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第9章
花の咲く音 21
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月影寺の母屋の歩くたびに軋む床を踏み鳴らしながら、長い廊下を真っすぐに進んだ。この突き当りに翠兄さんの部屋はある。
「翠兄さん、入ってもいいですか」
「ああ流か。いいよ」
「仕度は出来ましたか」
「うん、どうかな?」
了解を得て襖を開けると、袈裟姿の艶やかな兄が立っていた。古代紫色の品格のある袈裟が良く似合っていた。父さんが最近になって伊豆の母の所へ入り浸るものだから、兄の翠が月影寺の実質的な住職となっていた。
袈裟姿の翠兄さんは何時もながらに、とても美しい。全くとても三十八歳という年齢には見えないよな。兄が一番母親に似ているのだろうか。女顔で柔和な印象で、しかも涼やかな顔立ち。背は俺より低く、三兄弟の長兄なのに、どこか守ってあげたくなるような儚ない美しさを持ち合わせている、そんな人だ。
そんな兄が寺の若住職として仏門に励む姿は、健気な程だ。実際……檀家さんにも兄のファンは多い。
「あぁ兄さんはやっぱり袈裟姿が一番似合うな」
「そうか。流にそう言われると嬉しいよ。お前は珍しいな。スーツなんて」
「ははっ、流石に今日はいつもの作務衣というわけにはいかないでしょう」
「……お前だって袈裟を持っているだろうに」
「いや、こんな頭に似合いませんよ」
「そうかな……あっ洋くんも丈も仕度できたのか」
「ばっちりですよ」
「そうか、ではそろそろ時間だな」
ハレの日だというのに、何故か少し浮かない翠兄さんの表情が気になった。
「もしかして兄さん、何かあったのですか」
「あっ……うん…」
ふと兄が後ろ手に隠したものが目に入った。
白い封筒?一体誰からだろう?
「それ手紙ですか。誰からですか」
「あ……うん…」
言い淀む兄から手紙を奪い取ると、差出人は『森 彩乃』となっていたので驚いた。
この女性は、かつて兄と結婚していた人だ。兄は寺の跡取りとして二十四歳で、都内の寺のお嬢さんと見合い結婚をしたが、わずか五年で離婚してしまった過去がある。
二人は納得して別れ、彩乃さんは都内に戻り美術の教師を今も生き生きと続けているそうだ。目指す道が違ったのか。俺には詳しい理由は分からないが、とにかく兄は一人になって戻ってきてくれた。
「彩乃さんから?珍しいですね」
「あぁ、昨日この手紙が届いてね」
「何か困ったことでも?」
「うーんそういうわけじゃないけど………いや、今日はいいよ。今度話すよ」
そう言いながら無理矢理、笑顔を浮かべる様子に放っておけないと思った。
「駄目だ。今日は大事な日なんだ。そんな風に悩みながらは良くないだろう。兄さん、俺になら話せるだろう」
「うん……そうだね、流になら……。実は彼女が来月から急にフランスへ行くことになったらしくて」
「フランスっって随分遠くだな」
「向こうの美術館に勤めるらしいんだよ。それは彼女の夢であったからね。やっと採用されたって喜んでいるよ」
「そうか、なら朗報ということか」
「ん……そうだね。それで……実は思い切って:薙(なぎ)のことを、ここに引き取ろうかと思っている」
「えぇっ」
「彼女も薙もそれを望んでいると……」
「そうか……俺も薙のことは好きですよ、確かもう十四歳か、早いな」
「流……本当にそうしてもいいか」
「もちろん。兄さんの子供じゃないですか。ここで育てましょうよ。俺も協力するし」
「ありがとう。ほっとしたよ。流がそう言ってくれるとほっとするな」
兄さんは、きっと一晩中悩んでいたのだろう。俺の一言で兄は心底ほっとしたような表情になっていた。
そっか、薙がこっちで暮らすのか。兄さんが離婚した時まだ五歳だった薙は、母方に引き取られたが、定期的には会っていた。よく俺も一緒に会いに行ったりもしたので馴染みがある。夏休みには何日もこの寺に泊ったりもしたから、何の抵抗もなく迎えられるだろう。
しかし洋くんと丈との結婚式当日にこんな話を聞くなんて……遥か昔の……翠兄さんの結婚式を思い出してしまうよ。
大学を卒業して仏門の修行に本腰を入れた矢先、あっという間に決まってしまった結婚話。憧れでもあり、守ってあげたかった人が手の届かない所へ行ってしまうような喪失感を抱きながら、俺はその日を過ごしていた。
もういい加減に認めよう。
俺は二歳年上の翠兄さんが好きだ。
ずっと恋愛感情を持っている。
でもそれは許されない道だ。
だからこれでいい。
俺の代わりに、丈が俺が出来なかった道を進んでくれる。そして翠兄さんの息子が、またこの寺にやってくる。
幸せに思える。
もしかしたら……周りの幸せを自分のことにように感じることに慣れてしまったのか。
いやそうじゃない。本心から幸せだと感じているんだ。
人には、どう願っても叶わないことがある。そんな中でも、自分に与えられた境遇から幸せを見つけることができるのなら、それは立派な幸せと呼べるだろう。
そう俺は信じているのだ。
「さぁ行こうか」
いよいよ式が始まる。もう皆、集まっている。
先ほど歩いて来た道を、今度は兄と共に進む。
一歩また一歩と踏み出すごとに、何かが動き出す音がする。
今日という日は、この月影寺をも動かす大切な日。
遥かなる時空を超えて大切な想いが集まってくるような、厳かな気配を感じていた。
****
いよいよ「重なる月」第一部最終話まであと1話になりました。丈の兄、翠と流の話は『忍ぶれど……』の方で、丈が生まれた時からじっくり書いています。よろしければ^^
「翠兄さん、入ってもいいですか」
「ああ流か。いいよ」
「仕度は出来ましたか」
「うん、どうかな?」
了解を得て襖を開けると、袈裟姿の艶やかな兄が立っていた。古代紫色の品格のある袈裟が良く似合っていた。父さんが最近になって伊豆の母の所へ入り浸るものだから、兄の翠が月影寺の実質的な住職となっていた。
袈裟姿の翠兄さんは何時もながらに、とても美しい。全くとても三十八歳という年齢には見えないよな。兄が一番母親に似ているのだろうか。女顔で柔和な印象で、しかも涼やかな顔立ち。背は俺より低く、三兄弟の長兄なのに、どこか守ってあげたくなるような儚ない美しさを持ち合わせている、そんな人だ。
そんな兄が寺の若住職として仏門に励む姿は、健気な程だ。実際……檀家さんにも兄のファンは多い。
「あぁ兄さんはやっぱり袈裟姿が一番似合うな」
「そうか。流にそう言われると嬉しいよ。お前は珍しいな。スーツなんて」
「ははっ、流石に今日はいつもの作務衣というわけにはいかないでしょう」
「……お前だって袈裟を持っているだろうに」
「いや、こんな頭に似合いませんよ」
「そうかな……あっ洋くんも丈も仕度できたのか」
「ばっちりですよ」
「そうか、ではそろそろ時間だな」
ハレの日だというのに、何故か少し浮かない翠兄さんの表情が気になった。
「もしかして兄さん、何かあったのですか」
「あっ……うん…」
ふと兄が後ろ手に隠したものが目に入った。
白い封筒?一体誰からだろう?
「それ手紙ですか。誰からですか」
「あ……うん…」
言い淀む兄から手紙を奪い取ると、差出人は『森 彩乃』となっていたので驚いた。
この女性は、かつて兄と結婚していた人だ。兄は寺の跡取りとして二十四歳で、都内の寺のお嬢さんと見合い結婚をしたが、わずか五年で離婚してしまった過去がある。
二人は納得して別れ、彩乃さんは都内に戻り美術の教師を今も生き生きと続けているそうだ。目指す道が違ったのか。俺には詳しい理由は分からないが、とにかく兄は一人になって戻ってきてくれた。
「彩乃さんから?珍しいですね」
「あぁ、昨日この手紙が届いてね」
「何か困ったことでも?」
「うーんそういうわけじゃないけど………いや、今日はいいよ。今度話すよ」
そう言いながら無理矢理、笑顔を浮かべる様子に放っておけないと思った。
「駄目だ。今日は大事な日なんだ。そんな風に悩みながらは良くないだろう。兄さん、俺になら話せるだろう」
「うん……そうだね、流になら……。実は彼女が来月から急にフランスへ行くことになったらしくて」
「フランスっって随分遠くだな」
「向こうの美術館に勤めるらしいんだよ。それは彼女の夢であったからね。やっと採用されたって喜んでいるよ」
「そうか、なら朗報ということか」
「ん……そうだね。それで……実は思い切って:薙(なぎ)のことを、ここに引き取ろうかと思っている」
「えぇっ」
「彼女も薙もそれを望んでいると……」
「そうか……俺も薙のことは好きですよ、確かもう十四歳か、早いな」
「流……本当にそうしてもいいか」
「もちろん。兄さんの子供じゃないですか。ここで育てましょうよ。俺も協力するし」
「ありがとう。ほっとしたよ。流がそう言ってくれるとほっとするな」
兄さんは、きっと一晩中悩んでいたのだろう。俺の一言で兄は心底ほっとしたような表情になっていた。
そっか、薙がこっちで暮らすのか。兄さんが離婚した時まだ五歳だった薙は、母方に引き取られたが、定期的には会っていた。よく俺も一緒に会いに行ったりもしたので馴染みがある。夏休みには何日もこの寺に泊ったりもしたから、何の抵抗もなく迎えられるだろう。
しかし洋くんと丈との結婚式当日にこんな話を聞くなんて……遥か昔の……翠兄さんの結婚式を思い出してしまうよ。
大学を卒業して仏門の修行に本腰を入れた矢先、あっという間に決まってしまった結婚話。憧れでもあり、守ってあげたかった人が手の届かない所へ行ってしまうような喪失感を抱きながら、俺はその日を過ごしていた。
もういい加減に認めよう。
俺は二歳年上の翠兄さんが好きだ。
ずっと恋愛感情を持っている。
でもそれは許されない道だ。
だからこれでいい。
俺の代わりに、丈が俺が出来なかった道を進んでくれる。そして翠兄さんの息子が、またこの寺にやってくる。
幸せに思える。
もしかしたら……周りの幸せを自分のことにように感じることに慣れてしまったのか。
いやそうじゃない。本心から幸せだと感じているんだ。
人には、どう願っても叶わないことがある。そんな中でも、自分に与えられた境遇から幸せを見つけることができるのなら、それは立派な幸せと呼べるだろう。
そう俺は信じているのだ。
「さぁ行こうか」
いよいよ式が始まる。もう皆、集まっている。
先ほど歩いて来た道を、今度は兄と共に進む。
一歩また一歩と踏み出すごとに、何かが動き出す音がする。
今日という日は、この月影寺をも動かす大切な日。
遥かなる時空を超えて大切な想いが集まってくるような、厳かな気配を感じていた。
****
いよいよ「重なる月」第一部最終話まであと1話になりました。丈の兄、翠と流の話は『忍ぶれど……』の方で、丈が生まれた時からじっくり書いています。よろしければ^^
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