コーヒーゼリー

谷内 朋

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内省編

ー23ー

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 中林と話が出来た事で幾分落ち着きを取り戻した波那は、千郷からのメールを何度も読み直していた。これ以上逃げられない……、意を決してケータイ番号をクリックし、通話ボタンを押す。
 二度程の呼び出し音で、はい。とか細い声で応対してきた。波那は瞳を閉じ、まだ少しざわついている気持ちを鎮めようと一度深呼吸をして胸元に手を当てる。
 「突然すみません、小泉波那です……」
 『波那さん?嬉しいです』
 波那と分かった千郷の声はなぜか弾んでいる。どうして喜んでくれるのだろう?それが疑問だったのだが、メールありがとう。と当たり障りのない言葉を掛けた。
 『良かった、ちゃんと届いてて。どこかスペルでも間違えて違う人の所に届いちゃったのかと思ってハラハラしてたんです』
 「ううん、違うよ。僕は君が嫌いだったからスルーしてたんだ」
 波那は失礼を承知で本心を伝える。
 『そうですか……。でも僕はあなたの事、好きですよ』
 どうして?波那は千郷が逆の感情を持っているのが意外だった。
 『母に少し似ているからだと思います。それにあなたは命の恩人ですから』
 「でも僕は畠中さんの浮気相手でもあったんだよ、そのくせ君が悠麻君と馬が合う事にも嫉妬して……」
 『やっぱりお気付きだったんですね、病院で出逢った時にほぼ一目惚れ状態です。その頃星哉君とのお付き合いは続いていましたが、体の関係は既にありませんでした』
 千郷は淡々とした口調で語り始める。
 『でも悠麻君にはあなたがいて、星哉君の心の中にもあなたの存在が棲み付いてて……。彼には初めからずっと誰かの影があったので意外でもなかったんですが、それでも悠麻君にも星哉君にも愛されてどこまで贅沢な人なんだろう、って思った事もありました』
 千郷もまた波那に本音を打ち明ける。その言葉に自身もまた同じ様に相手の心を引っ掻き回していた事を知って何も言えなくなる。
 「……」
 『波那さん?』
 「……ごめんなさい」
 謝罪の言葉を欲しがっていないのは分かっていたが、適切な言葉が見付けられなくて泣きながら謝っていた。そんな言葉欲しくありません。千郷はきっぱりとそう言った。
 『本当に傷付いているのはあなたと星哉君なんです。これ以上、ご自身を痛め付けないでください……』
 千郷は終始冷静で、中林の言っていた事が今ならよく分かる。波那はまるで支えられている様な感覚になり、ありがとう。と言った。
 「千郷君……。悠麻君と、仲良くね。余計なお世話だと思うけど」
 『ありがとうございます、波那さんにそう言って頂けて僕凄く嬉しいです』
 この頃になると彼への醜い感情も消し去られ、中林との恋の成就を心の底から願える様になっていた。それと共に自身を嫌う気持ちも少しずつ治まって、心の霧が晴れた思いで満たされ始めていた。

 ようやく気持ちの整理の付いた波那、この日は仕事でコピー機のメンテナンスを頼まれて宣伝課にやって来ていた。
 「最近よく詰まるんだ」
 親睦会で一緒になった野上がコピー機と格闘している波那の隣に立っている。彼はこのところ料理に目覚め、最近は元上司の小田原と頻繁に会っているそうだ。
 「先月出水が異動になったから、一緒に飯食う相手が居なくなっちゃって。最近弁当持参してるから、先週初めて品評会に参加してみたんだ」
 同じく親睦会に参加していた三條は、先月末日付で釧路支社へ転勤となった。奈良橋の呼び掛けで親睦会メンバーによる送別会が催され、畠中と望月以外は全員参加したのだった。
 「ホントですか?」
 「うん、でも知ってるの牟礼さんだけだったんだ」
 野上は少し寂しそうに言った。
 「先週は外食したんです、庶務課全員で」
 「へぇ、小林さんも外食なさるんですね」
 彼は自炊する人は外食をしないと思い込んでいた様で、意外そうな顔をした。
 「えぇ、あの方勉強熱心ですから。外食もコンビニ弁当も普通に召し上がりますよ」
 ん?波那は野上からちょっとした淡い気持ちを察知した。すると、今度いつ予定してるの?と訊ねてきた。
 「う??ん、課長の気まぐれで決まるので現時点では分からないんです」
 「そうなんだ……。もし庶務課の昼食に混ぜて頂けるのなら僕も参加したいな」
 「良いですよ、最近は色んな課の方も混じってますから」
 「じゃあ、もし話が出たら教えてよ」
 分かりました。波那はそれを了承し、二人はこれを機に連絡先を交換したのだった。

 宣伝課を出て企画課のファックス用紙の補充に出向いている波那は、三階の高さに相当する正面入り口に架かる長い通路を歩いていた。すると下の正面入り口に畠中の姿を目撃する。もうかれこれ一月以上見掛けなかったその姿に、仕事中である事も忘れて思わず足を止めてしまう。
 「星哉……」
 波那は壁の役割も担っているガラスに貼り付き、外回りで出掛けようとしている畠中の背中を見つめていると、仕事用のケータイが鳴って短いおサボりタイムは終了する。
 「はい、小泉です」
 『波那ちゃん?今どの辺りに居る?』
 「正面口上の渡り廊下です」
 『ついでに会議室の電球の交換、お願いして良いかな?』
 分かりました。新たな仕事を頂いた波那はこんな事してられないや、と慌てて荷物を積んでいるキャスターを押そうとしたところ、タイヤが停まってしまってひっくり返しそうになってしまう。
 ヤバい!彼は必死に立て直しを図るも、非力であるか故立ち往生していると、男性の声で大丈夫か?と助け船を差し出された。
 「あ、ありがとうございます……」
 その男性があっさりと立て直してくれたお陰で惨事は免れ、礼を言って顔を上げると札幌勤務のはずの沼口がそこにいた。
 「随分と急いでんな」
 「うん、作業が遅れ気味で……」
 畠中を見ていた、などとは言えず笑ってごまかした。
 「どうしたの?出張?」
 「全国会議、前乗りついでに一課に寄ろうかと思って」
 「そっか、もうそんな時期なんだね」
 毎年ほぼこの時期になると、営業部課長クラスの社員が全国から集まってくる。表向きは会議なのだが、各支社同士で情報交換をしたり社内レクの見学をする場となっている様だ。
 「沙耶果ちゃんと会う時間、取れそうなの?」
 「う??ん、戻る直前のランチが精一杯だなぁ」
 自由行動なんてほぼ無いし、沼口は若干渋い表情を見せる。現在遠距離恋愛はうまくいっている、と沙耶果から聞いているので心配している訳ではないのだが、会える距離に居るのにランチだけというのも不憫な気がしていた。
 「明後日なんだけど、良かったら波那も来ないか?」
 「ゴメンね、社内レクに参加するんだ」
 「そっか。えーっと、小林さんだっけ?が講師を務める料理教室の事か。あれウチの三課の課長も行きたい、とか言ってたぞ」
 あの人モテるらしいな。沼口にとってはさほど興味のある話ではなさそうだった。
 「最近体調良いって沙耶果から聞いてたし、顔色も良さそうで安心したよ」
 「うん、お陰様で」
 二人はそこで立ち話を止め、沼口は営業一課へ、波那は企画課へと向かった。

 同じ頃、畠中もキャスターを押している波那の姿に気付いていたが、時間が勝負の外回りに追われてチラッと見る事しか出来なかった。
 久し振りに見たな。それだけで嬉しくて、大嫌いな接待も機嫌良くこなせた甲斐あって見事商談を成立させたのだった。

 社内レク当日、商品開発課の厨房を借りての料理教室で、講師は同僚の小林が務めている。知っている顔も多かったが、営業部の全国会議のため他の支社からの出張組の参加も意外と多かった。
 「今回は男性が多いね」
 このところ体調を崩しがちだった望月が参加者を見ながら言う。実は彼女、体調不良で病院に行ったところ、結婚十年目にしてようやく子供を授かったのだった。
 「そうだねぇ、ヘタな合コンみたいにならなきゃ良いんだけど……」
 大澄は小林目当てでの参加者の多さに少々うんざり気味の表情を浮かべている。そこに少し遅れて愛梨が入ってきて、波那たちの居る輪の中に合流してきた。
 「ごめんなさい、遅くなってしまいました」
 「大丈夫よ、今始まったところだから」
 今やすっかりお弁当品評会の常連となっている彼女は、仕事も花形で社内きってのキャリア美女という事もあり、後輩社員の憧れの的となっている。特に人事課の七瀬は何かに付け愛梨と一緒に居たがって早速隣に立っている。
 「望月さん、この度はおめでとうございます」
 「ありがとう。今十一週目だからあんま実感無いんだけどね」
 二人は少し言葉を交わしてから壇上で堂々の講師振りを魅せている小林に視線を移す。彼女のその姿に男性たちは釘付けになっており、その中に野上の姿もあってこのままいくと彼女を巡る争奪戦が始まってしまいそうだった。
 ところが波那だけは小林が野上を気に入っている事を知っていた。彼と連絡先を交換したその日のうちに、課長に持ち寄りランチの話をしているのと聞き付けた彼女の方が、それなら日程が先のこのレクに誘ってみては?と打診してきたのだった。
 「……頑張れ、野上さん」
 波那は小林の話を真剣に聞き入っている野上に小声でエールを贈ると、隣に居る奈良橋に聞こえてしまった様で、何か言った?と振り向いてきた。
 「いえ、何でもありません」
 彼は笑顔でそれをごまかし、壇上の小林に視線を戻した。
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