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第8章
交差の時 6
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出かける準備のために部屋に戻るとスマホが鳴った。相手は丈だった。以心伝心とはこのことか、俺もちょうど電話しようと思っていたところだ。
「もしもし丈っ」
「洋、ずいぶん慌ててどうした?」
「あっいや……朝起きて、ちょうど丈と話したいと思っていたから」
「ふっ……それは嬉しいな。こっちはもう夜だぞ」
「そうか時差か。あっ仕事はもう終わったのか」
「あぁもう家だ。今日は忙しくて疲れたよ」
「お疲れ様」
丈の声は、疲れていた。今日はハードな一日だったようだ。
「それにしても帰宅しても洋がいないのはつまらないものだな。男三人で悲しく食事をしたよ」
「俺がいても男が増えるだけだろ」
「ははっ流兄さんが嘆いていたぞ。可愛い嫁がいないから食事作るのが億劫だって」
「また流さんは、いつもそうやって俺のこと揶揄う」
「だが兄さんたちも私も……寂しかったよ」
少しだけ丈の声のトーンが低くなった。
それもそうだろう。丈と知り合って五年以上の月日が経ったが、そのほとんどを丈と共に一つ屋根の下で過ごしているのだから、俺だって離れているのは落ち着かない。
特に北鎌倉の家に来てからは本当に静かで平和な時が流れていたので、余計に離れていることが身に染みるよ。
「俺もだよ」
「そちらは順調か? 無茶していないだろうな。今ホテルなのか」
「それが……実は涼の実家に泊まっているんだ。昨日ホテルまで伯母さんが迎えに来てくれて」
「そうなのか。それは安心だな。沢山可愛がってもらうといい」
「子供みたいに言うなよ。俺のこと」
「いや……洋は少し甘えた方がいい。今まで頑張ってきた分、特に涼くんのお母さんなら伯母さんになるわけだから、ほっとするんじゃないか」
「うん……」
確かに母さんと同じ顔をした伯母さんと過ごせるのは、夢のようだ。
涼には悪いが、まるで母さんと過ごしているような気分についなってしまう。だからなのか昨日から母さんのことを思い出してばかりだ。
「ありがとう」
「あっでも、居場所はきちんと空さんに連絡しておけよ」
「そうだ! 忘れていた」
「やれやれ……」
****
絵葉書のような摩天楼の完璧な夜景が眼下に広がっている。
照明を落としたホテルの最上階のバーに、僕は来ていた。大地から空へ真っすぐに伸びていく高層ビル群は、日中は巨大なコンクリートの塊の塔のように感じてしまった。ここは人工的な街並みで、どこか現実感のない世界だ。
でも今は打って変わって、宝石箱の中のダイヤモンドのようにキラキラと白く輝いていた。
僕の気持ちとは反対に輝くその光が眩いばかりで、思わず目を細めてしまった。
「空どうした? うわの空だな」
「いや……なんでもない」
「そういえばあいつ、今日はスタジオに来なかったな」
「んっ……洋君のこと? 」
「そうだ。空は今日、会ったのか」
「会ってないよ」
やはり陸は洋くんの話をし出した。その途端に僕の心は少し沈んでしまった。いや正確にはもっと前から沈んでいた。
洋くんと関わる前だったら、こんなシチュエーションでは、ひたすらに二人で酒を飲んで、
たわいもない話で盛り上がって、酔った陸はスキンシップが多くなるので、肩を組まれたり膝に手を置かれる度に心臓がドキドキとしたものだ。そんな日々が最近無性に懐かしい。
「あいつ、どこのホテルに泊まっているんだ? 」
「洋くんのこと気になるのか」
「いや……辰起の奴が、またちょっかい出さないかと思って」
「あぁ……そういうことか、それなら大丈夫だよ。洋くんは今、涼くんの実家にいるらしいから」
「へぇ、そうだったのか」
「朝、連絡をもらってね、ホテルの部屋はそのままにしてあるらしいけど……しばらくそっちにいるって言ってたよ」
「なんだつまらないな。伯母さんと水いらずの時を過ごしているのなら誘えないな」
胸が塞がる想いだ。陸の一言一言に傷つくよ。
「……ここに?」
「嫌か」
「いや陸がそんなこと言うなんて意外だった」
本当に意外だった。だってあんなに憎んでいた癖に、何故こんなに変わってしまったんだよ。一緒に洋くんのことを憎むべき存在と考えてきた僕の気持ちだけが、置いてけぼりをくらったような気分だよ。
確かに洋くんはいい子だった。きっと人に言えなような苦労をしているのだろう。物静かで控えめで、それでいて思いやりのある優しい青年だ。
僕もそれは分かっているのに……もしも洋君がいなかったら、そうしたら僕と空の関係はまたもとに戻るのでは。そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさしていた。
朝、洋くんから電話をもらって、ホテルに泊まっていないことは知っていた。その後、辰起くんがしおらしく電話をかけて来たんだ。
****
「空さんですか。辰起です。あの昨日は本当にご迷惑おかけしました。それであの時一緒だった彼に謝ろうと思ってホテルに来ているんですけど、昨夜は宿泊していないみたいなんです。空さんもしかして行き先を知っていますか」
なんで洋くんのホテルにまで? また辰起がよからぬことを考えているのではないか。そんな心配が過った。
と同時に……
もしも洋くんの居場所を僕が話したらどんな展開になるのだろう。洋くんがもしも今度は本当に傷つけられたら……そんな恐ろしいことを考えてしまった自分に驚愕してしまった。
「空さん? 本当は知っているんじゃないですか。ねぇ教えて下さいよ。何もしませんよ。昨日乱暴なことしそうになったお詫びをしたくて、会いたいんです」
(ねぇ空さんの悪い様にはなりませんよ。空さんだってあいつがいない方が本当はいいんじゃないですか。さぁ教えてくださいよ。僕が空さんの代わりにやってあげますよ)
そんな言ってもいないセリフまで幻聴のように聞こえて来てぞっとした。
誘惑……混乱……混沌とした想いが混ざって、僕の心が泥水のように濁っていく。
「いや……行先は知らない、辰起はもう洋くんに関わるな」
なんとかそう告げた後、一気に脱力した。
****
「空…? やっぱりどこか具合悪いのか。酔ったのか。随分と顔色が悪いぞ」
そう言いながら躊躇なく僕の額に手をあてる陸。
もう……簡単に触れないでくれよ、そんな風に。
僕の方がもういっぱいいっぱいだ。意識しすぎて変になる。嫌なこともや悪いことを沢山考えてしまうよ。
陸の信頼、丈さんの信頼、洋くんの信頼を裏切ってしまいそうになる。呼吸が荒くなり、ネクタイが首を絞めつけるようで息苦しい。
冷たい汗が背中を伝っていった。
「陸……僕は…」
バーの薄暗い照明の中で、陸が眉をひそめて僕のことを見つめていた。
「もしもし丈っ」
「洋、ずいぶん慌ててどうした?」
「あっいや……朝起きて、ちょうど丈と話したいと思っていたから」
「ふっ……それは嬉しいな。こっちはもう夜だぞ」
「そうか時差か。あっ仕事はもう終わったのか」
「あぁもう家だ。今日は忙しくて疲れたよ」
「お疲れ様」
丈の声は、疲れていた。今日はハードな一日だったようだ。
「それにしても帰宅しても洋がいないのはつまらないものだな。男三人で悲しく食事をしたよ」
「俺がいても男が増えるだけだろ」
「ははっ流兄さんが嘆いていたぞ。可愛い嫁がいないから食事作るのが億劫だって」
「また流さんは、いつもそうやって俺のこと揶揄う」
「だが兄さんたちも私も……寂しかったよ」
少しだけ丈の声のトーンが低くなった。
それもそうだろう。丈と知り合って五年以上の月日が経ったが、そのほとんどを丈と共に一つ屋根の下で過ごしているのだから、俺だって離れているのは落ち着かない。
特に北鎌倉の家に来てからは本当に静かで平和な時が流れていたので、余計に離れていることが身に染みるよ。
「俺もだよ」
「そちらは順調か? 無茶していないだろうな。今ホテルなのか」
「それが……実は涼の実家に泊まっているんだ。昨日ホテルまで伯母さんが迎えに来てくれて」
「そうなのか。それは安心だな。沢山可愛がってもらうといい」
「子供みたいに言うなよ。俺のこと」
「いや……洋は少し甘えた方がいい。今まで頑張ってきた分、特に涼くんのお母さんなら伯母さんになるわけだから、ほっとするんじゃないか」
「うん……」
確かに母さんと同じ顔をした伯母さんと過ごせるのは、夢のようだ。
涼には悪いが、まるで母さんと過ごしているような気分についなってしまう。だからなのか昨日から母さんのことを思い出してばかりだ。
「ありがとう」
「あっでも、居場所はきちんと空さんに連絡しておけよ」
「そうだ! 忘れていた」
「やれやれ……」
****
絵葉書のような摩天楼の完璧な夜景が眼下に広がっている。
照明を落としたホテルの最上階のバーに、僕は来ていた。大地から空へ真っすぐに伸びていく高層ビル群は、日中は巨大なコンクリートの塊の塔のように感じてしまった。ここは人工的な街並みで、どこか現実感のない世界だ。
でも今は打って変わって、宝石箱の中のダイヤモンドのようにキラキラと白く輝いていた。
僕の気持ちとは反対に輝くその光が眩いばかりで、思わず目を細めてしまった。
「空どうした? うわの空だな」
「いや……なんでもない」
「そういえばあいつ、今日はスタジオに来なかったな」
「んっ……洋君のこと? 」
「そうだ。空は今日、会ったのか」
「会ってないよ」
やはり陸は洋くんの話をし出した。その途端に僕の心は少し沈んでしまった。いや正確にはもっと前から沈んでいた。
洋くんと関わる前だったら、こんなシチュエーションでは、ひたすらに二人で酒を飲んで、
たわいもない話で盛り上がって、酔った陸はスキンシップが多くなるので、肩を組まれたり膝に手を置かれる度に心臓がドキドキとしたものだ。そんな日々が最近無性に懐かしい。
「あいつ、どこのホテルに泊まっているんだ? 」
「洋くんのこと気になるのか」
「いや……辰起の奴が、またちょっかい出さないかと思って」
「あぁ……そういうことか、それなら大丈夫だよ。洋くんは今、涼くんの実家にいるらしいから」
「へぇ、そうだったのか」
「朝、連絡をもらってね、ホテルの部屋はそのままにしてあるらしいけど……しばらくそっちにいるって言ってたよ」
「なんだつまらないな。伯母さんと水いらずの時を過ごしているのなら誘えないな」
胸が塞がる想いだ。陸の一言一言に傷つくよ。
「……ここに?」
「嫌か」
「いや陸がそんなこと言うなんて意外だった」
本当に意外だった。だってあんなに憎んでいた癖に、何故こんなに変わってしまったんだよ。一緒に洋くんのことを憎むべき存在と考えてきた僕の気持ちだけが、置いてけぼりをくらったような気分だよ。
確かに洋くんはいい子だった。きっと人に言えなような苦労をしているのだろう。物静かで控えめで、それでいて思いやりのある優しい青年だ。
僕もそれは分かっているのに……もしも洋君がいなかったら、そうしたら僕と空の関係はまたもとに戻るのでは。そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさしていた。
朝、洋くんから電話をもらって、ホテルに泊まっていないことは知っていた。その後、辰起くんがしおらしく電話をかけて来たんだ。
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「空さんですか。辰起です。あの昨日は本当にご迷惑おかけしました。それであの時一緒だった彼に謝ろうと思ってホテルに来ているんですけど、昨夜は宿泊していないみたいなんです。空さんもしかして行き先を知っていますか」
なんで洋くんのホテルにまで? また辰起がよからぬことを考えているのではないか。そんな心配が過った。
と同時に……
もしも洋くんの居場所を僕が話したらどんな展開になるのだろう。洋くんがもしも今度は本当に傷つけられたら……そんな恐ろしいことを考えてしまった自分に驚愕してしまった。
「空さん? 本当は知っているんじゃないですか。ねぇ教えて下さいよ。何もしませんよ。昨日乱暴なことしそうになったお詫びをしたくて、会いたいんです」
(ねぇ空さんの悪い様にはなりませんよ。空さんだってあいつがいない方が本当はいいんじゃないですか。さぁ教えてくださいよ。僕が空さんの代わりにやってあげますよ)
そんな言ってもいないセリフまで幻聴のように聞こえて来てぞっとした。
誘惑……混乱……混沌とした想いが混ざって、僕の心が泥水のように濁っていく。
「いや……行先は知らない、辰起はもう洋くんに関わるな」
なんとかそう告げた後、一気に脱力した。
****
「空…? やっぱりどこか具合悪いのか。酔ったのか。随分と顔色が悪いぞ」
そう言いながら躊躇なく僕の額に手をあてる陸。
もう……簡単に触れないでくれよ、そんな風に。
僕の方がもういっぱいいっぱいだ。意識しすぎて変になる。嫌なこともや悪いことを沢山考えてしまうよ。
陸の信頼、丈さんの信頼、洋くんの信頼を裏切ってしまいそうになる。呼吸が荒くなり、ネクタイが首を絞めつけるようで息苦しい。
冷たい汗が背中を伝っていった。
「陸……僕は…」
バーの薄暗い照明の中で、陸が眉をひそめて僕のことを見つめていた。
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