重なる月

志生帆 海

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第7章 

アクシデント 5

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 昼から黙々と作業をして、やっと一区切りついた。まとめた資料をホッチキスでとめながら深い達成感を感じていた。
 
「ふぅ出来た」

 翻訳の仕事は楽しく充実していた。俺が出来ることなんてまだまだ少ないが、やりたい仕事に少しでも触れることが出来るのは貴重なことで有難い。目指したいのは実父と同じ文芸翻訳家だ。

 文芸翻訳は日本語の表現力が高く求められる分野で、単に意味が伝わればいいというレベルではなく、原作の作風を壊さず且つ読者がひとつの作品として違和感なく読める作品に仕上げなくてはならないので、読む対象にあわせた表現力をしっかり身につけなくてはいけない。だからこうやって様々なスキルを積むことが大事だ。

「高橋先生、出来ましたのでご確認下さい。あの、そろそろ帰ってもいいでしょうか」
「あぁもうこんな時間か。洋くんお疲れ様。また明後日も頼むよ」
「はい! では失礼します」
「うむ、気を付けて」

****

 先月から週に三日間、俺は語学学校の高橋先生の翻訳作業のアルバイトを始めた。

「崔加くん、よかったら私の翻訳の助手としてアルバイトをしてみないかね? 」
「えっ」

 ソウルから戻って来てから、日本では無職の上に語学学校のお金ばかりかかるのが現実だった。多少の貯金はあるが、いつまでも衣食住にかかるすべてを丈の実家に世話になるのも忍びないと思い始めたタイミングだったので、喜んでその誘いを受けた。
 
 先生からは主に翻訳する上での専門用語や業界知識などを正確に調べる作業を頼まれていた。さらに驚いたことに翻訳家でもあり語学学校の講師でもある白髪混じりで温厚な雰囲気の高橋先生は、偶然にも俺の父を知っていた。先日、先生が俺の実父と同年代だったから、ふと思いついて尋ねて判明したことが嬉しかった。

「あの、先生はもしかして……浅岡 信二という亡くなった翻訳家をご存じですか」
「浅岡信二? あぁ……随分と古く懐かしい名だな。彼は若くして亡くなってしまって、残念だったよ」
「じゃあ、ご存じなんですね」
「あぁ知っているもなにも、彼と私は同じ大学の英文科で、友人だったから」
「えっ本当ですか! 」

 驚いた。狭い世界だし年齢も実父が生きていたら確か同じだと思って聞いてみたら、まさかそんなに親しい関係だとは思っていなかった。また一つ嬉しい出会いが訪れた。まるで天国の父が用意してくれたかのような、父の旧友の翻訳家との出会い。最近はこうやって嬉しい偶然や出会いが続いていて、幸せすぎてなんだか怖い位だ。

「あぁそうだよ。懐かしい。彼の話を誰かとするのは久しぶりだ」
「先生っ! おっ俺は、その浅岡信二の息子です」
「なんだって? 君が……あぁじゃあ私は君に一度だけ会ったことがあるのだな。君はまだ生まれたばかりの赤ん坊だったから覚えてないのは当たり前だが」
「えっそうなんですか」
「あぁそうだよ。生まれたての赤ん坊の顔を見に新婚家庭にお邪魔したんだよ。君はでも……今は名字が違うから気が付かなかったよ。そうだあの時の赤ん坊の名前は確かに「洋」だったな。それにしても夕さん。そうか再婚されたのか。女手一つで幼い君を育てていくのは大変だったろうな。夕さんは元気なのか」
「いえ……あの……母は俺が十三歳の時に、病気で亡くなっています」
「えっそうなのか。そうか残念なことだが、仲が良いご夫婦だったから早くに召されてしまったのかな」
「そうかもしれません」

 何も過程を知らない高橋先生には分からないだろう。そこにどんな経緯があったかなんて。でも知らなくていいと思った。先生の記憶には永遠にその新婚家庭の幸せそうな光景だけを残して欲しかった。そして俺と先生の出会いにより、またその幸せな光景の続きを築けてもらえればいい。

 もう悲しい過去は必要ない。本当にそう思っていた。だからまさかその後に、大事件が起きるなんて、その時は思いもしなかった。

****

先生の仕事場を出て、横浜駅へ向かう途中で丈に電話をした。

「もしもし丈? 今どこだ? 」
「洋も仕事終わったのか。私も今終わったところだ。何時に北鎌倉の駅に着く? 」
「えっと今からだと18時10発の横須賀線だから、北鎌倉には18時33着かな」
「じゃあ駅まで迎えに行くから待っていろ」
「ありがとう! 一緒に買い物もして帰ろう。あっベーカリーまだやっているかな」
「洋の好きなクリームパン買ってやるぞ」
「ははっお子様扱いだな、じゃあ駅で! 」

 電話を切った途端また呼び出し音が鳴ったので、何か丈が伝え忘れたことがあったのかと軽い気持ちで応答した。
 
 ところが、耳に届いたのは救急車のけたたましいサイレン音と見知らぬ男性の声だった。

「月乃 涼さんのご家族の方ですか? 『サイガ ヨウ』さんで間違いありませんか」

 月乃 涼。それは俺の大切な従兄弟のフルネームだ。何事だ?

「はい、そうですが」
「私は救急隊員です。月乃 涼さんが頭を強打したため意識がないので、只今救急搬送中です。お身内の方ですよね? 救急車は渋谷区の友愛病院の救急外来に行きますので、すぐに来られますか?」

 何を言われているのか一瞬分からず思わず「えっ!今なんて」と聞き返してしまった。

「冷静にお聞きください」

 もう一度同じ内容を繰り返してもらってやっと理解出来た。

 涼が怪我、頭を強打、意識がない。

 なんてことだ!  心臓が早鐘を打ち、手には汗が滲んでくる!
 
 涼……どうか無事でいてくれ。

 可愛い涼の笑顔が脳裏に浮かんでは消えていく。

「すぐに伺いますっ」

 俺は横浜駅で横須賀線には乗らず東横線に飛び乗った。
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