重なる月

志生帆 海

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第5章

番外編 Kai&松本 『捻じれた心』2

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 いきなり交代した洋くんの仕事。

 ランチを終えて戻って来るアメリカ人の代議士が、急に通訳者が変わっていることにがっかりしないだろうか。洋君に比べたら僕は若くもないし、洋君みたいな誰もが振り返るような美しさなんて、欠片もないからずっと見劣りするだろうに。そんな風に悪い方へ悪い方へと考えてしまうのはいつもの癖だ。

「松本さん、もうすぐスミス氏の昼食が終わるけど、大丈夫?」
「えっ何が?」
「えっと……なんか不安そうな顔をしているから」
「はっ?」

 なんてことを言い出すんだろう?
 意外なことを言われて思わず苦笑してしまった。
 五歳も年下の男の子に心配されるほど、僕は頼りないのだろうか。

「しっかりやるから安心して」
「松本さんはしっかりしているようで、なんか……その…危なっかしいな」
「ふっ……大丈夫だよ、僕は」

 陽気で快活なKaiくんが少し真顔になっていた。

 もう大丈夫。
 一人でも大丈夫。

 不安な時は、そういつも自分に言い聞かせている。あいつが傍にいなくても、もう三年間も一人きりで過ごして来られたのだから。

 いつも明るい輪の中にいるKaiくんが眩しかった。そんなKaiくんを見ていると眩しすぎて、もう手が届かない、僕が手放した世界のことを思い出してしまう。

 僕だって……あんな明るい日差しの中にいたこともあったんだ。あいつの腕の中で幾度となく迎えた朝の明るい日差しを思い出してしまう。

 ただ、ずっとずっと続くと思っていた幸せが、あんなにも脆く人の心の移ろい次第で……しゃぼん玉がはじける様に消えてしまうんなんて、知らなかっただけなんだ。

 幸いなことに、アメリカ人の代議士は洋くんでなくても大丈夫だったようで、僕の英語の発音も褒めてくれた。それを横で聞いていたKaiくんが自分のことのように喜んでくれた。嬉しそうに顔を綻ばせるKaiくんの横顔をそっとのぞき見すると、なんだか冷え切っていた心の奥に灯がともるように感じてしまった。

 Kaiくんと仕事が終わり廊下を歩いていると、Kaiくんが今日の僕の仕事ぶりを改めて振り返るように嬉しそうに語ってくれた。

「松本さん、お疲れ様! 今日は一緒に仕事が出来て良かった!」
「……僕で大丈夫だったのかな」
「もちろん! とても先方も喜んでいたし、松本さん、英語の発音がとても綺麗だから驚いたよ」

 嬉しい。
 五歳も年下の男の子に褒められて嬉しい気持ちになるなんて。

 僕は人の温もりに飢えているのだろうか。
 最近少しおかしいんだ。

 どんどんKaiくんの温もりが欲しくなっている。自分自身を戒めないといけないのに、温もりを欲する自分のことを見て見ぬふりをしていた。

 その少しの気のゆるみが僕を駄目にした。

 もしかしたら今日なら誘えるかも……言えるかも。Kaiくんともっと一緒にいたい。話してみたい。

 Kaiくんはこの後、空いているだろうか。
 この後、飲みにでも誘ってみようか。

 本当に何年振りだろう。自分からこんな風に人に声をかけてみたいと思うことがまたあるなんて……そう思いながらその誘いを口に出そうとした瞬間、それは見事に打ち消された。

「松本さん、俺、ちょっと上司に報告してくるから、先にロッカーに行ってもらってもいいですか」

 もちろん落胆した気持ちを見せるほど、僕は愚かじゃない。何も感じていないと、取り繕うことなんてお手の物さ。

「うん、分かった。じゃあ僕は帰るので……お疲れ様」
「はい。明日もよろしくお願いします!じゃっ!」

 そう言い捨てて、Kaiくんは突然廊下を逆走していってしまった。振り返りもせずに。

 僕としたことが…またあんな気持ちになるなんて……
 あの日……ボロボロになりながら

 ーもう二度と恋はしない。ー

 そう誓ったじゃないか。

 自分がさっきうっかり言いそうになってしまった甘い言葉を、くしゃくしゃに丸めて心の外に投げ捨てた。それでも未練がましくロッカーに入る前に、ちらっとKaiくんが去って行った方向を振り返ってしまったんだ。

 見なければよかった光景を見るために。

 廊下の影で、洋くんがKaiくんを頼るように、もたれるように立っている姿を……

 その光景は僕をそのまま暗闇へと突き落としてくれた。

 あの日あいつに唐突に落とされたあの場所へ。
 そこはもう思い出したくもない、あいつとの甘い思い出の片鱗が沢山散らばっている場所でもあった。


****

 四年前 ー日本ー

「優也……アイシテル、アイシテル」

 皺くちゃのシーツをお互いの躰に絡めあい、何度も何度も呪文のように僕の耳元で囁かれる愛の言葉が甘く、くすぐったかった。あの頃の僕は、その言葉を心の底から信じ、その言葉にすべてを託して生きていた。あいつの躰をきつく抱き寄せ、僕からも魔法の呪文を唱えた。

「翔……僕もアイシテル。もっと抱いて……もっと翔のことが欲しい」
「優也のこと絶対に離さない」

 ぴったりと重ねられた口づけが、心地よい。もう数えきれないほど抱かれて抱いて、僕たちはどこまでも一緒だと疑う余地がないほど、お互いがお互いに溺れていた。そんな僕と翔が共に同じ目線で世界を見つめていた頃のことを思い出してはいけない。

 そう思って一人で生きているのに、今日のようにあまりに一人が寂しくてしょうがない時……僕は禁断の甘い蜜を吸うように、翔との思い出の中に深く潜り込んでしまう。

 その思い出は僕を駄目にするのに…






****

 この続きは『深海』で。

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