的だったが、ずいぶん溌剌と前向きになったものだ。この指輪のお陰かな」

「あっ……いえ」

 左手の指輪を先生に見つめられ、戸惑ってしまう。

 丈とペアの指輪を俺は毎日している。丈の手元に残った月輪のネックレスは翠さんに渡したので、今はこの指輪が丈と分かちあう大切なものだ。躊躇いもせずに左手にしているので、当たり前だが、女性と結婚していると思われるのも無理はない。

「そのうち私にも、君の可愛いお嫁さんを紹介して欲しいな」
「は……い」
「洋くんの結婚を、きっと天国の浅岡くんも喜んでいるだろうな」

 先生は本棚の写真立てを懐かしそうに見つめた。そこには若かりし頃の俺の父親が先生と肩を組んで笑っている。

 父さん……

 俺は確かに自分だけの幸せを見つけて歩んでいます。

 だから心配しないで。

 心の中でそう呟いた。

****

「張矢せんせ♡」
「なんだその声は?」
「そのぉ。あの美人なライターさんの連絡先分かりますかぁ♡」
「はぁ?」

 仕事の合間に休憩室で熱いコーヒーを飲んでいると、看護師の女性の猫なで声にぞくりとした。

「……彼に何か用か」

「あーやっぱり知っているんですよね! 先生と懇意にされているようでしたもの! その……男の人に美人って表現はどうかと思うけど、あまりに綺麗で、みんなで見惚れちゃって」

 こんな時はその美人な男性は私の恋人だ。と大声で言いたくて仕方がなくなる。

「それで、彼に何か用なのか」

「ええっと、実はですね~彼はフリーのライターさんで、先生の取材に来るくらいだから医療関係に強いのですよね? 丁度広告代理店の方が、そういうライターさんを探していたので紹介しようと思って」

「んっなんだ、仕事の依頼か」

「そうなんですよ! やましい心なんてないですよぉ。今度の学会の取材に同行してくれる人を探しているようなんです」

 本来ならば彼女に直接洋の仕事の電話番号を教えればよいのだが、どうにも癪に障る。

「詳しい内容を話して。彼には私から連絡を取るから」

「え? 先生自らですか。そんなぁ先生にお手を掛けさせるわけには……連絡先を教えてくだされば私がしますよ~」

「いいからっ、詳しく話して」

「……えっとですね……」

 確かにここで貧血を起こした時に、洋のことを私の取材に来たライターだと話したからな。その事がきっかけになったのか分からないが、あれから洋は本当にライターの仕事を始めていた。だからこの仕事の依頼は、彼にとって良いものだとは思った。

 看護師からおおよその内容を確認したあと、ライター(洋)には、私からその旨を伝え、広告代理店へ直接連絡をする約束をした。

「わぁ~本当に先生のお気に入りのライターさんなんですね。でもその気持ち分かりますよ。あんな美人さんじゃ心配ですもんね。ふふふ、じゃあよろしくお願いします。私からも広告代理店の方にそう伝えますね」

「あぁそうしてくれ」

 応対は、これでおかしくなかっただろうか。

 とにかく早く帰ろう。洋の元へ。

 病棟から駐車場への扉を開けると、一気に木枯らしが吹き抜けて、思わず躰を竦めてしまた。

「随分冷え込んだな」

 車までわずかな距離だがコートの襟を立て、ポケットに手を突っ込んだ。駐車場に停めてある私の車のフロントガラスには、黄色い銀杏の葉が沢山集まっていた。

「すっかり秋も深まったな。これなら秋の京都も良いだろう」



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