重なる月

志生帆 海

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第9章

花の咲く音 9

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 私は二人を起こさないようにそっと椅子に座った。それから静かに書斎のスタンドの電気を灯した。

 灯りと共にふっと古びた和室に浮き上がったのは満月のような二人のシルエット。もう一度見つめ、ほっと安堵の溜息を洩らした。

 ちゃんとそこにいてくれるのだな。
 もう洋はどこにもいかない。
 ずっと私の傍にいてくれる。

 二度とあんな悲しい別れは、経験したくない。

 こんなに幸せなのに、こんなに洋が近くにいるのに、明日から同じ戸籍に入るのに……それでもまだ幸せとは裏腹の不安が、微かに私を苦しめている。

 幸せになればなる程つきまとうのは何故だろう。

 もう洋はすべてを許し前へ前へと進んでいるのに、まったく私の方がいつまでもこんな調子では不甲斐ない。ただ弱くて守ってあげなくてはいけなかった洋は、もういないのに。共に人生を並んで歩む洋なのに……私のこのモヤモヤとした気持ちだけが置いてけぼりを食っているような気分だ。

「おい丈、しっかりしろ」

 そう自分を叱咤激励し、書斎からおもむろに手帳を取り出した。
 この手帳は五年前のもの。

 栞を挟んだ頁を開けば蘇るのは……あの日の葛藤。

 走り書きのように記された文字。
 当時の私の心が見え隠れしていた。
 日記なんかじゃない。
 私の心の叫びのようなもの。

ーーーーーーーーーーーー

 洋が帰宅しない。不安だ。

 洋の父親が来て、洋の荷物を持って行ってしまった。

 もう帰って来ないつもりなのか……ここに。

 父親と何かあったのか、家族のことに口出しできないのがもどかしい。

 会社で久しぶりに会えたのに、酷く余所余所しい。

 何故か仕事が自宅勤務に突然なった。

 まるで誰かが裏から私と洋を近づけないようにしているようだ。

 夢を見た。

 まさか……案じていたことが万が一現実だったらどうする。

 犯された印をつけ悲しみに濡れた洋を抱く夢だった。この夢は一体何を暗示する?

 洋がいない日々が耐えられない。もう何日目だ。

 洋、君は今どこにいるのか、何も分からない。どうしたらまた逢える?術がない。

 手がかりはなんだ。
 何かあるはずだ。

 必死の思いで洋を探した。

 洋の幼馴染から連絡があり、ますますただ事ではない気配を感じ、不安が募る。

 幼馴染の計らいで、とうとう洋に逢える日が戻って来た。

ーーーーーーーーーーー

 温泉宿で二人きりの日々を過ごした後、突然アメリカから帰国した義父に連れて行かれた洋。そのまま帰って来なかった。不思議に思って過ごした数日後、会社でやっと逢えたのに余所余所しく、二人の時間は家も仕事もすべて切り裂かれた。

 安志くんから連絡をもらい、やっとの想いで再会した洋。



****



 いつものように花のようにふんわりと笑おうとして……笑えていない洋のちぐはぐな笑顔。その笑顔は酷く悲し気な色を帯びており、いつも儚げな洋だったが、一段とやつれ痩せて憔悴しきった姿になり果てていたことに、胸がつぶされる思いが駆け上がった。

 洋の眼にが涙が溢れ、滂沱の涙となって零れ落ちた。

 強がって心と逆のことを言い続ける洋の心がこのまま壊れてしまうのではと、恐ろしくなってくる。

「丈……俺はもう此処には戻って来られない。それをきちんと伝えたくて一度だけ此処に来たんだ」
「洋……君は……」
「お願いだ。何も聞かないで行かせて欲しい…」

 洋はふっと寂しそうに微笑み、私の首に手を回し躰を預け、しばらく無言で震えていた。

 触れるなといって触れてくる洋がいじらしい。いかに想いと反対の言葉を洋が無理やり口にしているかが伝わって、胸が締め付けられる。何処かへ洋を独りで行かすなんてこと出来るはずないじゃないか。それなのに洋は意を決したように、きゅっときつく抱き付いて、私の耳元でこう囁いたんだ。

「……さよなら」

 そんな馬鹿げた言葉を……

※重なる月126-128「今、会いたい」より抜粋

****

 さよなら……

 あの日のその言葉が耳にこだまする。
 止めろ!思い出すな!もう過去のことだ。

「うっ……」

 短い嗚咽と共に何かが目から零れ落ちた。
 手帳の文字がゆらりと滲んで見えた。
 
 まさか……私は泣いているのか。

 その時とても優しい手が、静かに肩に触れた。
 ひんやりとした指先で、静かに背を擦ってくれる。

「丈……どうしたんだ?君が泣くなんて」
「洋……」

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