重なる月

志生帆 海

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第5章

すぐ傍にいる 10

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 その顔、その声は……

 いやらしく俺をじっとりと舐めるように見てくる不躾な視線と悪意のこもった下品な声。

 俺はこの人をよく覚えている。

 何故この人はここにいるのか。
 何故また会ってしまったのか。

 こんな異国の地で……

 驚きのあまり喉が震え……うまく声が出せない。

 彼の名は葛西忠則。以前勤めていた信協製薬の俺の部署の本部長だった人だ。

「ほ……本部長が何故? 光岡薬品の重役に……信協製薬にいたはずでは」
「あぁ転職したんだよ。まぁヘッドハンティングで一気にこちらの会社では一気に重役さ。はははっ」
「……」
「しかし驚いたな。こんな所で君に再び会えるとはな。あの時はちょっとした騒ぎだったよ。君が医師の張矢 丈と共に失踪するかのように消えてしまったからな。君の父親から捜索の依頼が来て随分探したからね。私は君の事情を詳しく知っているのだよ」
「えっ」

 痛い所を突かれて、息が停まるほど恐ろしい。

 彼はゲイだ。そして俺をずっと狙っていた。俺はそれを知っている。ニヤニヤと獲物を捕らえたかのように不敵に笑う顔がおぞましい。

「そういえば……いいものを私は持っているよ。くくっ、こんなところで役に立つとは、あの時捨てなくてよかった」

 彼は手帳を取り出し、何かを探し出した。

 握る手に力がこもる。唇を痛いほど噛みしめて……恐らくこの先に見せられるであろう屈辱に耐える準備をする。

 逃げたい……でも、どこへ。

 本部長の話は誰にもしていなかった。今更……五年前のことを掘り返されるとは思ってもみなかった。

「おおっあったあった!さぁこれを見てみろ」

 一枚の写真を目の前に提示される。

 そこに映っているのは……義父の姿は映っていないが、顔を苦痛で歪め裸で仰向けになっている俺の姿。躰の一部分も隠すことなく、すべてが撮られていた。

 目の前が真っ暗になる。
 絶望の淵に立たされた気分だ。
 何故……今頃になって……こんなことが。

「これは君の父親から預かったものだよ。あの騒動の時、君を見つけたらこの写真を使って脅せと言われていたんだよ。あぁそういえば……君の父親はあれから大変な目に遭ったんだね。アメリカで銃で撃たれて、今は車椅子の生活と聞いたよ。弱気になったのか、この写真を焼却しろとか君にはもう手を出すなという連絡がしつこいくらいあったが、もう車椅子の老人で私の相手ではないから相手にしなかった」
「なっなんてことを……」
「こんないい写真捨てられるはずないじゃないか。夜な夜な何度も何度も楽しませてもらったよ」
「ひっ……卑劣だ!」

 椅子から立って本部長が一歩また一歩と近づいてくる。俺は恐怖と驚きのあまり足がすくんで動かけない。

 机の前で立ち竦む俺の顎を掴み、その分厚い唇を押し当てられて、一気に正気に戻った。

 ナメクジが這うような感触と煙草臭い生暖かい息に吐き気が込み上げてくる。顔を背けても背けても、執拗に追って来る。頬を固定され長いキスを強要させられた。

 駄目だ! このままじゃ……こんな奴に触れられるなんて!

「やめろっ! 離れろっ!」

 渾身の力を込め、ドンっと体を突き離す。

「へへへ……あの時からずっと抱きたかったぞ。お前の父親があの時は権力を持っていて、迂闊に手を出せなくて悔しい思いをしていたが、やっとその時の悔しい思いを晴らせる時が来たんだな。ふふふっ怖いのか」

 肩で息をしながら不快な唾液で濡れた唇を拭いながら、俺はきっと本部長を睨みあげる。

「怖くなんてない! お前が卑怯だと思っているだけだ」

「卑怯? 使えるカードを使うだけだ。なんの文句がある。どうせお前はあの張矢という男と寝ているんだろう、今も一緒に暮らしているのだろう。私がちょっと調べれば彼の勤め先だってすぐに分かる。この写真外にばらまかれたくないだろう。まわりまわって大事な相手を傷つけることになるぞ」

 丈……丈には迷惑かけられない。いつもいつも俺のことで…負担をかけてきたのに。

 丈は何も悪くない。どうしたらいい。こんなことを盾に脅されるなんて。

「本当に卑怯だ。一体……何が条件だ?」
「だいぶ物分かりがよくなったな。私も立場上ソウルに愛人を作るつもりはない。そうだな。明日の会議のあと、この部屋に来い。一度その躰を味わってみたかった。その一度でいいぞ。それでこの写真は返してやろう」
「……」
「君も私もまずは仕事はやらねばならないからな……ははっ」
「……」
「いいか、よく聞け。写真をネット上にばらまかれたくなければ、誰にも言うな。私と知り合いだったことも誰にも話すな。君は明日の夜までは普通に通訳としての仕事をしっかりこなせ。流石に今回の会議はお遊びじゃないからな。さぁどうする」

 選択肢はないのか。駄目だ、今は冷静に考えられない。でも仕事を投げ出すことはしたくない。それにここで下手に抵抗しては危険だ。ここはホテルの客室で今この部屋には二人きりで、密室になっている。

 このまま勢いで陵辱されるわけにはいかない。今は無念だが、こう答えるしかない。何か方法があるはずだ。俺はもう昔みたいに一人じゃないのだから……

「……分かった」
「はははっ物分かりが良くなったな。さぁ契約のキスをしよう」
「何をっ」

 強引に腰を抱かれ、もう一度おぞましいキスを強要されてしまう。俺は目を瞑り不快な時が過ぎ去ってくれるのを待つのみだ。

 分厚いナメクジがじっとりと這いまわっていく。頬をぎゅっと力任せに掴まれ、無理やり口を開けさせられ、口腔内も貪られる。口の端から俺の唾液とおぞましい相手の唾液が混ざり合い垂れていく。気持ちが悪くて、込み上げてくる吐き気を抑えると、眼の端に涙は浮かんで来るのを感じた。だが、こんな相手の前で死んでも泣くものか。

 分厚い手が俺の背広の間から入り込み、ワイシャツのボタンを一つ外してさらに地肌に直接触れ、奥へ奥へと蠢きながら潜り込んでくる。
 
 流石に動揺した。

 その手が右の乳首を捉え、痛いほど、グリグリと摘ままれた時、もう耐えられなくなって躰を思いっきり突き飛ばした。

「っつ」

 その拍子にドンっと本部長がよろめき、椅子が大きな音を立てて倒れた。すぐにドアの外から異変に気が付いたボディガードが、ノックをしながら声を掛けてくる。

「重役、どうなさいましたか」
「いやなんでもない。打ち合わせ中に躓いただけだ」

 ネクタイを締め直しながら、本部長は俺から離れ椅子に腰かけた。俺も慌てて外されたボタンを留め、乱れたスーツを整え無言で机を挟んで向かい側に座った。

「ふっ強情だな。そんな態度を私にとっていいのかな。だがそういう男を堕とすのもいいものだ。必ず明日の二十時に、ここに来るのだ。分かったな」

 泣きたいような情けない気持ちを堪え、俺は無言で頷くしかなかった。今……この場では。

「では契約は完了だ。それでは少し真面目に仕事をしようか。それにしても君の唇は想像通り美味しいな、その美しい顔を歪ませてみたかった。明日が楽しみだぞ」

「……」


****

 時計を見ると十三時五分前だ。そろそろ昼休みも終わりか。さてと仕事に戻るか……現地ボディガードと交代の時間だ。

 立ち上がった拍子にふと中庭の奥の駐車場を見ると、昨日のホテルコンシェルジュのKaiという男が歩いているのが見えた。

「あれ?」

 隣を見ると、今回の日本人通訳の松本という男が一緒に歩いている。何でこんな時間に二人で出かけるのか? 今松本さんはホテルの客室で俺がボディガードしている重役と打ち合わせ中のはずなのに……もしかして、何かあったのか。

「すぐに戻ろう」

 彼に話しかけて今すぐに洋のことを聞いてみたかったが、何故かそれよりも先に戻ることを選んでいた。

 嫌な予感がした……それは何故だろう。


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