重なる月

志生帆 海

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第9章

雨の降る音 2

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 満員電車に揺られていると欠伸が出てしまい、慌てて口元を抑え飲み込んだ。流れゆく単調な灰色の景色を見ていると視界がぼんやりして来て……つい頭の中では昨夜の安志さんと過ごした熱い時を思い出してしまい、慌てて頭をふった。

 駄目だ。こんな電車の中で!

「つ・き・の! おはよー 」

 電車が発車した瞬間、背後から能天気な明るい声が響いて来た。満員電車だというのに長身を生かして器用に人を掻き分けてきたのは、山岡だった。

「おはよ。朝から元気だな」
「おっとお疲れの所ごめんな。ここから乗ってるってことは昨夜は上手くいったのか」
「なにが? 」
「だ・か・ら、シックス……」
「ちょっ、ちょっと黙れっ」

 思わず顔から火が出る思いで、慌てて山岡の口を塞さいだ。

 ったく油断も隙もない口だ。

 そんな僕の様子を山岡は黙ってニヤニヤ見つめ、おもむろにスマホを取り出し、画像をスワイプしだしたので、怪訝に思い覗き込んでは絶句した。

 画面一面に並ぶ体位の一覧。

「これ図解してあるから分かりやすいだろう? さてと、次はどれにする?」
「ばっ馬鹿! 変態だっ!」

 つい車中ということも忘れ大声をあげてしまい、はっと周りの乗客を見ると、皆白い目で見つめていた。あぁぁ……穴があったら入りたい気分だ。ちょうど大学の駅に着いたので、山岡を引っ張るように慌ててホームに降り立った。

「おい! 電車の中でいい加減にしろよ」
「くくくっごめんごめん、なぁ月乃、その襟のボタンもう一つ留めた方がいいぞ」
「えっ?」

 まさかキスマーク? 慌てて自分の胸元を見てしまった。

「嘘だよーしかしお前ほんと初心だよな。悪い虫つかないか安志さん心配だろうな~」
「騙したなっ!」
「やましいことがあるから、ひっかかるんだろ!」

 朝から騒がしい1日だった。なにかとじゃれて来る山岡のお陰で楽しくもあるが……

 少しばかり単調で眠くなる講義を受けながら、しとしとと雨の降る窓の外に目をやると、赤い煉瓦が雨に濡れ色を変え、中庭の所々に紺碧色の紫陽花が咲き始めていた。ニューヨークでも紫陽花の花がなかったわけではないが、やっぱり日本の方が似合うな。

 この梅雨空と湿気を含んだ空気の中、しっとりと色を水彩画のように滲ませる紫陽花の先に、洋兄さんの美しい顔を思い出した。

 静かに咲く花のような人。

 従兄弟でもあり男性でもあるのに、こんな形容の仕方変かとも思うが、本当に洋兄さんは雨の中、静かに咲く紫陽花のような人だ。

 洋兄さんは今頃、ニューヨークにいるのかな。

 まさか丈さんを置いて、陸さんと行くなんて思わなかったけれども、洋兄さんは意外と意志が固く頑固なところがあるからな。周りは冷や冷やだろうな。

 そんな洋兄さんが戻ってきたら丈さんと籍を入れると聞いている。
 その連絡が届くのを、僕も安志さんも心待ちにしている。


****

 丈と二人で横浜の法律事務所にやってきた。丈のお父さんの計らいで紹介してもらった信頼できる弁護士さんと約束していたので、朝食のあとすぐに寺を出た。

 何か揉めた時にすぐ対応できるように、間違いがないように、親しい弁護士さんを紹介するから相談しながら手続きを進めなさいと言ってもらえて、俺は本当に幸せものだ。

「養子離縁の件ですね。あなたの場合は協議離縁にあたるので書類はこれで大丈夫です。えっと証人は丈さんのお父様とお兄様ですね。崔加氏の同意も無事にもらえましたし、これでいつでも役所に提出することが出来ますよ。届出が受理されることにより、即時に、養親と養子の法律上の親子関係が解消することになります」

「ありがとうございます。あの、どこへ提出すれば?」
「洋さんの本籍地か住所の役所にお願いします」
「分かりました」
「そうそう、養子縁組の場合も離婚の場合と同様に、養子により氏(姓)を縁組前の氏(姓)に戻す(復氏)こともできますし、養子の時の氏(姓)をそのまま使用することもできます。どうしますか?」

 そうか…選べるんだ。
 自然に口から、返事が出ていた。

「浅岡……浅岡 洋にします」

 束の間ではあるが、懐かしい父の姓を名乗ろう。

 この名字を口に出したのは、一体何年ぶりだろう。

 母が再婚するまで、父が亡くなった後もずっとこの名字だったから、本当に懐かしい。

「浅岡 洋というのか」

 丈が隣でしみじみと復唱してくれた。初めて丈の口から紡がれた名前はくすぐったくもあり、心地良くもあった。

「丈、俺……そうしてもいいか」
「当たり前だ。それでどこへ書類を届け出に行くつもりだ?」
「ん……俺が父と母と住んでいた家がある東京の大田区が本籍地なんだ。父の墓もあるし、そこへ出しにいってもいいか」
「あぁそうだな。それがいいな」

 懐かしいあの家。すぐ近くには安志の家があり、父の墓までもそう遠くない距離だった。

 久しぶりに無性にそこへ行きたくなっていた。

 それに丈と行くのは初めてだった。

 丈に見てもらいたい。俺が育った家……育った土地……父の墓も何もかもすべてを。

 事務所の窓から空を見上げると、どんよりとした雲からしとしとと雨が降り続いていたが、心の中は前へ踏み出すことへのエネルギーで明るく満ちていた。
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