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第9章
雨の降る音 3
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最寄駅から坂道を登り、さらに小道に入った路地に建つ小さな一軒家。
「丈、着いたよ」
ここは、かつて昭和の文学者たちが好んで移り住んだ山王(さんのう)という土地からほど近いと聞いている。翻訳を仕事とし、文学を愛した父が選んだ土地だったのかもしれない。
「ここが洋の住んでいた家なのか」
「うん……懐かしいよ」
ずっと持っていた家の鍵で、ガチャリと少し軋んだ音を立てながら玄関のドアを開けた。この家はアメリカに行く時、そのままにしていった。あの人は他人にこの家を貸すのを嫌がったので、定期的にクリーニング業者に頼んではいたが、本当に長い間、空き家としてそのままにしてきた。
流石に人が住まない家は、家の外壁よりも内装が傷んでしまっていたが、それでも俺が生まれ育った家なんだと思うと、胸がいっぱいになった。
「丈、入って」
「あぁ」
細かい家財はアメリカに行く時に処分してしまったが、大きなダイニングテーブルなどの家具は、そのままの場所に置かれていた。焦茶色の無垢のダイニングテーブルの小さな傷跡にそっと触れると、かつて母が再婚する前、このテーブルを囲んで微笑みあった和やかな光景が蘇って来る。
父が亡くなった時まだ七歳だったから、本当に朧げなんだ。俺の記憶の中の家族が集う思い出は、僅かしか残っていない。父は雨の中……原稿を届けるために出版社へ行ったまま帰ってこなかった。交通事故で突然奪われた父の命は、今考えるとあっけなく無念だったろう。しかも運悪く事故相手が無保険だったので、残された親子が暮らして行くには、補償が充分ではなかったと後に聞いた。
だからなのか……いやもう考えるのはよそう。全て過去のことで、もう取り返しがつかない出来事なのだから。
リビングに続く扉の先は、かつて父の仕事部屋、のちにあの人の書斎として使われた場所があった。何故だか胸が苦しくなって、嫌な汗が流れていく。幸せな思い出と重たい思い出が交互にやって来て、俺の心を乱れさせていく。
丈が後ろから、そんな俺の肩を、そっと支えてくれた。
「洋……大丈夫か。一度に無理するな」
「あっああ……そうだな」
「この家はどうするつもりだ?」
「あの人はもう手放していいって。でも俺は迷っていたんだ。両親が建てた思い出が残る家だから。でも少し違っていたようだ。今日ここに来て分かったよ。ここから俺はもう離れた方がいい」
「そうなのか……焦らずよく考えろ」
「ありがとう。丈、近いうちにやはりこの家は手放すよ。もう俺の帰る家ではないんだ。ここにはもう誰もいないから」
確かに幸せな思い出は大切だ。大切な三人で暮らした時間は俺の胸の中に……物としてなくてもいい、目に見えなくてもいい。
一番大切なことは、心の奥に残せばいい。
ニューヨークであの人に会った時、好きにしなさいと分厚い書類と小さな古びた箱を渡された。家はいつの間にか全て俺名義になっていた。小箱には、もうとっくに焼き捨てられたと思っていた俺の小さい頃の写真、母子手帳や両親の結婚式の写真が数枚入っていた。
その行為は、あの人なりの全てを俺に戻し、俺を手放すための儀式のようだった。
だから俺は受け入れて、判断し、進んで行くだけだ。
「洋、あんまり一人で抱え込むな。少しは私に甘えてくれ」
突然、丈が書斎の机の上に俺を押し付けた。そのまま俺に覆い被さり、腰に手を回しぐっと抱かれてしまったので、身動きが取れない。
「丈?」
「洋……私を見ろ」
見上げると、丈の男らしい唇が近づいて来た。
「んっ」
甘かった。思いの丈のこもった口づけは深くどこまでも甘い。
「丈と……俺っ…んっ」
丈から重ねられる唇が熱くて上手く喋れない。
丈は飢えたていたかのように水分を求めるかのように、俺の唇をひたすらに吸い続けた。
「丈、着いたよ」
ここは、かつて昭和の文学者たちが好んで移り住んだ山王(さんのう)という土地からほど近いと聞いている。翻訳を仕事とし、文学を愛した父が選んだ土地だったのかもしれない。
「ここが洋の住んでいた家なのか」
「うん……懐かしいよ」
ずっと持っていた家の鍵で、ガチャリと少し軋んだ音を立てながら玄関のドアを開けた。この家はアメリカに行く時、そのままにしていった。あの人は他人にこの家を貸すのを嫌がったので、定期的にクリーニング業者に頼んではいたが、本当に長い間、空き家としてそのままにしてきた。
流石に人が住まない家は、家の外壁よりも内装が傷んでしまっていたが、それでも俺が生まれ育った家なんだと思うと、胸がいっぱいになった。
「丈、入って」
「あぁ」
細かい家財はアメリカに行く時に処分してしまったが、大きなダイニングテーブルなどの家具は、そのままの場所に置かれていた。焦茶色の無垢のダイニングテーブルの小さな傷跡にそっと触れると、かつて母が再婚する前、このテーブルを囲んで微笑みあった和やかな光景が蘇って来る。
父が亡くなった時まだ七歳だったから、本当に朧げなんだ。俺の記憶の中の家族が集う思い出は、僅かしか残っていない。父は雨の中……原稿を届けるために出版社へ行ったまま帰ってこなかった。交通事故で突然奪われた父の命は、今考えるとあっけなく無念だったろう。しかも運悪く事故相手が無保険だったので、残された親子が暮らして行くには、補償が充分ではなかったと後に聞いた。
だからなのか……いやもう考えるのはよそう。全て過去のことで、もう取り返しがつかない出来事なのだから。
リビングに続く扉の先は、かつて父の仕事部屋、のちにあの人の書斎として使われた場所があった。何故だか胸が苦しくなって、嫌な汗が流れていく。幸せな思い出と重たい思い出が交互にやって来て、俺の心を乱れさせていく。
丈が後ろから、そんな俺の肩を、そっと支えてくれた。
「洋……大丈夫か。一度に無理するな」
「あっああ……そうだな」
「この家はどうするつもりだ?」
「あの人はもう手放していいって。でも俺は迷っていたんだ。両親が建てた思い出が残る家だから。でも少し違っていたようだ。今日ここに来て分かったよ。ここから俺はもう離れた方がいい」
「そうなのか……焦らずよく考えろ」
「ありがとう。丈、近いうちにやはりこの家は手放すよ。もう俺の帰る家ではないんだ。ここにはもう誰もいないから」
確かに幸せな思い出は大切だ。大切な三人で暮らした時間は俺の胸の中に……物としてなくてもいい、目に見えなくてもいい。
一番大切なことは、心の奥に残せばいい。
ニューヨークであの人に会った時、好きにしなさいと分厚い書類と小さな古びた箱を渡された。家はいつの間にか全て俺名義になっていた。小箱には、もうとっくに焼き捨てられたと思っていた俺の小さい頃の写真、母子手帳や両親の結婚式の写真が数枚入っていた。
その行為は、あの人なりの全てを俺に戻し、俺を手放すための儀式のようだった。
だから俺は受け入れて、判断し、進んで行くだけだ。
「洋、あんまり一人で抱え込むな。少しは私に甘えてくれ」
突然、丈が書斎の机の上に俺を押し付けた。そのまま俺に覆い被さり、腰に手を回しぐっと抱かれてしまったので、身動きが取れない。
「丈?」
「洋……私を見ろ」
見上げると、丈の男らしい唇が近づいて来た。
「んっ」
甘かった。思いの丈のこもった口づけは深くどこまでも甘い。
「丈と……俺っ…んっ」
丈から重ねられる唇が熱くて上手く喋れない。
丈は飢えたていたかのように水分を求めるかのように、俺の唇をひたすらに吸い続けた。
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