重なる月

志生帆 海

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第5章

番外編 Kai&松本 『捻じれた心』 1

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 男なのに……恋に破れたから傷心旅行なんて、笑ってしまうよ。

 日本にいて、あいつの幸せそうな結婚生活を見続けることが、もうどうしても耐えられなかった。だから僕は旅に出た。

 ソウルは日本と似ている違う国。街を歩く人は日本人と同じ顔をしているのに、全く違う言語を話している。街に自然に溶け込めて気持ちが少し楽になったから、そんな人たちに紛れて過ごすのが心地よかった。

 だから帰国後すぐに会社に移動を願い出て、単身ソウルへやって来た。


****

 車窓からソウルの街並みを眺めていると、心もそのまま過去へと流されていくような、少しざわついた気持ちになっていた。

 もうあれから三年の月日が流れた。あいつの姿が見えない生活にも慣れた。ホテル専属の通訳として与えられた仕事を淡々とこなす日々に、不満はない。それに仕事仲間には恵まれている。

 一年前から日本語通訳として一緒に働いている崔加  洋くんは、一見女の人みたいな整った綺麗すぎる顔だから最初戸惑ってしまった。だが仕事に対する熱意は人一倍あるし、通訳としての素質も良く人間的にも好感が持てたので上手くやっている。

 小さな嫉妬を覗けば。

 彼は周りの人にとても愛されている。ホテルの優秀なスタッフのKaiくんは、いつも彼の世話を焼きたがり手厚いサポートをしている。そんな二人の様子を見ると微笑ましくなると同時に羨ましくもなった。Kaiくんはもしかして洋くんのことが好きなのかとも思ったが、今更そんなことに考えを巡らせること自体が無駄で、自分は馬鹿だなと自嘲してしまった。

 それにたまに迎えに来る紳士的な男性と洋くんが幸せそうに肩を並べて歩いていく姿を見かけるのも、小さな傷となって僕を傷つけた。

 彼は僕と同じ種類の人間なのに、彼は今とても幸せそうに見えた。

 洋くんが悪いわけじゃない。僕のこの捻じれた心が悪いんだ。


 もう僕は二度と恋はしない。


 長年恋人だったあいつに裏切られたショックが、いつまでも癒えない傷となって疼いている。あいつの人生の幸せを考えたら……女性と結婚して子供を授かって、それが大切なことだと頭では理解していたのに、どうしても受け入れられなかった。

 結局最後まで祝うことも出来ず、恨み言しか言えなかったんだ。

 日本であいつと同じ職場にいればいるほど、僕は醜い人間に成り下がっていった。そのことにもう耐えられなかった。

 あいつが手に入らないのなら、あいつがいない世界、見えない世界に行こう。そう思ってここに来たんだ。

 もうあの頃のように、淡い期待はするな。そう自分を戒めて過ごしている。

「松本さん、どうしたの?難しい顔して」

 目的地に着いて車を停めたKaiくんに心配そうに顔を覗きこまれて、はっとする。

「いや……今日はせっかく洋くんと仕事だったのに悪かった。僕と交代になってしまってつまらないだろう」
「えっどうして、そんなことを? 」
「そう思っただけだ。それにあの重役……大事なお客様だけど、たぶんゲイだよ。洋くんは綺麗な顔しているし、ああいう奴は洋くんみたいなのが大好物なんだと思う」
「えっ! それはまずいな」

 ギョッとしたような表情でKaiくんが固まっているのを見て、しまったと思った。余計なことを言った。こんな話するつもりじゃなかったのに……突然の通訳交代の理由に納得できず、洋くんの容姿に八つ当たりするなんて僕って最低だ。

 医療や医術用語が不得意なのを素直に認めればいいのに……自分の行為が恥ずかしくなり、きゅっと唇を噛みしめ俯いてしまった。

「松本さん? 大丈夫?」
「いや……勝手な憶測で余計なこと言った。君の大事な洋くんのこと侮辱したみたいで悪かったよ」
「いや洋は俺の大事なっていうか、俺は洋のボディガードみたいなもんだよ。ははっ勝手にしてるだけだけどさっ」
「そうか……洋くんはいいな。そんな相手がいて」
「松本さん、どうしたの? いつもの松本さんらしくないよ?」
「……ふっ…いつものか」

 ふと寂しい笑みが浮かんできた。自分を捨て何事にも執着しないで生きて行く……そう思って過ごしていた僕は、Kaiくんには一体どんな人間に映っているのだろうか。

 きっと、ひどくつまらない人間だと思われているはずだ。今日だって本当は洋くんと楽しい仕事だったはずなのに、僕と交代になってしまって内心がっかりしているのだろう。

 僕はもう心の底から笑ったり怒ったり泣いたりすることはない。一生僕には縁がないものだ。

 そんなことを考え込んでいると、耳元で意外なことを囁かれた。

「でも松本さん、そうやって感情を見せてくれた方が嬉しいよ」
「なっ」
「あれ? 動揺してる? なんか意外と可愛いんだね」

 こんな風に心を乱されるのはいつぶりだろう。耳まで赤くなるのを感じ、恥ずかしくて消えたくなってしまった。

「何を言って?」
「いや……俺、松本さんと一度ゆっくり話してみたかったから今日は嬉しいよ。松本さんってさ、いつも感情の起伏がなくすごく落ち着ているから、俺なんてうるさいだけかなって勝手に思っていたけど、もしかしてそうでもない? あーそれとも、やっぱりうるさいと思った?」
「そんなこと別に……思っていない」
「あー良かった!」

 心底ほっとしたような、明るい表情を見せるKaiくんが眩しい。

 そうなんだ。本当はいつだって眩しかった。このホテルでいつも僕を明るくサポートしてくれるKaiくんのことが。

 冷え切った心に咲き出したこの気持ち。
 ずっとしまい込んでいたあの気持ち。

 どう育てていくべきか、まだ僕の心の中で持てあましている。










あとがき(不要な方はスルーしてください)



****

突然の番外編ですいません。
Kaiくんの相手にもしかして松本さんはどうかな~っと思ったら急に書きたくなった番外編です。この恋の行方はまだまだ分かりませんが、また続きも今度書いてみたいと思いました。
Kaiの笑顔と明るさは、頑な人の心をほぐす特効薬になるかも!

という訳で……こんなきっかけで別に連載している『深海』は始まりました。
この二人の恋のきっかけや松本さんの過去に興味をもっていただけたら『深海』にぜひどうぞ。
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