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番外編 それを覚えていなくとも
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「にぃに、だっこー」
「ちょっと待っててね、俊」
左京は手を洗い終えると、まだ幼い弟の俊を抱き上げた。とはいえ、左京はまだ10歳で、俊は3歳。抱き上げるといっても、それほど高くは上げられない。それでも俊は嬉しそうに笑った。
「にぃに、ちからもちぃ」
「俊もおっきくなったね」
「えへへ」
俊を抱き上げながら、左京はリビングに向かう。リビングでは母の佳乃がテレビを真剣な眼差しで見ていた。左京はこたつの傍で俊を下ろすと、自分も座ってこたつの上に置かれたみかんに手を伸ばした。
『行方不明になったのは土井唯華ちゃん7歳です。失踪当時着ていた服は、赤の上着に黒のズボン、赤のニット帽を被っており───』
「怖いわね、行方不明だって」
「ゆくえふめー?」
「そう。左京、帰ってくるときやお出かけするときは、1人にならないようにしなさいね。俊はお母さんとずっと一緒よ」
「おかしゃといっしょー!」
「そうよ、一緒」
左京は佳乃の言葉を聞きながらテレビへと視線を向ける。ピースして笑っている女の子の写真が映っている。この子が行方不明の子なのだろう。行方不明になったら、家族に会えなくなる。それがとても恐ろしいものだと思ったので、母の言葉に素直に従おうと決めた。
「ただいまぁ」
「あ、ねぇねかえってきた」
姉の秋穂がリビングに入ってくるなり、左京が剥いたばかりのみかんを奪って口に運んだ。
「あー!秋ちゃん、それ俺の!」
「早い者勝ちよ。そうだ、聞いてよお母さん……」
秋穂はみかんを呑み込むと、いつもの日課である学校での話をしだした。今日は愚痴のようだ。左京は仕方なしに新しいみかんを剥き始めた。左京も小学校に通っているが、高校というところはもっと難解で複雑らしい。そんなところに毎日通っている姉はすごいと左京は思った。
佳乃は秋穂にも行方不明のことを話し、「気をつけなさいね」と念を押した。左京はみかんを食みながら、絶対に1人で出歩かないようにしようと心に決めた。
「そうそう、秋穂。テスト返ってきたのよね?」
「え。なんで知ってるの!?」
「古田さんから聞いたの。古田さんの息子さんと同級生でしょ?」
「あー……」
「で?どうなの?」
「あー……おっと、明日小テストだから勉強しないと!」
「あ、こら、待ちなさい!……はぁ、まったく……」
そそくさと自室へ逃げ去った秋穂にため息を吐きつつ、佳乃はテレビを見た。行方不明のニュースは終わり、天気予報に切り替わっている。テレビに表示された時計を見て、佳乃が腰を上げた。夕食の準備らしい。左京はみかんの最後の一つを食べると母に倣って立ち上がった。
「母さん、俺も手伝う!」
「ありがとう。でも俊が寂しがるから遊んであげてて」
「うん」
俊は一昨日買ってもらったばかりのお絵かき帳にクレヨンで絵を描いていた。円が何個か重なったものが5つ。
「何描いてるの?」
「おとしゃと、おかしゃと、ねぇねとにぃにとしゅん!」
「かっこよく描いてくれてありがとう」
左京が俊の頭を撫でてやると、俊は嬉しそうに頬を緩めた。それからページを捲って新しい白にせっせとクレヨンを持つ手を動かし、再び円の集合体を描き始めた。
「次は何描くの?」
「てんちゃ!」
「てんちゃん?」
「てんちゃがね、どんぐりいっぱいくれたの。まるいのと、おっきいのもあるよ」
「てんちゃんって誰?」
「お鼻がぐーんって長いの!」
「……ピノキオ?」
父である喜一郎が読み聞かせてくれた外国の昔話を思い出す。しかしそれは作り話だ、実際にいるわけがない。それは左京も知っている。しかし、鼻が長くてどんぐりをくれる、てんちゃなる人物のことを、どうやら俊は気に入っているらしい。てんちゃの顔らしき円の真ん中に、細長い楕円形が描かれる。これがどうやら鼻のようだ。左京は悪い魔女のような鉤鼻を思い浮かべながら絵をぼぅ、と見つめていた。
───────
「じゃあお母さん、買い物行ってくるから、いい子に留守番しててね。誰か来てもドアを開けちゃダメよ」
「はーい」
「おかしゃ、いってらっさい」
「うん、行ってきます」
佳乃は外から鍵を施錠して家を出た。買い物に出たのだ。いつもなら左京や俊も連れて行くのだが、今日は寄るところも多く、疲れさせてしまうからと留守番となった。今日は土曜日。父である喜一郎は急な休日出勤でいない。秋穂は部活があるからと朝早くに高校へと自転車を漕いで行った。
左京と俊はおとなしく家で遊ぶことにした。
「うっへっへ~!悪い怪獣だぞ~」
「しゅんがやっつける~!」
新聞紙を細長く丸めたハリボテの剣を振り回しながら俊が左京に立ち向かう。左京は手を大きく広げて大股に歩く。怪獣ごっこを楽しんでいると、コン、と音がした。その小さな音に気づかずに遊んでいると、再びコン、コン、と音が鳴った。それでも気づかないでいるとドン、と鳴った。2人はようやく気づいて音のした方、庭に出る出入り窓の方へと近づいた。窓の外を見て、左京は後ずさりした。
庭に立っていたのは、鼻の突き出た赤い仮面を付けた大男。仮面は顔の上半分を覆い隠している。山伏の服装で、高い一本下駄を履いている。背中には黒い翼が一対生えている。喜一郎よりもだいぶ背の高い男に左京は震えた。天狗の仮面は怖く見え、その背の高さは怪物を思わせた。
「てんちゃ!」
俊は嬉しそうに声を上げ、出入り窓の解錠し、ガラッと引き戸型になった窓を開けた。驚いた左京が俊を抱き留めるよりも先に、仮面の男が俊を抱き上げた。
「幼子よ、ちと力を貸してもらおう」
「ちから?」
「しゅ……俊を離せっ!」
左京は両脇にぶら下げた手を強く握り締め、仮面の男を見上げた。怖くないぞと必死に涙を堪え、キッと睨みつけるように仮面の男に視線を向けるが、見下ろされてだんだん怖くなってきた。
「ふむ。お前も身体が小さいな。手伝ってもらおうか」
「な、何言ってるかよく分かんないけど、とにかく俊を離して!」
「幼子。あれはお前の兄弟か?」
「ん。にぃにだよ」
「兄か」
仮面の男が左京へと腕を伸ばす。左京がぎゅ、と目を瞑り身を強ばらせた。ふわりと左京の身体が浮き、慌てて目を開くと、仮面の男に抱き上げられたことが分かった。左腕に俊を、右腕に左京を抱え、仮面の男は言った。
「人の子よ。どうか我らを助けてはくれまいか」
「助ける……?」
「私の名は鴉坊。富津槻山の天狗だ」
「てんぐ?」
「幼子には分からぬか……まあ、よい。我ら山に住まう妖が解決出来ぬ困難がある。そしてお前達人の子……特に幼子にしか出来ぬことがある。力を貸してくれまいか」
「鴉坊、困ってるの?」
「ああ。困っている」
「にぃに、てんちゃ、こまってるから、おてつだいしてあげようよ」
「でも、留守番してないと……」
「終わればすぐにでもここへ送り帰そう」
「うーん…………」
左京は困惑した。困っている人を助けてあげなさい、というのが両親の口癖だった。それを忘れずにその通りに行動してきたし、それに心地良さを覚えている自覚はある。だから、この鴉坊なる天狗が困っているというのなら助けたいと思う。しかし、今は留守番をしていなくてはならない。母からの言いつけだ。
左京は迷いに迷った挙句、答えを決めた。きっと困っている人を助ける為なら、両親もちょっとの外出は許してくれるだろう。むしろ褒めてくれるかもしれない。
「うん、いいよ」
「そうか。ありがたい」
鴉坊は2人をぎゅ、と抱きかかえると、ばさりと黒翼を羽ばたかせた。ふわりと浮遊感を感じて思わず左京は目を瞑った。ばさり、ばさり、と羽の音。しばらくして俊が歓喜の声を上げるのを聞いて、おそるおそる目を開くと───
「うわあ……!」
大きなはずの家々が足のずっと下に見える。人は人形みたいに小さくて、犬や猫なんかもっと小さい。
「すごい!鴉坊、飛べるんだ!」
「天狗として当然のこと」
そう言いつつ、鴉坊の口元は弧を描いていた。鴉坊は2人を抱きかかえたまま空中を進む。目指すは富津槻山。行先向こうに大きく身構えている。ぐん、と進む鴉坊に抱かれ、左京の頬を冷たい風が撫でた。季節は12月。晴れているとはいえ、風は氷のようだ。
どれくらい飛んでいたであろうか。目的の富津槻山の中腹の道に降り立つと、鴉坊は2人を下ろした。枯れ木に落ち葉の茶色の景色をぐるぐる見回しながら、左京は鴉坊に問いかける。
「何すればいいの?」
鴉坊が口を開くと、突然ばさりと上から誰かが降りてきた。その人物も背が高く、鴉坊よりも体格が恵まれ、威圧感があった。顔の上半分は黒い仮面で隠れており、服装も鴉坊と同じだ。左京と俊は怯えて鴉坊の背後に隠れた。
「綱坊、いきなり現れるな。幼子達が怯えているだろう」
「すまねぇな。おい、坊ちゃんら。安心しな、こいつの友人みたいなもんさ」
「鴉坊の友達?」
「ああ、そうだ」
「てんちゃのおともだちも、おっきぃねぇ!」
「てんちゃ?なんだそりゃ」
「私のことだ。天狗だからてんちゃん、らしい。舌足らずでてんちゃ、になっているようだな」
「子供に好かれてんなぁ、お前は」
綱坊はしゃがみ込んで左京と俊の頭を撫でた。大きな手で乱雑に撫でられて困惑したが、なんだかちょっと嬉しかった。綱坊は立ち上がると傾斜になった道を見た。この先が緩やかな上り坂になっている。ここを進むのだろうか。
「道すがら話そう。綱坊、兄の方を抱えてやってくれ」
「おうよ」
左京は綱坊に抱き上げられ、俊は鴉坊に抱えられた。緩やかな坂を進む。
「この先の洞窟の中に祠がある。そこに入って、中にあるはずの玉を持ち帰って来てほしい」
「ぎょく?どうして?」
「祠にはこの山の神、藤蛇神様が祀られている。その昔、藤蛇神様が悪鬼を封じたのがその玉だ」
「難しい……」
「にぃに、とうだのかみってなあに?あっき?」
「藤蛇神様はヒーローだ。悪鬼は悪者だ。ヒーローである藤蛇神様が、悪者の悪鬼を封印した。その悪鬼が玉……真っ黒なビー玉に封じられている」
「ふうじ……?」
「…………悪さをしないように悪鬼を閉じ込めた」
「悪者をビー玉に閉じ込めたんだね!」
「そうだ。そのビー玉が欲しいのだ」
「どうして取ってこないの?取ってくればいいのに」
「先日の土砂崩れで洞窟が小さくなってしまったのだ。今は妖術……魔法でこれ以上の崩壊は食い止めているのだが……私達では入れぬ」
「そっか、俺達ちっちゃいから、その洞窟に入れるんだね!」
「そういうことだ」
「どうして玉?が欲しいの?」
「妖術で食い止めているとはいえ、やがて洞窟は閉じてしまう。その前に玉を安全な場所に移し、封印が解かれぬよう見守るのだ」
「難しい……」
「むずかしいねぇ、にぃに」
「……そうだな、そのビー玉を見守って、また悪者が暴れ出さないようにするんだ」
「そっかぁ!てんちゃはヒーローなんだね!」
「綱坊もヒーローなの?」
「おうよ。我ら天狗一族は藤蛇神様にお仕えする誇り高き一族なんだぜ」
「かっこいいなぁ」
左京はきらきらと目を輝かせながら言った。もう戦隊ヒーローや仮面ライダーは卒業したが、それでもヒーローだとか正義の味方だとかに憧憬を抱く年頃だ。正義の活動の一端を担うとなれば、胸の高鳴りもひとしおだ。難しい言葉ばかりだが、悪者を閉じ込めたビー玉を取ってくるという話だから、自分でも出来そうだ。
「しかし懸念点もある」
「けねんてん?」
「心配なことという意味だ。先日、女子の幼子に協力を頼んだ。その幼子……唯華と言ったか、とにかく彼女が洞窟に入ったきり出てこないのだ。何かあったのだろう。そこに幼子だけを再び送るのは気が引けるが、悪鬼の封印が解ければ、人的被害も多かろう」
「女の子が中にいるの?なんで出てこないの?」
「分からん。何かしらの問題が起きたのは明らかだ。だが、我らの図体の大きさでは助けに行くことも出来ぬ。代わりに唯華を助けてほしい。もちろん玉も持ってきてほしい」
「やることいっぱいだねぇ、にぃに」
「でも、女の子が危ないことになってるなら助けなきゃ!」
「もちろん援護しよう。ここに札が3枚あるだろう?」
鴉坊は3枚の縦長の紙札を取り出した。大人の手くらいの大きさだ。墨字で何やら崩れた文字のようなものが書いてある。が、俊はもちろん左京にも何が書いてあるのか分からない。
「さんまい、おふだあるねぇ」
「危険が迫ったらこの札を持って『破浄』と唱えるといい。そうすればこの札に込められた妖術がお前達を助けるだろう」
「はじょう、って言えばいいの?」
「そうだ」
鴉坊から手渡された札をまじまじと見つめ、それから左京はそれをくしゃっとポケットに突っ込んだ。
やがて鴉坊と綱坊が立ち止まる。左京と俊は2人の視線を追ってそれを見つけた。
小さな洞穴。そこに札が何枚か貼ってある。穴の大きさは左京でさえ四つん這いに進めば入れるくらいだ。確かに長身で体格の良い鴉坊と綱坊では入れまい。
左京と俊は下ろされて地面に足をつけると、洞窟と呼ぶには小さくなりすぎた洞穴に近づいた。
「貼ってある札は取るなよ、チビども。生き埋めになるぞ」
「いきうめ?」
「死んじゃうってことだ」
「それはぃや!」
「なら貼ってある札には触んなよ」
「はーい!」
俊が元気に返事をする一方、左京は不安に駆られていた。女の子を助けられなかったらどうしよう、玉を持って来れなかったらどうしよう、もしうっかり札を剥がしてしまったらどうしよう…………俯き、両手拳を握りしめる。足が震え出す。
「にぃに?」
俊が左京を見上げる。左京の服の裾をぎゅ、と握り、ちょいちょいと引っ張る。
「いこ、にぃに!」
「怖くないの?」
左京は俊に問いかける。声が震えている。情けない。俊が怖いと言ったら一緒に逃げてしまおうと思った。しかし、俊は丸いくりくりの目を輝かせたまま答える。
「だって、にぃにいるもん!」
左京は俊の丸い目を見つめる。きっと俊は鴉坊や綱坊のようなヒーローになれると信じてやまないのだろう。そして、それは兄である左京とともになるものだと、そう信じているのだろう。自分よりずっと小さな俊が、兄と一緒であるなら怖くないと言う。それが可愛らしくて、そんな俊を守りたくて、左京の腹の奥底から何か熱いものがこみ上げてきた。兄と一緒なら怖くない。そう、弟がいるなら兄だって怖くないし、いつもよりずっと強くなれるのだ。
「行こう、俊!」
「うん!」
左京は四つん這いになり、先に穴に入っていく。その後ろを俊が四つん這いについて行く。2mほど四つん這いで進むと、中は広い洞窟となっていた。左京と俊は立ち上がって中を進む。上に穴が何個か空いており、明かりに困ることはなさそうだ。左京は俊と手を繋ぐ。進むと、暗がりに祠が見えた。その前には女の子が蹲っている。赤の上着に黒のズボン、赤のニット帽。行方不明になっている唯華ちゃんという子の特徴と一致している。距離は離れていたが、左京はおそるおそる声をかけた。
「あの……唯華、ちゃん……かな?」
蹲っていた女の子は顔を上げて、それからビクリと肩を跳ねさせた。左京は怖がっているのだろうと出来るだけ優しい声を努めた。
「大丈夫、助けにき───」
「危ないっ!後ろ!」
女の子が叫んだ。左京は反射的に俊を押しのけて庇った。ひたりと左京の首元に冷たい手のようなものが絡みついた。
「にぃに!」
「来るなよ、童ども」
左京の後ろで、しわがれた声が耳を不快に撫であげた。しわしわで、ちっとも優しさなんてない声。左京は怖くなって両側にぶら下げた手のひらをぎゅ、と握りしめた。
「ひっひっひ……童が3人……食い扶持には困らなそうだ」
しゃがれた声の正体は分からない。しかし泣きそうにしゃくりをあげている俊を前に弱音は吐けなかった。左京は声を上げた。
「お前はなんなんだ!?」
「俺は餓鬼。そこに封印されている悪鬼、百目鬼様の下僕さ」
「どうめき……?そいつが悪者なんだな!じゃあ、お前も悪者か!」
「人聞きの悪い。俺達は腹が減るから人間を食うのさ」
「人間を、食べる……!?」
「そうさ。そこの女の童を食おうと思ったんだが、もっと恐怖に怯える姿を見てからのお楽しみにしようと思ってな……ひっひっひ……」
「ひどい……!」
左京は後ろにいるはずの餓鬼に怒りを燃やした。人を食べるだなんて。しかも怖がらせてから食べるだなんて。恐怖は正義感と怒りに塗り替えられていく。左京は拳を握りしめたまま口を開いた。
「俺はお前なんか怖くないぞ!お前なんてやっつけてやる!」
「やれるものならやってみろ、童如きが!」
絡みついた細くて冷たい指が左京の首に食い込む。左京は思わずその指を掴んだ。両手でその手指を剥がそうにも力では敵わない。次第に息が苦しくなっていく。
「にぃにをはなして!」
俊が駆け寄って餓鬼を殴った。しかし3歳児の力では痛くも痒くもないのだろう、餓鬼は空いている手で俊を突き飛ばした。俊は尻もちをついて、一瞬の間の後、大きくしゃくりをあげた。
「うっ……う、うわあああああん!いたいよぉ!おとしゃぁ、おかしゃぁ!」
「しゅ……ん……っ」
左京は頭がぼぅ、としながらも、必死に策を練った。どうすれば2人を助けられる?この状況を打破出来る?
『危険が迫ったらこの札を持って『破浄』と唱えるといい。そうすればこの札に込められた妖術がお前達を助けるだろう』
鴉坊の言葉が反芻された。
そうだ、札だ、札を───
左京はポケットから札を取り出した。何枚持っているかは分からないが、とりあえず掴めた。
「は……っ、破浄っ!」
札をポケットから取り出すと、叫ぶように唱えた。札がめらりと燃えた。左京にはその炎の熱を感じなかったが、餓鬼はその炎に触れるなり、ぎゃあと叫んだ。
「ああああ!熱い!熱いぃぃぃ!!」
餓鬼の手指が左京から離れた。左京は札を握りしめたまま倒れ込み、げほげほと咳き込んだ。俊が泣いている。左京は俊に駆け寄って頭を撫でた。
「俊、大丈夫。にぃにがいるよ。痛くない、痛くない」
「うっ、ぐ……っ、ひっく……」
「痛いの痛いの飛んでけー!」
「ん……っ、うん……いだぐない……っ」
「いい子だ、俊。強い子だね」
泣き止もうとする俊を抱きしめ、頭を撫でながら、振り返る。ようやく見えた餓鬼の姿に息を呑んだ。細く骨ばった四肢。腹はどっぷりと丸く出ていて、頭からは角が生えている。飢え干からびた老人のような姿だ。
左京は逃がれるように女の子の方を向いた。女の子は怯えている。左京は女の子を鼓舞するように明るい声を出した。
「一緒に逃げよう!」
「で、でも……っ」
「大丈夫!俺が餓鬼をやっつけるから!」
「う……」
「早く!」
「……うん!」
女の子が立ち上がって左京と俊に駆け寄った。3人で洞窟の入口まで走る。餓鬼が追いかけてくると、左京は持つ燃える札のうち1枚をくしゃくしゃに丸めて餓鬼へ投げた。餓鬼の胸の辺りに当たり、餓鬼はその場に蹲った。
「ぎゃああ!熱い!よくも、童!!」
あの狭い穴にたどり着いた。俊、女の子、左京の順で外へ出ようと四つん這いで進む。俊と女の子が穴から抜け出し、自分もあともう少し、と手を伸ばした左京。その脚を、冷たく骨ばった指が掴む。左京は持っていた2枚の札を掴まれた脚へと近づけて投げた。手がパッと離れ、餓鬼の悲鳴が聞こえた。左京は急いで穴から抜け出す。
「よくぞ戻ってきた、幼子の兄よ」
「鴉坊、綱坊、中に、がきがいる!どうめきっていう悪者の仲間!」
左京は先に鴉坊達に抱きついていた俊と唯華に倣って抱きつくと、洞穴の方を指さした。鴉坊と綱坊は顔を見合せ、鋭い視線を洞穴へ向けた。餓鬼はでっぷりと出た腹を入口に詰まらせ、じたばたと暴れている。
「童ども!殺してやる!今すぐに頭から食い殺してやる!」
「綱坊」
「おうよ」
綱坊は餓鬼の方へ近寄ると、何やら唱えた。
「見てはいけない」
鴉坊は翼で俊と唯華の顔を覆い、手で左京の目を隠した。おぞましい悲鳴が聞こえる。何が起こったのか、怖くて聞けない。ただ、何かを焼いたような焦げ臭いにおいだけが、鼻をつんと突き上げた。鴉坊が翼と手をどけると、餓鬼はいなくなっていた。代わりに転がっていた黒い玉を拾うと、綱坊はニカッと笑った。
「よし、玉もチビどもも無事だな」
「よく頑張ってくれた、3人とも。感謝する」
「かんしゃする、じゃないよ、てんちゃ。ありがと、っていうんだよ」
「はは、そうだな。ありがとう」
鴉坊はしゃがみ込み、左京達に目線の高さを合わせたうえで、3人の頭を順に撫でた。俊は嬉しそうに目を細めて頬をふくふくとさせている。左京も嬉しくなって、笑みを零した。その隣の唯華も笑顔でいる。綱坊はその様子を眺め、それから空を見上げた。
「おい、鴉坊。こりゃ一雨きそうだ。早めに送り届けた方がいいんじゃねぇか?」
「そうだな。綱坊は唯華を頼む。私は兄弟を送り届けよう」
「おう」
綱坊は唯華を抱き上げた。唯華はわぁっと歓喜の声を上げた。7歳とはいえ、たかいたかいのようで楽しいのだろう。自分のいつもの視界よりもずっと高く広くなり、子供心が湧き上がってくるようだ。
「てんちゃ、しゅんもだっこー!」
「そうだな。そら、兄も来るといい」
左京と俊は鴉坊に抱き上げられて唯華の方を見た。怖がっている様子はない。もう大丈夫そうだ。
ふわりと視界が更に高くなる。鴉坊と綱坊が飛び上がったのだ。左京と俊は、綱坊と唯華に手を振った。お別れなのに、不思議と寂しくなかった。
ふわり、ふわりと視界は飛んで、行きのように家が足の下に見える。やっぱり人が小さく見える。足をぱたぱたと振ってみる。でもやっぱり靴が脱げそうなのでやめた。
やがて左京達の家に着くと2人は地面に降ろされ、久しぶりの地面の感触に、何度か地面を踏み直してみた。足踏みしていると、鴉坊の手が、そっと左京と俊の頭に触れた。足踏みをやめて左京と俊が顔を上げようとすると、なんだか頭がぼぅ、としてきた。顔を上げたいのに、上げ方が分からなくなってきた。
「幼子達よ。妖がこの世にいるとなれば、人間達は混乱してしまう。故に此度のことは泡沫の夢が如く忘れるが吉だろう」
その言葉のひとつひとつが、水面の波紋のように浮かんでは消えていく。呆然とした頭では理解出来ず、理解出来ぬままにその言葉が身体に溶け込んでいくのを感じた。
鴉坊が何か唱えた。
左京と俊の意識は緩やかに落ちていき、脱力した身体を鴉坊が支えた。鴉坊は2人を抱え、鍵の開いている大窓から家の中に入れてやると、静かに飛び立って行った。
───────
『行方不明だった土井唯華ちゃん7歳が自宅の縁側で発見されました。行方不明時の記憶が無いとのことですが、命に別条はないそうです』
「よかったわね、見つかって。でも、どこで何をしていたのかしら?」
佳乃が紅茶を飲みながら呟いた。左京と俊はおやつのクッキーに夢中だ。左京はちらりとテレビ画面を見る。写真の女の子はどこかで見たことがあるような、ないような……分からないのでクッキーと一緒に違和感を呑み込んだ。
───────
その日左京は夢を見た。
悪い怪獣から女の子を助ける夢だ。
俊とお供の鼻の長い象2頭と一緒だったのが不思議だったが、見事怪獣をやっつけた。女の子の顔が笑顔でほっとしたのを覚えている。
「ありがとう」
真っ白な蛇にお礼を言われた。
心が温かくなった。
「ちょっと待っててね、俊」
左京は手を洗い終えると、まだ幼い弟の俊を抱き上げた。とはいえ、左京はまだ10歳で、俊は3歳。抱き上げるといっても、それほど高くは上げられない。それでも俊は嬉しそうに笑った。
「にぃに、ちからもちぃ」
「俊もおっきくなったね」
「えへへ」
俊を抱き上げながら、左京はリビングに向かう。リビングでは母の佳乃がテレビを真剣な眼差しで見ていた。左京はこたつの傍で俊を下ろすと、自分も座ってこたつの上に置かれたみかんに手を伸ばした。
『行方不明になったのは土井唯華ちゃん7歳です。失踪当時着ていた服は、赤の上着に黒のズボン、赤のニット帽を被っており───』
「怖いわね、行方不明だって」
「ゆくえふめー?」
「そう。左京、帰ってくるときやお出かけするときは、1人にならないようにしなさいね。俊はお母さんとずっと一緒よ」
「おかしゃといっしょー!」
「そうよ、一緒」
左京は佳乃の言葉を聞きながらテレビへと視線を向ける。ピースして笑っている女の子の写真が映っている。この子が行方不明の子なのだろう。行方不明になったら、家族に会えなくなる。それがとても恐ろしいものだと思ったので、母の言葉に素直に従おうと決めた。
「ただいまぁ」
「あ、ねぇねかえってきた」
姉の秋穂がリビングに入ってくるなり、左京が剥いたばかりのみかんを奪って口に運んだ。
「あー!秋ちゃん、それ俺の!」
「早い者勝ちよ。そうだ、聞いてよお母さん……」
秋穂はみかんを呑み込むと、いつもの日課である学校での話をしだした。今日は愚痴のようだ。左京は仕方なしに新しいみかんを剥き始めた。左京も小学校に通っているが、高校というところはもっと難解で複雑らしい。そんなところに毎日通っている姉はすごいと左京は思った。
佳乃は秋穂にも行方不明のことを話し、「気をつけなさいね」と念を押した。左京はみかんを食みながら、絶対に1人で出歩かないようにしようと心に決めた。
「そうそう、秋穂。テスト返ってきたのよね?」
「え。なんで知ってるの!?」
「古田さんから聞いたの。古田さんの息子さんと同級生でしょ?」
「あー……」
「で?どうなの?」
「あー……おっと、明日小テストだから勉強しないと!」
「あ、こら、待ちなさい!……はぁ、まったく……」
そそくさと自室へ逃げ去った秋穂にため息を吐きつつ、佳乃はテレビを見た。行方不明のニュースは終わり、天気予報に切り替わっている。テレビに表示された時計を見て、佳乃が腰を上げた。夕食の準備らしい。左京はみかんの最後の一つを食べると母に倣って立ち上がった。
「母さん、俺も手伝う!」
「ありがとう。でも俊が寂しがるから遊んであげてて」
「うん」
俊は一昨日買ってもらったばかりのお絵かき帳にクレヨンで絵を描いていた。円が何個か重なったものが5つ。
「何描いてるの?」
「おとしゃと、おかしゃと、ねぇねとにぃにとしゅん!」
「かっこよく描いてくれてありがとう」
左京が俊の頭を撫でてやると、俊は嬉しそうに頬を緩めた。それからページを捲って新しい白にせっせとクレヨンを持つ手を動かし、再び円の集合体を描き始めた。
「次は何描くの?」
「てんちゃ!」
「てんちゃん?」
「てんちゃがね、どんぐりいっぱいくれたの。まるいのと、おっきいのもあるよ」
「てんちゃんって誰?」
「お鼻がぐーんって長いの!」
「……ピノキオ?」
父である喜一郎が読み聞かせてくれた外国の昔話を思い出す。しかしそれは作り話だ、実際にいるわけがない。それは左京も知っている。しかし、鼻が長くてどんぐりをくれる、てんちゃなる人物のことを、どうやら俊は気に入っているらしい。てんちゃの顔らしき円の真ん中に、細長い楕円形が描かれる。これがどうやら鼻のようだ。左京は悪い魔女のような鉤鼻を思い浮かべながら絵をぼぅ、と見つめていた。
───────
「じゃあお母さん、買い物行ってくるから、いい子に留守番しててね。誰か来てもドアを開けちゃダメよ」
「はーい」
「おかしゃ、いってらっさい」
「うん、行ってきます」
佳乃は外から鍵を施錠して家を出た。買い物に出たのだ。いつもなら左京や俊も連れて行くのだが、今日は寄るところも多く、疲れさせてしまうからと留守番となった。今日は土曜日。父である喜一郎は急な休日出勤でいない。秋穂は部活があるからと朝早くに高校へと自転車を漕いで行った。
左京と俊はおとなしく家で遊ぶことにした。
「うっへっへ~!悪い怪獣だぞ~」
「しゅんがやっつける~!」
新聞紙を細長く丸めたハリボテの剣を振り回しながら俊が左京に立ち向かう。左京は手を大きく広げて大股に歩く。怪獣ごっこを楽しんでいると、コン、と音がした。その小さな音に気づかずに遊んでいると、再びコン、コン、と音が鳴った。それでも気づかないでいるとドン、と鳴った。2人はようやく気づいて音のした方、庭に出る出入り窓の方へと近づいた。窓の外を見て、左京は後ずさりした。
庭に立っていたのは、鼻の突き出た赤い仮面を付けた大男。仮面は顔の上半分を覆い隠している。山伏の服装で、高い一本下駄を履いている。背中には黒い翼が一対生えている。喜一郎よりもだいぶ背の高い男に左京は震えた。天狗の仮面は怖く見え、その背の高さは怪物を思わせた。
「てんちゃ!」
俊は嬉しそうに声を上げ、出入り窓の解錠し、ガラッと引き戸型になった窓を開けた。驚いた左京が俊を抱き留めるよりも先に、仮面の男が俊を抱き上げた。
「幼子よ、ちと力を貸してもらおう」
「ちから?」
「しゅ……俊を離せっ!」
左京は両脇にぶら下げた手を強く握り締め、仮面の男を見上げた。怖くないぞと必死に涙を堪え、キッと睨みつけるように仮面の男に視線を向けるが、見下ろされてだんだん怖くなってきた。
「ふむ。お前も身体が小さいな。手伝ってもらおうか」
「な、何言ってるかよく分かんないけど、とにかく俊を離して!」
「幼子。あれはお前の兄弟か?」
「ん。にぃにだよ」
「兄か」
仮面の男が左京へと腕を伸ばす。左京がぎゅ、と目を瞑り身を強ばらせた。ふわりと左京の身体が浮き、慌てて目を開くと、仮面の男に抱き上げられたことが分かった。左腕に俊を、右腕に左京を抱え、仮面の男は言った。
「人の子よ。どうか我らを助けてはくれまいか」
「助ける……?」
「私の名は鴉坊。富津槻山の天狗だ」
「てんぐ?」
「幼子には分からぬか……まあ、よい。我ら山に住まう妖が解決出来ぬ困難がある。そしてお前達人の子……特に幼子にしか出来ぬことがある。力を貸してくれまいか」
「鴉坊、困ってるの?」
「ああ。困っている」
「にぃに、てんちゃ、こまってるから、おてつだいしてあげようよ」
「でも、留守番してないと……」
「終わればすぐにでもここへ送り帰そう」
「うーん…………」
左京は困惑した。困っている人を助けてあげなさい、というのが両親の口癖だった。それを忘れずにその通りに行動してきたし、それに心地良さを覚えている自覚はある。だから、この鴉坊なる天狗が困っているというのなら助けたいと思う。しかし、今は留守番をしていなくてはならない。母からの言いつけだ。
左京は迷いに迷った挙句、答えを決めた。きっと困っている人を助ける為なら、両親もちょっとの外出は許してくれるだろう。むしろ褒めてくれるかもしれない。
「うん、いいよ」
「そうか。ありがたい」
鴉坊は2人をぎゅ、と抱きかかえると、ばさりと黒翼を羽ばたかせた。ふわりと浮遊感を感じて思わず左京は目を瞑った。ばさり、ばさり、と羽の音。しばらくして俊が歓喜の声を上げるのを聞いて、おそるおそる目を開くと───
「うわあ……!」
大きなはずの家々が足のずっと下に見える。人は人形みたいに小さくて、犬や猫なんかもっと小さい。
「すごい!鴉坊、飛べるんだ!」
「天狗として当然のこと」
そう言いつつ、鴉坊の口元は弧を描いていた。鴉坊は2人を抱きかかえたまま空中を進む。目指すは富津槻山。行先向こうに大きく身構えている。ぐん、と進む鴉坊に抱かれ、左京の頬を冷たい風が撫でた。季節は12月。晴れているとはいえ、風は氷のようだ。
どれくらい飛んでいたであろうか。目的の富津槻山の中腹の道に降り立つと、鴉坊は2人を下ろした。枯れ木に落ち葉の茶色の景色をぐるぐる見回しながら、左京は鴉坊に問いかける。
「何すればいいの?」
鴉坊が口を開くと、突然ばさりと上から誰かが降りてきた。その人物も背が高く、鴉坊よりも体格が恵まれ、威圧感があった。顔の上半分は黒い仮面で隠れており、服装も鴉坊と同じだ。左京と俊は怯えて鴉坊の背後に隠れた。
「綱坊、いきなり現れるな。幼子達が怯えているだろう」
「すまねぇな。おい、坊ちゃんら。安心しな、こいつの友人みたいなもんさ」
「鴉坊の友達?」
「ああ、そうだ」
「てんちゃのおともだちも、おっきぃねぇ!」
「てんちゃ?なんだそりゃ」
「私のことだ。天狗だからてんちゃん、らしい。舌足らずでてんちゃ、になっているようだな」
「子供に好かれてんなぁ、お前は」
綱坊はしゃがみ込んで左京と俊の頭を撫でた。大きな手で乱雑に撫でられて困惑したが、なんだかちょっと嬉しかった。綱坊は立ち上がると傾斜になった道を見た。この先が緩やかな上り坂になっている。ここを進むのだろうか。
「道すがら話そう。綱坊、兄の方を抱えてやってくれ」
「おうよ」
左京は綱坊に抱き上げられ、俊は鴉坊に抱えられた。緩やかな坂を進む。
「この先の洞窟の中に祠がある。そこに入って、中にあるはずの玉を持ち帰って来てほしい」
「ぎょく?どうして?」
「祠にはこの山の神、藤蛇神様が祀られている。その昔、藤蛇神様が悪鬼を封じたのがその玉だ」
「難しい……」
「にぃに、とうだのかみってなあに?あっき?」
「藤蛇神様はヒーローだ。悪鬼は悪者だ。ヒーローである藤蛇神様が、悪者の悪鬼を封印した。その悪鬼が玉……真っ黒なビー玉に封じられている」
「ふうじ……?」
「…………悪さをしないように悪鬼を閉じ込めた」
「悪者をビー玉に閉じ込めたんだね!」
「そうだ。そのビー玉が欲しいのだ」
「どうして取ってこないの?取ってくればいいのに」
「先日の土砂崩れで洞窟が小さくなってしまったのだ。今は妖術……魔法でこれ以上の崩壊は食い止めているのだが……私達では入れぬ」
「そっか、俺達ちっちゃいから、その洞窟に入れるんだね!」
「そういうことだ」
「どうして玉?が欲しいの?」
「妖術で食い止めているとはいえ、やがて洞窟は閉じてしまう。その前に玉を安全な場所に移し、封印が解かれぬよう見守るのだ」
「難しい……」
「むずかしいねぇ、にぃに」
「……そうだな、そのビー玉を見守って、また悪者が暴れ出さないようにするんだ」
「そっかぁ!てんちゃはヒーローなんだね!」
「綱坊もヒーローなの?」
「おうよ。我ら天狗一族は藤蛇神様にお仕えする誇り高き一族なんだぜ」
「かっこいいなぁ」
左京はきらきらと目を輝かせながら言った。もう戦隊ヒーローや仮面ライダーは卒業したが、それでもヒーローだとか正義の味方だとかに憧憬を抱く年頃だ。正義の活動の一端を担うとなれば、胸の高鳴りもひとしおだ。難しい言葉ばかりだが、悪者を閉じ込めたビー玉を取ってくるという話だから、自分でも出来そうだ。
「しかし懸念点もある」
「けねんてん?」
「心配なことという意味だ。先日、女子の幼子に協力を頼んだ。その幼子……唯華と言ったか、とにかく彼女が洞窟に入ったきり出てこないのだ。何かあったのだろう。そこに幼子だけを再び送るのは気が引けるが、悪鬼の封印が解ければ、人的被害も多かろう」
「女の子が中にいるの?なんで出てこないの?」
「分からん。何かしらの問題が起きたのは明らかだ。だが、我らの図体の大きさでは助けに行くことも出来ぬ。代わりに唯華を助けてほしい。もちろん玉も持ってきてほしい」
「やることいっぱいだねぇ、にぃに」
「でも、女の子が危ないことになってるなら助けなきゃ!」
「もちろん援護しよう。ここに札が3枚あるだろう?」
鴉坊は3枚の縦長の紙札を取り出した。大人の手くらいの大きさだ。墨字で何やら崩れた文字のようなものが書いてある。が、俊はもちろん左京にも何が書いてあるのか分からない。
「さんまい、おふだあるねぇ」
「危険が迫ったらこの札を持って『破浄』と唱えるといい。そうすればこの札に込められた妖術がお前達を助けるだろう」
「はじょう、って言えばいいの?」
「そうだ」
鴉坊から手渡された札をまじまじと見つめ、それから左京はそれをくしゃっとポケットに突っ込んだ。
やがて鴉坊と綱坊が立ち止まる。左京と俊は2人の視線を追ってそれを見つけた。
小さな洞穴。そこに札が何枚か貼ってある。穴の大きさは左京でさえ四つん這いに進めば入れるくらいだ。確かに長身で体格の良い鴉坊と綱坊では入れまい。
左京と俊は下ろされて地面に足をつけると、洞窟と呼ぶには小さくなりすぎた洞穴に近づいた。
「貼ってある札は取るなよ、チビども。生き埋めになるぞ」
「いきうめ?」
「死んじゃうってことだ」
「それはぃや!」
「なら貼ってある札には触んなよ」
「はーい!」
俊が元気に返事をする一方、左京は不安に駆られていた。女の子を助けられなかったらどうしよう、玉を持って来れなかったらどうしよう、もしうっかり札を剥がしてしまったらどうしよう…………俯き、両手拳を握りしめる。足が震え出す。
「にぃに?」
俊が左京を見上げる。左京の服の裾をぎゅ、と握り、ちょいちょいと引っ張る。
「いこ、にぃに!」
「怖くないの?」
左京は俊に問いかける。声が震えている。情けない。俊が怖いと言ったら一緒に逃げてしまおうと思った。しかし、俊は丸いくりくりの目を輝かせたまま答える。
「だって、にぃにいるもん!」
左京は俊の丸い目を見つめる。きっと俊は鴉坊や綱坊のようなヒーローになれると信じてやまないのだろう。そして、それは兄である左京とともになるものだと、そう信じているのだろう。自分よりずっと小さな俊が、兄と一緒であるなら怖くないと言う。それが可愛らしくて、そんな俊を守りたくて、左京の腹の奥底から何か熱いものがこみ上げてきた。兄と一緒なら怖くない。そう、弟がいるなら兄だって怖くないし、いつもよりずっと強くなれるのだ。
「行こう、俊!」
「うん!」
左京は四つん這いになり、先に穴に入っていく。その後ろを俊が四つん這いについて行く。2mほど四つん這いで進むと、中は広い洞窟となっていた。左京と俊は立ち上がって中を進む。上に穴が何個か空いており、明かりに困ることはなさそうだ。左京は俊と手を繋ぐ。進むと、暗がりに祠が見えた。その前には女の子が蹲っている。赤の上着に黒のズボン、赤のニット帽。行方不明になっている唯華ちゃんという子の特徴と一致している。距離は離れていたが、左京はおそるおそる声をかけた。
「あの……唯華、ちゃん……かな?」
蹲っていた女の子は顔を上げて、それからビクリと肩を跳ねさせた。左京は怖がっているのだろうと出来るだけ優しい声を努めた。
「大丈夫、助けにき───」
「危ないっ!後ろ!」
女の子が叫んだ。左京は反射的に俊を押しのけて庇った。ひたりと左京の首元に冷たい手のようなものが絡みついた。
「にぃに!」
「来るなよ、童ども」
左京の後ろで、しわがれた声が耳を不快に撫であげた。しわしわで、ちっとも優しさなんてない声。左京は怖くなって両側にぶら下げた手のひらをぎゅ、と握りしめた。
「ひっひっひ……童が3人……食い扶持には困らなそうだ」
しゃがれた声の正体は分からない。しかし泣きそうにしゃくりをあげている俊を前に弱音は吐けなかった。左京は声を上げた。
「お前はなんなんだ!?」
「俺は餓鬼。そこに封印されている悪鬼、百目鬼様の下僕さ」
「どうめき……?そいつが悪者なんだな!じゃあ、お前も悪者か!」
「人聞きの悪い。俺達は腹が減るから人間を食うのさ」
「人間を、食べる……!?」
「そうさ。そこの女の童を食おうと思ったんだが、もっと恐怖に怯える姿を見てからのお楽しみにしようと思ってな……ひっひっひ……」
「ひどい……!」
左京は後ろにいるはずの餓鬼に怒りを燃やした。人を食べるだなんて。しかも怖がらせてから食べるだなんて。恐怖は正義感と怒りに塗り替えられていく。左京は拳を握りしめたまま口を開いた。
「俺はお前なんか怖くないぞ!お前なんてやっつけてやる!」
「やれるものならやってみろ、童如きが!」
絡みついた細くて冷たい指が左京の首に食い込む。左京は思わずその指を掴んだ。両手でその手指を剥がそうにも力では敵わない。次第に息が苦しくなっていく。
「にぃにをはなして!」
俊が駆け寄って餓鬼を殴った。しかし3歳児の力では痛くも痒くもないのだろう、餓鬼は空いている手で俊を突き飛ばした。俊は尻もちをついて、一瞬の間の後、大きくしゃくりをあげた。
「うっ……う、うわあああああん!いたいよぉ!おとしゃぁ、おかしゃぁ!」
「しゅ……ん……っ」
左京は頭がぼぅ、としながらも、必死に策を練った。どうすれば2人を助けられる?この状況を打破出来る?
『危険が迫ったらこの札を持って『破浄』と唱えるといい。そうすればこの札に込められた妖術がお前達を助けるだろう』
鴉坊の言葉が反芻された。
そうだ、札だ、札を───
左京はポケットから札を取り出した。何枚持っているかは分からないが、とりあえず掴めた。
「は……っ、破浄っ!」
札をポケットから取り出すと、叫ぶように唱えた。札がめらりと燃えた。左京にはその炎の熱を感じなかったが、餓鬼はその炎に触れるなり、ぎゃあと叫んだ。
「ああああ!熱い!熱いぃぃぃ!!」
餓鬼の手指が左京から離れた。左京は札を握りしめたまま倒れ込み、げほげほと咳き込んだ。俊が泣いている。左京は俊に駆け寄って頭を撫でた。
「俊、大丈夫。にぃにがいるよ。痛くない、痛くない」
「うっ、ぐ……っ、ひっく……」
「痛いの痛いの飛んでけー!」
「ん……っ、うん……いだぐない……っ」
「いい子だ、俊。強い子だね」
泣き止もうとする俊を抱きしめ、頭を撫でながら、振り返る。ようやく見えた餓鬼の姿に息を呑んだ。細く骨ばった四肢。腹はどっぷりと丸く出ていて、頭からは角が生えている。飢え干からびた老人のような姿だ。
左京は逃がれるように女の子の方を向いた。女の子は怯えている。左京は女の子を鼓舞するように明るい声を出した。
「一緒に逃げよう!」
「で、でも……っ」
「大丈夫!俺が餓鬼をやっつけるから!」
「う……」
「早く!」
「……うん!」
女の子が立ち上がって左京と俊に駆け寄った。3人で洞窟の入口まで走る。餓鬼が追いかけてくると、左京は持つ燃える札のうち1枚をくしゃくしゃに丸めて餓鬼へ投げた。餓鬼の胸の辺りに当たり、餓鬼はその場に蹲った。
「ぎゃああ!熱い!よくも、童!!」
あの狭い穴にたどり着いた。俊、女の子、左京の順で外へ出ようと四つん這いで進む。俊と女の子が穴から抜け出し、自分もあともう少し、と手を伸ばした左京。その脚を、冷たく骨ばった指が掴む。左京は持っていた2枚の札を掴まれた脚へと近づけて投げた。手がパッと離れ、餓鬼の悲鳴が聞こえた。左京は急いで穴から抜け出す。
「よくぞ戻ってきた、幼子の兄よ」
「鴉坊、綱坊、中に、がきがいる!どうめきっていう悪者の仲間!」
左京は先に鴉坊達に抱きついていた俊と唯華に倣って抱きつくと、洞穴の方を指さした。鴉坊と綱坊は顔を見合せ、鋭い視線を洞穴へ向けた。餓鬼はでっぷりと出た腹を入口に詰まらせ、じたばたと暴れている。
「童ども!殺してやる!今すぐに頭から食い殺してやる!」
「綱坊」
「おうよ」
綱坊は餓鬼の方へ近寄ると、何やら唱えた。
「見てはいけない」
鴉坊は翼で俊と唯華の顔を覆い、手で左京の目を隠した。おぞましい悲鳴が聞こえる。何が起こったのか、怖くて聞けない。ただ、何かを焼いたような焦げ臭いにおいだけが、鼻をつんと突き上げた。鴉坊が翼と手をどけると、餓鬼はいなくなっていた。代わりに転がっていた黒い玉を拾うと、綱坊はニカッと笑った。
「よし、玉もチビどもも無事だな」
「よく頑張ってくれた、3人とも。感謝する」
「かんしゃする、じゃないよ、てんちゃ。ありがと、っていうんだよ」
「はは、そうだな。ありがとう」
鴉坊はしゃがみ込み、左京達に目線の高さを合わせたうえで、3人の頭を順に撫でた。俊は嬉しそうに目を細めて頬をふくふくとさせている。左京も嬉しくなって、笑みを零した。その隣の唯華も笑顔でいる。綱坊はその様子を眺め、それから空を見上げた。
「おい、鴉坊。こりゃ一雨きそうだ。早めに送り届けた方がいいんじゃねぇか?」
「そうだな。綱坊は唯華を頼む。私は兄弟を送り届けよう」
「おう」
綱坊は唯華を抱き上げた。唯華はわぁっと歓喜の声を上げた。7歳とはいえ、たかいたかいのようで楽しいのだろう。自分のいつもの視界よりもずっと高く広くなり、子供心が湧き上がってくるようだ。
「てんちゃ、しゅんもだっこー!」
「そうだな。そら、兄も来るといい」
左京と俊は鴉坊に抱き上げられて唯華の方を見た。怖がっている様子はない。もう大丈夫そうだ。
ふわりと視界が更に高くなる。鴉坊と綱坊が飛び上がったのだ。左京と俊は、綱坊と唯華に手を振った。お別れなのに、不思議と寂しくなかった。
ふわり、ふわりと視界は飛んで、行きのように家が足の下に見える。やっぱり人が小さく見える。足をぱたぱたと振ってみる。でもやっぱり靴が脱げそうなのでやめた。
やがて左京達の家に着くと2人は地面に降ろされ、久しぶりの地面の感触に、何度か地面を踏み直してみた。足踏みしていると、鴉坊の手が、そっと左京と俊の頭に触れた。足踏みをやめて左京と俊が顔を上げようとすると、なんだか頭がぼぅ、としてきた。顔を上げたいのに、上げ方が分からなくなってきた。
「幼子達よ。妖がこの世にいるとなれば、人間達は混乱してしまう。故に此度のことは泡沫の夢が如く忘れるが吉だろう」
その言葉のひとつひとつが、水面の波紋のように浮かんでは消えていく。呆然とした頭では理解出来ず、理解出来ぬままにその言葉が身体に溶け込んでいくのを感じた。
鴉坊が何か唱えた。
左京と俊の意識は緩やかに落ちていき、脱力した身体を鴉坊が支えた。鴉坊は2人を抱え、鍵の開いている大窓から家の中に入れてやると、静かに飛び立って行った。
───────
『行方不明だった土井唯華ちゃん7歳が自宅の縁側で発見されました。行方不明時の記憶が無いとのことですが、命に別条はないそうです』
「よかったわね、見つかって。でも、どこで何をしていたのかしら?」
佳乃が紅茶を飲みながら呟いた。左京と俊はおやつのクッキーに夢中だ。左京はちらりとテレビ画面を見る。写真の女の子はどこかで見たことがあるような、ないような……分からないのでクッキーと一緒に違和感を呑み込んだ。
───────
その日左京は夢を見た。
悪い怪獣から女の子を助ける夢だ。
俊とお供の鼻の長い象2頭と一緒だったのが不思議だったが、見事怪獣をやっつけた。女の子の顔が笑顔でほっとしたのを覚えている。
「ありがとう」
真っ白な蛇にお礼を言われた。
心が温かくなった。
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