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7 誕生日会①
しおりを挟む私はいつもの癖で、あの商店街に行った。そこはいつもと変わらなかった。私の日常が崩れ去っても、変わることなくそこに存在して、人々は行き交っていた。
妬み嫉み――そんな感情が湧いてきて、その捨て場に困った。どうして私だけが、こんな目に遭わなくちゃいけないんだろう? どうして彼らの日常は、私みたいに崩れ去らないんだろう?
ひどい、悔しい、つらい、痛い。
私は、無力だった。
両親の離婚は、どうにもできない。私は私なりに、家族だと思っていた。両親の間が冷め切っていても、会話がなくても、それでもそれが、私の家族だった。その関係性が好きになっていたのに、父も母もそうではなかったのだ。本当は、嫌いだったのだろうか。尋ねてみたいけれど、怖くてできそうになかった。嫌いだったと言われてしまったら、私の存在自体が崩れてしまうような気がした。自分を自分で追いつめる必要はない。だから、私は、黙っているしかないのだろう。
亜梨沙と駿河くんのことだって、どうにもできない。亜梨沙のことは許せないかもしれないけれど、それでも駿河くんは、彼女を選んだのだから。
私は一体、友情と恋、どちらが破られて悲しかったのだろう。駿河くんに彼女ができたことは、悲しくて悔しくもある。けれど、彼に近づこうとしなかったのは、私なのだ。駿河くんに対する思いがどの程度のものだったのか、今ではもうわからなくなりそうだ。
それよりも、もしかしたら、亜梨沙の裏切りのほうがショックだったかもしれない。駿河くんのことを好きになったのなら、正直にそう打ち明けてほしかった。打ち明けられるのもショックだけれど、隠し事をされて、あとで実はこうだったと告げられるよりはマシだと思う。そして、謝られたこともショックだった。亜梨沙は誠意の気持ちで言ったのだろう。けれど、謝られた私が惨めになることを、亜梨沙はわかっていないのだろうか。彼女の謝罪は、相手より優位な立場の者がする謝罪だった。傲慢だ、自己満足だ。卑怯だった。――と言っても、謝罪の言葉がなかったら、どうして謝ってくれないのだと思ったかもしれない。卑怯だと言ったかもしれない。……めちゃくちゃだ、私の言葉は。ただ、自分の非を認めたくないだけなのだ。すべて亜梨沙のせいにしたいのだ。……亜梨沙に、苦しんでほしいのだ。
私は、無力だった。心の中で恨みの言葉を吐くことしかできず、その言葉は誰に届くこともない。
世界は自分だけのものじゃないのだと、初めて、身をもって体感した。もちろん、頭では理解していた。けれど、今まで、自分中心でしか物事を考えていなかったようだ。世界は、私ひとりだけに振り向いてはくれない。それが、悔しくて虚しい。
こんなにも簡単に、私の日常が崩れ去ってしまうなんて。
この広い世界では、ちっぽけなこの私の声なんて、どこにも届かない。
抗っても、どうしたって、崩れ去ってしまった日常を取り戻すことはできない。
寒気がする。どうしようもない、深い闇に呑まれた無力感と虚無感。未来を想像しても、なにも見えない。黒い闇があるだけ。いや、これを黒と言っていいんだろうか。黒と呼ぶにはあまりに深すぎる、実態のつかめない、手を触れられない色だ。苦しい。こんな気持ちが、ずっと続いてしまうのだろうか。
どうして世界は、こんなにも理不尽なのだろう。
どうして私は、こんなにちっぽけな存在なのだろう。
私の日常は戻らない。どんなに願っても、けっして叶わない。それが、現実であるなら。
それなら、いっそ……
その女性には、なんと話しかけられたのだろう。……靄がかかったようで、意識が
記憶に潜ってくれない。たぶん、優しい言葉をかけられたんだと思うけれど。
気づくと見知らぬ家にいて、その女性と向かい合っていた。彼女の家だっただろうか。
女性は、美しい人だった。といっても、こちらも靄がかかったように顔はほとんど覚えていなくて、はっきりしているのは首から下の部分だけだったけれど。それでも、美人だという印象を抱いたのは覚えている。それと、二十代前半だろうか、憧れていた姉という存在にその人を重ね合わせていて、話しやすかったことも。
私は彼女に、自分の身に起きたことを話していた。見知らぬ人だったのに、まったく抵抗はなかった。どうしてだろう。
女性は、親身になって聞いてくれた。そして、私が話し終わったあと、こう言ったのだ。
「あなた、自分だけの世界が欲しいのね」
声も、聴きほれてしまうような響きだった。どんな声だったか記憶を手繰り寄せようとすると、消えてしまうようなものだけれど。それでも、例えるならば、鈴を転がしたような、甘ったるくもなく強すぎることもない、心地よく聞ける声だった。
私は、頷いていた。
すると、女性は頬に手を当て、考えるような仕草をした。彼女がひとつ仕草をするたびに、なにかの香りが漂ってくる。まるで、香をたいているみたいだった。なんの香りなのだろう、と私は考えたけれど、よくわからなかった。
「……実を言うとね、あなたの願いを叶える方法はあるの。でも、危険が伴うから、あまりお勧めしたくはないんだけれど……」
願いを、叶えられる? 本当に?
危険、という言葉が頭をかすめた。けれど、そのことについて考える前に、女性が言葉を続けた。
「――それでも、叶えたい?」
魅惑的な響きだった。私はその時、なにを考えていたのだろう。これから起こることについて、少しは考えていたのだろうか。
もしかしたらこの時、私は女性に誘導されていたのかもしえない。それとも本当に、私自身が望んだのか。今となってはわからないけれど、私はその時、頷いてしまったのだ。
「……叶えたい」
女性が、微笑んだような気がした。
彼女は立ち上がり、ティーカップを持って戻ってきた。それを、私の前に置いた。
「これを飲みなさい。そうすれば、気持ちが楽になるから」
見つめるティーカップの液体は、琥珀色をしていた。両手で包むようにすると、温かさが手のひらに伝わってくる。夏だけれど、温かい飲み物を飲むことに抵抗は無かった。今の季節が夏で、周囲は暑さに見舞われているなんて、忘れていた。
香のような香りのほかに、甘い匂いが鼻腔を刺激した。その匂いも液体と一緒に、喉に流し込む。
甘く温かい飲み物。香のような香り、甘い匂い。それらは、いつまでも記憶の底に残っていた。
それから、女性の声も。
「あなただけの世界……生かすも殺すも、あなた次第。楽しんで、そしてどうぞ気を付けて――」
靄が立ち込めてくるように、意識がもうろうとする。それからあとは、なにも覚えていない。
現実での記憶は、そこでぷつんと途切れていた。
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