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第7章
鏡の世界 8
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「はぁ……寒いな」
思わず独り言を零してしまう程、寒さが身に染みる。ニ月の鎌倉の寒さは、なかなか厳しいものだった。
そういえばソウルの冬も毎年かなり厳しかったのを思い出す。あそこは俺にとって第二の故郷ともいえる場所だ。
皆、元気だろうか。Kaiと松本さんが仲良く寄り添うように立っている姿が目に浮かんで来た。あの二人は今頃どうしているだろうか。いつか彼らにも日本に来てもらって、この鎌倉での暮らしを見てもらいたいな。
そうだ、もう少ししたら連絡をしてみようか。丈と相談して春になったら二人にここに遊びに来てもらうのはどうだろうか。
この寺の桜はきっと咲いたら見事だろうから、その時は安志と涼も呼んで皆で桜を愛でて、のんびりと過ごしてみたい。
昼過ぎから降っていた雨はいつの間にか雪へと変わり、雪は寺に咲く紅梅にも静かに積もっていた。あでやかに匂うばかりの梅が寒さに震えながらも凛と咲いている姿に感嘆の溜息が漏れた。
「確かにこの組み合わせは、とても優美だ」
先日翻訳の勉強の一環で、古典を英訳する講座で習ったばかりの枕草子の一文を思い出した。
あてなるもの
薄色に白襲の汗衫(かざみ)。
かりのこ。
削り氷(ひ)にあまづら入れて 新しきかなまりに入れたる。
水晶(すゐさう)の数珠(ずず)。
藤の花。
梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。
枕草子第42段より
「梅の花に雪の降りかかりたるか」
あっもしかして平安時代を生きる洋月も今同じことを思ったのか。剣を握ったヨウも雪が積もる梅をふと見上げたんじゃないか。そんな心の触れ合いを、じんと感じた。
この寺の名前が『月影寺』というのも、何かの縁なのだろうか。
もう遥か彼方……遠くへと離れ離れになったはずの俺の分身のような君たちの面影を、こうやって古都鎌倉で静かに過ごしていると、ふとした瞬間に身近に感じる。
雪に湿った梅を一枝もらって丈と暮らす離れの床の間に飾っていると、いつもより早く帰宅した丈が部屋に入って来た。
「んっ梅か」
「あぁ、あまりにも綺麗だったので、つい手折ってしまったよ」
「いいよ。いつも流兄さんもそうしているよ。この寺は自然豊かだろう。季節の花が咲き乱れるから、四季を通して楽しめる」
「これから巡っていく季節か。それは楽しみだな」
春になったら桜が咲き乱れ、新緑の季節がやってきて、夏が過ぎれば紅葉していく。そんな光景を想像すると堪らなく愛おしい気持ちになる。
この先ここで丈と生きていくことが楽しみになる。
「洋、君はここで暮らすのに退屈していないか」
「何故? 」
「私は病院の仕事でいないことが多いから、あまり相手をしてやれないような気がして」
「そんなことないよ。こうやって同じ部屋で暮らせているし、日中は丈のお兄さんたちが良くしてくれているから、寂しくなんてないさ」
「そうか。ならよいが……」
「丈? 何か他に不安でもあるのか」
俺の答えになんとなくがっかりした様子で、いつになく歯切れの悪い丈の様子が気になってしまう。
「いや……私がいなくても洋が兄さんたちと随分楽しそうにしているから。その……だな」
想定外のことを丈が言い出すので、思わず苦笑してしまった。
「もしかして妬いているのか」
「ははっ私もつまらない男だろう」
「馬鹿だな。何を心配しているんだ、一体…あっ……でも実は俺も…最近不安になることがあって」
「んっなんだ? 話してみろ」
「あの月を見ていると……」
そう言いながら障子の隙間から見上げた夜空にぽっかり浮かぶ月は、包丁でスパッと切ったように見事な半月だった。
「あぁ半月か。あれは月の表のうち半分が明るく輝いているため、半月というんだよな。そういえば輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえて弓張り月とも言うな」
「へぇ弓張り月か。詳しいんだな」
「洋と知り合ってから月の満ち欠けに興味が出てね。で、あの月がどうかした?」
「俺があの半月なら、もう半分は涼だ。どちらかが輝けばどちらかが陰ってしまわないか心配なんだ。最近そのことが頭から離れなくてと。俺と涼が双子のように似ていることによって、俺に降りかかるべき災いが、涼のところへ行ってしまわないかと心配になってしまう」
そこまで一気に話すと丈は心配そうな表情を浮かべていた。
「洋……どうした?」
「なぁ……もう何も起こらないよな?」
あの日バスの中で涼の姿を雑誌という媒体を通してみた時に過った不安を、とうとう丈に漏らしてしまった。それから日に日に募っていく幸せな生活に影を落とす不安に耐えきれなくなっていたのかもしれない。
「なんだ? 一体なにが不安だ? 」
「分からない。ただ幸せすぎるせいかもしれない。こんなに毎日静かに幸せに暮らせるなんて、まだ夢みたいで慣れないから」
「洋、大丈夫だ。もう何も起こらないよ。それにこれからはもっと幸せに慣れてもらわないと困るな」
丈の口で大丈夫だと言ってもらえるだけで、不安のさざ波は静寂へと戻って行く。
丈の腕にぎゅっと抱きしめてもらうだけで、不安は滑り落ちるようにこの身から去って行く。
それに涼にも安志がついているのだから。
涼も俺も一人じゃない。今はそのことが救いだ。
心強い存在を得た今は、もう昔とは違う。
思わず独り言を零してしまう程、寒さが身に染みる。ニ月の鎌倉の寒さは、なかなか厳しいものだった。
そういえばソウルの冬も毎年かなり厳しかったのを思い出す。あそこは俺にとって第二の故郷ともいえる場所だ。
皆、元気だろうか。Kaiと松本さんが仲良く寄り添うように立っている姿が目に浮かんで来た。あの二人は今頃どうしているだろうか。いつか彼らにも日本に来てもらって、この鎌倉での暮らしを見てもらいたいな。
そうだ、もう少ししたら連絡をしてみようか。丈と相談して春になったら二人にここに遊びに来てもらうのはどうだろうか。
この寺の桜はきっと咲いたら見事だろうから、その時は安志と涼も呼んで皆で桜を愛でて、のんびりと過ごしてみたい。
昼過ぎから降っていた雨はいつの間にか雪へと変わり、雪は寺に咲く紅梅にも静かに積もっていた。あでやかに匂うばかりの梅が寒さに震えながらも凛と咲いている姿に感嘆の溜息が漏れた。
「確かにこの組み合わせは、とても優美だ」
先日翻訳の勉強の一環で、古典を英訳する講座で習ったばかりの枕草子の一文を思い出した。
あてなるもの
薄色に白襲の汗衫(かざみ)。
かりのこ。
削り氷(ひ)にあまづら入れて 新しきかなまりに入れたる。
水晶(すゐさう)の数珠(ずず)。
藤の花。
梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる。
枕草子第42段より
「梅の花に雪の降りかかりたるか」
あっもしかして平安時代を生きる洋月も今同じことを思ったのか。剣を握ったヨウも雪が積もる梅をふと見上げたんじゃないか。そんな心の触れ合いを、じんと感じた。
この寺の名前が『月影寺』というのも、何かの縁なのだろうか。
もう遥か彼方……遠くへと離れ離れになったはずの俺の分身のような君たちの面影を、こうやって古都鎌倉で静かに過ごしていると、ふとした瞬間に身近に感じる。
雪に湿った梅を一枝もらって丈と暮らす離れの床の間に飾っていると、いつもより早く帰宅した丈が部屋に入って来た。
「んっ梅か」
「あぁ、あまりにも綺麗だったので、つい手折ってしまったよ」
「いいよ。いつも流兄さんもそうしているよ。この寺は自然豊かだろう。季節の花が咲き乱れるから、四季を通して楽しめる」
「これから巡っていく季節か。それは楽しみだな」
春になったら桜が咲き乱れ、新緑の季節がやってきて、夏が過ぎれば紅葉していく。そんな光景を想像すると堪らなく愛おしい気持ちになる。
この先ここで丈と生きていくことが楽しみになる。
「洋、君はここで暮らすのに退屈していないか」
「何故? 」
「私は病院の仕事でいないことが多いから、あまり相手をしてやれないような気がして」
「そんなことないよ。こうやって同じ部屋で暮らせているし、日中は丈のお兄さんたちが良くしてくれているから、寂しくなんてないさ」
「そうか。ならよいが……」
「丈? 何か他に不安でもあるのか」
俺の答えになんとなくがっかりした様子で、いつになく歯切れの悪い丈の様子が気になってしまう。
「いや……私がいなくても洋が兄さんたちと随分楽しそうにしているから。その……だな」
想定外のことを丈が言い出すので、思わず苦笑してしまった。
「もしかして妬いているのか」
「ははっ私もつまらない男だろう」
「馬鹿だな。何を心配しているんだ、一体…あっ……でも実は俺も…最近不安になることがあって」
「んっなんだ? 話してみろ」
「あの月を見ていると……」
そう言いながら障子の隙間から見上げた夜空にぽっかり浮かぶ月は、包丁でスパッと切ったように見事な半月だった。
「あぁ半月か。あれは月の表のうち半分が明るく輝いているため、半月というんだよな。そういえば輝いている半円部分を、弓とそれに張った弦になぞらえて弓張り月とも言うな」
「へぇ弓張り月か。詳しいんだな」
「洋と知り合ってから月の満ち欠けに興味が出てね。で、あの月がどうかした?」
「俺があの半月なら、もう半分は涼だ。どちらかが輝けばどちらかが陰ってしまわないか心配なんだ。最近そのことが頭から離れなくてと。俺と涼が双子のように似ていることによって、俺に降りかかるべき災いが、涼のところへ行ってしまわないかと心配になってしまう」
そこまで一気に話すと丈は心配そうな表情を浮かべていた。
「洋……どうした?」
「なぁ……もう何も起こらないよな?」
あの日バスの中で涼の姿を雑誌という媒体を通してみた時に過った不安を、とうとう丈に漏らしてしまった。それから日に日に募っていく幸せな生活に影を落とす不安に耐えきれなくなっていたのかもしれない。
「なんだ? 一体なにが不安だ? 」
「分からない。ただ幸せすぎるせいかもしれない。こんなに毎日静かに幸せに暮らせるなんて、まだ夢みたいで慣れないから」
「洋、大丈夫だ。もう何も起こらないよ。それにこれからはもっと幸せに慣れてもらわないと困るな」
丈の口で大丈夫だと言ってもらえるだけで、不安のさざ波は静寂へと戻って行く。
丈の腕にぎゅっと抱きしめてもらうだけで、不安は滑り落ちるようにこの身から去って行く。
それに涼にも安志がついているのだから。
涼も俺も一人じゃない。今はそのことが救いだ。
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