重なる月

志生帆 海

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第2部 10章

引き継ぐということ 13

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 書斎の置き時計の針をちらっと見た。
 もう何度目の行動だろう。

 駄目だ。集中出来ない。

 手元の本を閉じ書斎の椅子から僕は立ち上がった。

 遅い……遅すぎる。もう二十三時を過ぎているのに、どうして流は帰って来ないのか。

 何度かメールをしてみたが、流からの返事はなかった。

 渋滞にでも巻き込まれたのだろうか。それにしても遅すぎないか。何か情報でもと思い、テレビをつけた。

 すると……いきなり飛び込んで来たのは、首都高湾岸線での交通事故の現場映像。大きな事故だったようで、滅茶苦茶に潰れてしまった乗用車とそびえたつような大きなトラックが映像に流れた。

 ひゅっと変な息を呑みこんだ。それからひやりと嫌な汗が流れた。事故発生時刻が、流が高速で空港へ向かった時間と被っていた。

 震える手でリモコンを掴み、音声を大きくした。事故にあったのは横浜市の夫婦らしく、夫は重傷で妻は意識不明の重体だと……
 
 怖くなり、膝がガクガクと震えた。事故に流や薙は巻き込まれていなかったと知っても、震えは止まらない。

 もしも……流がいなくなってしまったら、もしも薙がいなくなってしまったら……人間は明日をも知れぬ命だということは世の道理だということは知っているのに、それでも近しい人を失うのは辛い。

 百人一首の歌が、頭の中を滑り落ちるように過っていく。


 君がため 惜しからざりし 命さへ
 ながくもがなと 思ひけるかな


 藤原義孝(50番) 『後拾遺集』恋二・669

 現代語訳

 あなたのためなら、捨てても惜しくはないと思っていた命でさえ、逢瀬を遂げた今となっては、(あなたと逢うために)できる だけ長くありたいと思うようになりました。

 流.……

 僕の命は、所詮人の世のもので、限りある命だと思っていたよ。だが、お前との逢瀬が叶ってしまえば欲が出て来てしまう。

 弟に対するこの秘めたる隠れた恋に気が付いてしまった時、この恋が叶う日が来るのなら命を捨ててもいいとさえ思ったこともあるのに……僕は駄目だな。

 一度逢瀬を遂げれば、一層想いが募ってしまったよ。

 僕は流のために長く生きたいと思うし、流にも長生きして欲しい。
 僕をおいて逝くことは……今度は許さない。

 何故か涙が零れていた。

 あっ…まただ。胸の奥が掻きむしられるような鈍痛。

 心臓が痛い程締め付けられる、床に俯せになり震えているのは誰だ。

 激しい慟哭が遠い過去を遡ってやってくる。

 僕は……遠い昔の僕に一体何があったのか。

 涙を流しながら、僕の足はふらふらと寺の入り口、山門へと自然と向かっていた。


****



「おい、着いた。!歩けるか」

 隣で眠りこけている薙に声を掛けてみるが、ぐっすり眠ってしまったようで、起きる気配がない。

 やれやれ、まだお子さまだ。突っ張っているけどな。
 しかしこの顔。俺が恋焦がれ始めた時の翠と瓜二つだな。
 なんていうか、なんでこんなに似ているんだか。

 よいしょっと。まだ軽いもんだ。
 肩を揺すっても起きない薙を横抱きして、俺は駐車場から山門へと向かった。

 道を静かに月夜が照らしている。
 まるで薙がこの寺にやって来たのを歓迎するかのように、優しく包み込んでくれていた。

 山門が近づくと、ゆらりと揺れる影を見た。
 人影は翠だった。翠の姿を見るとほっとした。

 だがどうしてそんな所に……

 俺の姿を見つけると、翠はまるで転げ落ちるように山門から道路へ続く階段を下りて来た。

 おいっ、危ないって!そんなに走んなよ。
 思わず駆け寄って抱き留めてやりたい衝動に駆られたが、今は腕の中に薙がいるので叶わない。

 はぁはぁと息を切らし翠は俺の前まで走って来た。
 その目には何故か涙が溢れ、その涙を翠は拭おうともせずに俺をまっすぐに見つめた。

「良かった……遅かったから、とても心配したんだ」

 月光を浴びた翠の顔の美しさに、心が躰が揺さぶられる。
 今すぐにでも抱きしめたい衝動にかられ、苦しい程だ。

「悪かった。事故があって渋滞で……」

「知っている。お前達が巻き込まれていたらと思うと、怖くなって」

 翠の心がまっすぐに届く。

 そうか……この涙の理由。
 こんなにも俺のことを、翠は好きになってくれたのか。

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