重なる月

志生帆 海

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第9章

一滴の時 5

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「洋……本当に眠ってしまったのか」

 私の胸に頭を預けたかと思うと、そのまま吸い込まれるように夢の世界へ行ってしまったようだ。

 母屋の湯船は檜で出来ていて、古いが木の温もりを感じられるし、お湯のあたりも柔らかいので、私もいつも睡魔に襲われてしまうから無理もないか。疲れていた洋には覿面で、呆気なく眠りに落ちてしまった。
 
 時差と疲れのせいだろう。どこか気だるく、とろんとした表情を浮かべていた洋だった。わざと意地悪なことを言って風呂場に連れて来たが、今日は洋を抱くつもりはなかった。洋は私が何も聞かないことを不思議がっていたが、本当はすべて知っていた。

 Kaiから電話で、ニューヨークで起きた事件の報告を受けていたのだ。Kaiの話を聞いた時は、流石に胸が潰れる思いだったし、すぐにでもニューヨークへ駆けつけたい衝動にかられてしまった。

 洋はいつも私に心配をかけてばかりだ。


****

「もしもし丈さん?」
「あぁKai、久しぶりだな。そっちは変わりないか」
「いや、俺さ……今ソウルじゃなくてニューヨークにいるんだ」
「えっニューヨークって何故だ? 」

 すぐに嫌な予感が駆け上がって来た。
 ニューヨークは今、洋がいる場所だ。そこにKaiがいるなんて!

「ん、急な出張で」
「洋に会ったんだな。洋に何かあったのか? 」
「流石、察しがいいな。洋はとりあえず無事だよ。でも少し……躰に怪我をしている」
「怪我! どこをだ? 誰に?」
「ちょっと落ち着けって」
「だが……」

 Kaiによって説明されたその話は、予想と違った。あの陸という男が洋に危害を加えたのかと思ったら、彼は洋を助けた方だった。危ういところで助けが入った洋だった。本当に危ういところで……

 胸が潰れる思いだった。洋が傷ついた場所をKaiから教えてもらった時、危害を加えた相手に猛烈な憎しみが沸き起こった。

「洋は自分の足で立ち上がって、そのまま義父さんとのことも、ちゃんとこなしてきた。立派だったよ。なぁ丈、洋はもうやられっぱなしの弱い奴じゃないんだ。だから帰国しても頭から怒らないでやって欲しい」

****

 そんなことをKaiに助言された。

 はっ全くその通りだ。

 だが……そうは言っても、愛する人が傷つくのをただ傍観しているなんて耐えられない。助けてあげたい。そう思うのは恋人なら自然の道理だ。

 洋がそうやってどんどん凛々しく成長していくのに、年上の私は洋を独り占めしたい思いが溢れ、どんどん幼くなっていくようで恥ずかしい。

 最近、洋への気持ちが溢れて……しょうがない。

 だから、せめて私の腕で洋自身をすっぽりと抱きしめたかったのかもしれない。私のものだと確かめずには入られなかった。

 お湯の蒸気が洋の髪の先に繊細な水滴を作った。それは透明な滴となり輝いた。

 更に汗と蒸気でその綺麗な形の額が濡れ、艶めいて見えた。

 月のような静かな美しさを湛える洋の横顔にしばし魅入ってしまった。それから無防備に眠ってしまった洋の躰を確認するかのように、そっと触れてみた。

 手首の痣は青黒く変色して痛々しかった。おそらくきつく縛られ解こうと必死に抵抗したのだろう。擦り傷もついてしまっていた。これは完全に消えるのに暫くかかってしまうな。

 躰の傷ついた場所にはあとで薬を塗ってやろう。洋はそこが傷ついたことを知られるのを、きっと嫌がるだろうから。洋を起こさないように、私は沸き起こる欲情を抑え、右手に石鹸を取りそっと躰を洗ってやった。

 自分のことは後でいい。まずは疲れている洋が湯冷めしないように手際よく……すべて洗い終わると、裸の洋にさっと浴衣を羽織らせ、横抱きにして母屋から離れへの渡り廊下へ出た。

 そこで、流兄さんに出くわした。
 まったく待ち伏せでもしていたかのようなタイミングだ。

 まったく流兄さんは……でも流兄さんも翠兄さんも……みんな心配していた。洋の無事を、洋の帰還を待っていた。

「丈、風呂に入っていたのか」
「ええ……」
「ふーん、洋くんは風呂で眠ってしまったのか」
「疲れていましたから」
「んっなら早く戻れよ。それにしても母屋の風呂を一緒に使うのには些か無理があるな」
「ははっそうですね。湯冷めしそうですよ」
「うん、結婚したら離れに風呂を作るといいな。お前はともかく洋くんが風邪ひいちゃ大変だ」

 そんな風に言いながら、洋の浴衣を直してくれた。

 風呂か。二人で入れる風呂が離れにあったら…そんなことを想像してみると、いくらか楽しい気分になった。これからは洋と二人でずっとここで暮らして行けるのだ。そのためにどんどん事を進めて、一刻も早くその日を迎える手筈と整えたい。

 洋……とにかく今は躰を休めるといい。
 洋を布団の上にそっと降ろし、浴衣をきちんと着せてやり、耳元で囁いた。

「おやすみ。また明日」
「……おやすみ」

 洋の口もそう囁いたような気がしたので様子を伺うと、髪についていた水滴がぽたりと寝具に落ちていった。


 滴がこぼれ落ちる……たった一秒の時間すら愛おしい。

 『一滴の時』に、どれだけの言葉を紡げるのか。

 おやすみ。

 その言葉は単純だ。

 だがそう言い合える夜が、この先は共に続くことが、とても愛おしい。


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