重なる月

志生帆 海

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完結後の甘い話の章

『蜜月旅行 69』もう一つの月

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 それは振り向かなくても分かる程の、とてつもなく嫌な視線だった。

 つい昨夜も浴びたもので、僕はこの視線を浴びると呼吸が苦しくなる。喉が閉塞され嫌な汗が流れ落ちる。

「へぇ~朝風呂なんて面倒だったが来てみるもんだな。翠さんのこんな姿を拝めるなんて」
「……かっ……克哉くん」
「ははっ、まだそう呼んでくれるなんて、翠さんは本当にお人好しだなぁ」

 克哉くんはそのまま強引に僕の腕を掴んで、壁際の壁に引き寄せた。まずい!ここは入り口から死角になってしまう。

「やっやめろ!」

 脱衣場にまだ誰もいないのをいいことに、克哉くんの手が僕の地肌に直接触れて来た。途端に身震いがするほどの嫌悪感が沸き起こった。躰がガタガタと恐怖で震える。

「綺麗だなぁ。あの時のまんまだな、翠さんの躰」
「そっ、そんなこと言うな! 離せっ」

 荒ぶる息を懸命に整え、僕は出来うる限り冷静に伝えた。

「そう言われるとますます離したくなくなるなぁ。それにここ気になってさ」

 指先でトンっと突かれたのは、乳輪の下に出来た赤い痕。

「これは火傷の痕じゃない。翠さんさ、もしかして最近誰かに抱かれた? それってまさか男? もしかして男を受け入れられる躰になったのか」

 嬉々とした表情を浮かべる克哉くんに、背筋が凍る。

「だったら俺の相手もして欲しいな。あの日みたいに途中までじゃなくて」

 耳を塞ぎたくなる台詞。記憶の彼方に沈めたはずの過去の辱めが蘇ってしまう。

「なぁここで再会したのも何かの縁だから、今度会いましょうよ。今はまた鎌倉の寺にいるんだろ」
「いい加減にしてくれ! 君とはもう二度と会わない! その約束のはずだろう」

 耳元を舐めるように近づく息遣いに、吐き気が込み上げてくる。

 言うことを聞くはずもないのに、得体のしれない不安が押し寄せ、躰がガタガタと震えてしまうのは何故だ。

「あれ? へぇ……震えているの? 可愛いね、あれから15年近く経ったなんて嘘みたいだな。翠さんは変わらず若いまんまだ。肌も張りがあって綺麗だし」

 激しく動いたら取れてしまいそうな腰に巻いたタオルに気を取られて、抵抗が上手く出来ない。

 上半身を執拗に克哉くんの手のひらで撫でられ、吐きそうな程気持ちが悪かった。そしてとうとう克哉くんの唇が、背けようとした首筋に吸い付いて来た。舌の生暖かさ、唾液が立てる水音にブルブルと身震いした。

「やめろ! 離せっ!」

 必死にもがくと、大声を出せないように口を手で塞がれてしまった。男同士でも、体力差・体格差で敵わないものがあることを、僕はよく知っている。

 凄い力でねじ伏せられていくのに、あの日のことがフラッシュバックして何もかもがチカチカとしてきた。

 まさか、こんな場所で……こんなことをされるなんて! 血の気がさーっと音を立てるように引いていく。やがて眼の前が真っ暗になった時に、大声が脱衣場に張り裂けるように鳴り響いた。

「何しているんですか! その手を今すぐ離して下さい! 今ホテルスタッフを呼んでいます。あ……もしもし、すいません。ええ男風呂です。すぐ来てください」

「なっ」

 見れば、いつの間にか浴衣を羽織った洋くんが立っていた。まだ髪も濡れたままだったが、手にはスマホを握りしめ通話しながら、克哉の手を払いのけてくれた。

「なんだお前? 喧嘩売っているのか」

 邪魔をされたのが気に食わない克哉くんが、洋くんの浴衣の胸ぐらを掴もうとすると、洋くんはすかさず、克哉くんが僕を壁に押し付けて躰を触っている動画を見せつけた。

「証拠もあります! とにかく今すぐ出て行って下さい。さもないと!」
「くそっ、あぁ分かったよ!出て行くから、それは消せよ!」

 克哉くんは悔しそうに大浴場を飛び出していった。

「はぁ……はぁ…」

 僕はほっとして、その場にペタンとしゃがみ込んでしまった。

「翠さんっ大丈夫でしたか」
「……洋くん…助かったよ」
「遅いので心配になって見に来たんです。そうしたらあの男が翠さんのことを……」

 その先は言い難そうに洋くんは口を閉じた。

「あの、よかったら一緒に風呂入りましょうか。翠さんも少し落ち着いた方がいいです」

 逆上した克哉くんが戻ってきたらまずいので、すぐに部屋に戻った方がいいと思ったが、こんな動揺した顔を流には見せたくなかった。

 余計な心配を掛けたくない。まして詳細を知れば、この胸に痕をつけたことを、流は気にし後悔してしまうだろう。

 だが洋くんには不思議と心を許せる。今なら……なんでも話せそうだ。

 何故だろう。

 洋くんの過去と僕の過去に重なる部分があるからなのか。ずっと誰にも話せなかった僕の暗い過去を、洋くんに話してしまいたい。記憶の奥底に何重にも蓋をしたあの記憶がドロドロと溢れ出し、僕の心を汚し始めているのを感じていた。

 もう一人では抱えきれないよ。
 だから、どうか聞いて欲しい。

「……洋くんには、みっともない所を見せてしまったね」
「いや、そんなこと」
「よかったら……少し僕の話を聞いてくれるか」
「……えぇ」


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