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第二章
第六話 疑心、暗鬼を生ず
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<Cチーム・遥視点>
次々に種目が終わり、結果に一喜一憂する生徒や、そもそも体育祭に興味がなく友人同士で談笑している生徒など、それぞれが思い思いにこのイベントを楽しんでいた。
皆から少し離れた位置でその様子を眺めていると、次の種目の開始アナウンスが聞こえてきた。
「大玉転がし、または玉入れに参加する選手は、集合してください……」
そろそろ、大玉転がしが始まる時間だ。俺は少しだけ席を移動させ、競技が見やすい位置についた。
この巨大パラソルがあるとはいえ、、むやみに立ち歩くと女生徒と接触する恐れがある。だから、担当種目まで大人しく自席にいるつもりだった。
……という話を彼方にしてしまったせいで、彼方は生徒会メンバーを何とか言いくるめ、Cチームテントからよく見える位置で大玉転がしを行うことにさせたらしい。
生徒会にそんな権限はないだろうと高を括っていたのだが……。もしかしたら彼方の目論見は、理に適っていたのかもしれない。
いつか、「生徒会のコネで俺を優遇させる」という我儘が通ってしまわないことを祈るばかりだ。
しばらくすると、大玉転がしの選手たちが入場してきた。
橙色の大きな玉の前に、彼方を含めて5~6人の生徒が集まっている……んん?
……彼方が、隣にいる大きなツインテールの女生徒と何かを言い合っている。
「遥君。僕には、妹君が誰かと言い争っているように見えるのだが、これは見間違いかな?」
隣にいた冬美が不思議そうに尋ねてきた。
「い、いやっ!きっと鼓舞しているだけだ!そう思わせてくれ……っ!」
彼方は昔から頑固で、小学生の頃はクラスメイトとよく口喧嘩をしていた。
最近になってから……特に、俺が女性恐怖症になってからは、人とのトラブルは極端に減っていた。
だが、それはあくまでトラブルにまで発展してないというだけで、彼方の根っこの部分は変わっていないのかもしれない。
「……なあ、神野くん。クラスでの彼方ってどんな感じなのか教えてくれるか?」
ふと気になって、彼方のクラスメイトである神野くんに尋ねる。
神野くんは非常に面倒そうな顔をしながら、目線を合わせずに口を開いた。
「……武道さんは、気に入らないことがあれば、しょっちゅう口答えしてるスね。生徒とか先生とか関係なく」
「やっぱりそうなのか……」
がっくしと肩を落とす俺を見かねたのか、神野くんは慌てて言葉を付け足す。
「で、でも、自己都合で文句を言うことは少ないスね。大抵は人やクラスのために言ってくれてるんで、感謝してる奴もいると思います」
……そういえば、この前も彼方が、クラスであまりに酷いイジりかたをする生徒に物申したと聞いた。誇らしく思う反面、それが新たなトラブルの火種にならないかが心配だ。
「そうだ。ちなみに、桃はクラスではどんな様子なんだ?」
俺は少し興味を持って尋ねた。
「っ!あ、麻平さんは、いつも明るくて、誰に対しても……俺みたいな奴にも愛想良くて、細かいところにも気を配ってますね!
でも、人間関係のことで考え過ぎることも多いみたいで、よく相談に乗っては頭を悩ませている様子を見かけることもあって……」
神野くんは、まるで別人のように嬉しそうな表情で俺の顔を見ながら、大きな声で語り始めた。
こんなに生き生きとした彼を見るのは初めてだ。普段の彼からは考えられないような、明るい表情が浮かんでいる。珍しいこともあるものだなと、少し驚いた。
「へぇ。桃のこと、よく見てるんだな」
俺は素直に感心して、正直にそう言った。
「ハッ……! い、いや、別に、そんなんじゃないッス。クラスのムードメーカーなんで、自然と目に入るっていうか」
神野くんは急にトーンを落とし、しどろもどろになりながら言葉を濁していく。
「というか、麻平さんのことならアンタの方がよく知ってるだろ。いっつも一緒にいて、麻平さんの自由な時間を……」
しまった、という顔をした神野くんは、気まずそうに俺の顔を見た。
「……いや、すんません。何でもないッス」
逃げるようにどこかへ行ってしまった神野くんを目で追っていると、冬美が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「遥君。私の愚弟が失礼なことを言ったようで申し訳ない。私からしっかり注意しておくよ」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。普通の人ならああいうイメージを抱くだろうし……神野くんの意見はごもっともだ」
俺は気にしていない素振りで答えるが、その一言には少し自嘲も混じっていた。
すると、冬美は俺の手をそっと握った。彼の手は温かく、優しい感触が伝わってくる。
「そこまで自分を非難する必要はないよ。マイナスな言葉は、知らない間に大きな傷になっていくものだ。
それに、彼女だって何も義務感で君と一緒にいるわけではないだろう。……彼女のことだ。もし本当に不満を感じているのなら、素直に君に伝えているさ」
冬美は俺の目を見つめ、静かにそう言った。彼女の瞳には、心配と優しさが滲んでいる。
「……冬美は優しいな」
俺は少し照れくさそうに答えたが、その優しさにどこか救われた気持ちもあった。
「ほら、大玉転がしが始まるぞ」
俺は視線を競技場に戻し、話題を切り替えるように声を上げた。ちょうどそのタイミングで、選手たちが大きな玉を一斉に押し始めるのが見えた。
「今は、体育祭を心から楽しもう」そう自分に言い聞かせながら、桃への感情を一度押し込める。
そして、遠くで真剣な表情を浮かべる彼方の姿に目を向けた。
+++
<Bチーム・彼方視点>
「大玉転がし、または玉入れに参加する選手は、集合してください……」
アナウンスの声が響き、作業の手を止めた。
今までの競技結果をまとめる作業を体育委員に任せ、私の担当種目である大玉転がしの準備場所へ急ぐ。
……お兄ちゃんにかっこいいところを見てもらうために、絶対に一位にならなくちゃ!
大玉転がしは、お兄ちゃんが所属するCチーム近くで行われる。……いや、私がそうなるように仕向けた。
うまく生徒会メンバーを言いくるめ、競技の開催エリアを指定するのには、かなり骨が折れた。
最難関は柚子先輩だった。どんなにそれらしい理由を言っても一蹴されてしまい、何度も頭を悩ませた。
しかし、無花果会長の、「彼方さんの意思に沿いましょう」という一声で、私の意見はすんなり可決された。
無花果会長も意地が悪い。あの人は、自分がそう言えば場が収まると知りながら、私の多種多様な言い訳を楽しんで、ずっと黙っていたのだ。
Bチームが運ぶ予定の橙色の大玉の近くには、同じBチームのメンバーが既に揃っていた。
顔見知りの人は……ほぼいない。でも、「お互い頑張りましょうね」と言い合いながら、和気あいあいとしていた。
「か、彼方ちゃん。遅かったね」
大玉転がしのメンバーの中で、唯一顔見知りの女生徒が話しかけてきた。
「そうだね」
薄墨色の大きなツインテールを揺らしている彼女は、私と同じ生徒会庶務で、同じ学年で、同じクラス。名前は東洋梨愛。
生徒会に入る前、一年生の募集メンバーは二人で、二人一組で動けるように同じクラスの生徒を選ぶと聞かされていた。
その時私は、"自分と合わない性格の人だったら嫌だな"と思っていたが……その嫌な想像は的中した。
東洋梨愛は一言で言えば天然ボケで、空気が読めない言動はもちろん、そのせいでいつも誰かしらを振り回している。
私もその被害をよく受けているが、持ち前の愛嬌で、周りの人からは「仕方のない奴だ」と甘やかされている。
たちが悪いのは、本人には全く裏や思惑がないこと。それから、最終的には良い結果になることが多いこと。
あの明るさと無邪気さ、純真無垢な感じが……あの頃の私を見ているみたいで、嫌になる。
八つ当たりなのはわかっているが、どうにもこの感情は抑えられなかった。
「ね、ねぇ彼方ちゃん! あそこにおっきな傘があるよ! 何だろうね?」
Cチームのテントから少し離れた場所に、派手なパラソルの下で誰かと話しているお兄ちゃんの姿が見えた。
東洋梨愛は、私との距離感を測りかねているようで、必死に会話を続けようとしている。
その様子を見て申し訳ないと思いつつも、彼女の無邪気さに絆されないよう、ドライな態度を崩さないよう努めた。
「アレ、私のお兄ちゃん」
「えっ! あの人がお兄さんなんだ!」
東洋さんは驚いた表情を見せ、一瞬言葉を失った後、慌てて続けた。
「え、えっと……よく、桃ちゃんと一緒にいるところを見かけるよ!」
「そう」
一言だけ呟き、私は軽くストレッチを始める。
「そ、それにしても彼方ちゃん、生徒会活動がないときは、いつもお兄ちゃんにべったりだよね!仲が良くて、羨ましいなあ」
東洋さんはさらに慌てて会話を続ける。私は距離を取ろうと壁を作っているのに、彼女はいつもその壁を突き破ろうとしてくる。
「……東洋さんだって、梨仁先輩と仲が良いでしょ。それに……お兄ちゃんには、私がいなきゃダメだから。私が一緒にいてあげなくちゃいけないの」
「……その言い方、良くないと思う」
いつにない強い言い回しに、私はぎょっとして彼女の顔を見る。
東洋さんの顔からぎこちない笑顔が消え、どこか悲しそうにしていた。
すると東洋さんは、「握ってもいい?」と一言発したかと思うと、私の返事を待たずに、両手を優しく握ってきた。
「……ごめん。私、彼方ちゃんのこともお兄さんのこともよく知らない。でも、その考え方は危ないと思う……」
「別に、東洋さんには関係ないでしょ。放っておいて」
「あっ!そうだ!学校内でサポートできる人を増やすとか、どうかな? 私も協力するよ!」
彼女のその純粋な気持ち自体はありがたい。暖かな手も相まって、つい心が緩みそうになる。
だが、すぐにその思いを打ち消す。……そんなこと、わざわざ言われなくてもとっくにわかっている。
私たち家族は、あの事件以来、様々なアイデアを何度も考えて、何度も実行してきた
赤の他人が思いつくようなアイデアなんて、所詮たかが知れているし、すでに試したものばかりだ。
それに、いくら東洋さんが協力を申し出たとしても、簡単にできることではないし、何よりお兄ちゃんを他人の実験台にするわけにはいかない。
「友達にそういう子がいて……その子、病んじゃったんだ。だから、心配だよ……」
ただのクラスメイト同士なのに、なぜ彼女がそこまで私のことを心配するのか、私にはまったくわからなかった。
私はそんなことで心を病んだりなんかしない。
どうしてものときは、桃や両親がいるし、何の不都合もない。
私は無言で、東洋さんの手をそっと引き剥がす。
「私のことはどうでもいい。お兄ちゃんが普通に過ごせるようになれば、それでいいの!……もう、この話はおしまい」
苛立ちが募ってしまい、つい語気を強めてしまった。
深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせる。自分の都合でトラブルを起し、またお兄ちゃんに迷惑をかけたくない。
「で、でも……」
東洋さんは驚いた顔で私を見つめ、言葉を失っていた。彼女に変に誤魔化すと、きっとまたしつこく聞いてくるだろう。
そう思い、私は詳細は伏せながらも、正直に答えることにした。
「……私のせいだから」
「え?」
「お兄ちゃんが不自由になったのは、私のせいだから」
梨愛の目が大きく見開かれ、言葉を探そうとする。
「それって、どういう……」彼女が続きを聞こうとしたその瞬間、
パン。
突然、ピストルの合図が耳を劈き、私は反射的に大玉へと手を伸ばした。
「いーち! にー! いーち! にー!」
周りのメンバーは、予め決めていた掛け声に合わせて大玉を押し始めた。私もその掛け声に合わせ、大玉に力を込める。
自分への苛立ちと東洋さんへの怒りを大玉にぶつけるように、全力で押し進めた。
大きな声を出しながら、大玉を転がし、感情を発散させる。
東洋さんの視線が突き刺さるように感じるが、今はただひたすら、前に進むことだけに集中した。
その後、ゴールに着くまで……いや、着いてからも、謎の苛立ちは収まらなかった。
結局大玉転がしは、見事、一位を飾ることができた。
お兄ちゃんに良い所を見せることができたのは嬉しいけど、その原動力となったのが東洋さんの言葉という、私としてはなんとも複雑な結果で幕を閉じた。
「一位獲れてよかった~!」
「あなたのおかげだよ!」
「頼もしかったよ!」
大玉転がしのメンバーは結果を聞いて大喜びし、感謝の言葉をかけてくれる。
でも、私のあのパワーは、東洋さんの言動によるものだ。だから、私は少し考えて、
「この結果は、こちらの方のおかげですよ」
と皮肉を言って東洋さんを指差したあと、早々にBチームのテントに戻った。
本来であれば、Bチームのテントに戻って結果を報告するのは東洋さんの仕事だった。でも、私は勝手にその役割を請け負った。
自分に向けられる称賛の言葉に慣れていないし、東洋さんと顔を合わせるのも気まずかった。一刻も早くその場を離れたかったのだ。
すると、テントに戻った途端、黒い物体がゆらりと近づいて来るのが見えた。
「彼方ちゃ~ん……一位おめでとう~……!ずーっと見てたよ~……」
……やっぱり、報告は東洋さんに任せておくべきだったかもしれない。
由依先輩は不気味な笑顔で私を迎え入れた後、ペタペタと私の身体を触ってきた。
「あの、由依先輩。そんなに触られても、お兄ちゃんのことは何も言いませんよ」
「え~?でも、さっき梨愛ちゃんには何か言ってたよね~?何で私は駄目で、梨愛ちゃんはいいの~……?」
ぐっ、痛い所を突かれた。今思えば、何で東洋さんにあんなこと言っちゃったんだろう。
なんだか彼女と会話していると、不思議と本心が漏れ出てしまいそうになる。
きっと、彼女には老若男女問わず惹きつける、魅了のような不思議な力があるのだろう。そうだ、そうに違いない。
そう考えていると、急に由依先輩が私の身体から手を引いた。
驚いて目をやると、背後に津島先輩が立っていた。そして、由依先輩の顔をじっと見つめている。
「ひ、ひぃっ……!し、知らない人に睨まれた~……っ!」
由依先輩はまたしても、心底怯えた表情でどこかへ消えてしまった。
「あ、ありがとうございます。津島先輩」
津島先輩は私の言葉を聞くと、キッとした表情を和らげ、「気にしないで」と微笑む。
強くてカッコよくて美人。まさに、私の理想としている大人の女性という印象だ。
「中盤からだけど、私も見てたわ。すごい迫力だった」
「あ、見てたんですね……!は、恥ずかしいです」
「ふふ。武道……お兄さんが近くで見ていたようだし、その影響が大きいのかしら」
津島先輩の発言は間違いではないので、そのまま話を流そうとした。
でも、私はさっきあったことを誰かに話して発散したくなった。
「いえ。実は始まる前、クラスメイトの……同じ生徒会庶務の子に、少し気になることを言われて……それで自棄になってただけなんです」
「あ。もしかして、あのツインテールの子?」
その言葉を聞いて私は驚き、目を丸くして津島先輩の顔を見た。
「あれ?津島先輩、東洋さんのこと知っているんですか?」
大玉転がしは中盤から見ていたと言っていたので、開始前の言い合いを見ていたとは思えない。
それに、生徒会庶務は公に出ることは少ないし、ましてや入ってきたばかりの一年生だ。知らない先輩の方が多いと思うけど……。
私が首を傾げていると、津島先輩は明らかに慌てた様子で弁明した。
「あっ、い、いや。二人の様子を見て、なんとなくそうなんじゃないかって思っただけよ」
「そ、そうですか?……とにかくその子、私に対して見当違いな心配をしてて。それで勢い余って、言う必要ないことを正直に暴露しちゃったんです。
私以外にもクラスメイトや……先生たちでさえ、彼女に気を許して正直なことを言う人が多いみたいで……」
「ふ~ん。なるほどね。だから、あんなにたくさんいたんだ」
「ん?いたって、誰がですか?」
「いや、なんでもないよ。……言ったことは覆らないし、後悔しても仕方ないわ。それよりも、今後その子とどう折り合いをつけるかを考えた方がいいんじゃない?」
「……それもそうですね!なんだか、話したら少しスッキリしました。ありがとうございます!」
津島先輩はクールに微笑んで、「私はなにもしてないわよ」と呟いた。
……お兄ちゃんからは、津島先輩はサバサバした性格で、積極的に人と関わろうとはせず、一匹狼のような存在だと聞いていた。
でも、その割には勉強会のときに顔を出してくれたり、今も、私の愚痴を優しく受け止めてくれている。
こんなに優しいのに、なんで人と深く関わろうとはしないんだろう。
……もしかしたら、東洋さんも私に対して、「なんで壁を作っているんだろう」って思ってるのかな。
まあ、私は津島先輩とは違って、彼女に優しく接しているつもりはないけど。
「あ、あの。津島さん……だっけ?ちょっといいかな?」
突然、知らない男子生徒が話しかけてきた。
「何の用?」
「え、えっと、結論から言うんだけど……二人三脚、古市くんと出場してくれないかな?」
「ハァ!?なっ、なな、なんで!?ら、蘭は!?……よ、よりによって、なんで古市なの?!」
津島先輩の動揺した様子に、私は思わず目を丸くする。そういえば、先輩の担当種目は二人三脚だっけ。
「それが、栗門部さん、玉入れの玉を運悪く踏ん付けて怪我しちゃったんだ。
君と近しい身長の生徒はほとんど出払っていて、残った生徒の中だと……このチームでは古市くんしかいなくて」
「だ、だからって別に古市じゃなくても……そうよ!普通に出場停止にして不戦敗にすれば……」
「……あの、どうしてそんなに古市先輩が嫌なんですか?」
私は思わず、津島先輩に問いかけてしまった。彼女の様子が普段と違いすぎて、純粋に気になったのだ。
「べ、別に嫌とかじゃないわ。ただ……あいつとは相性が悪いのよ」
先ほどまでの熱のこもった態度を落とし、徐々に冷静な態度に戻っていく津島先輩。
男子生徒は申し訳なさそうに再び口を開く。
「そうだよね。無理言ってごめんね。じゃあ僕、生徒会メンバーに頼んで、出場を取り消してもらってくるよ」
「あ!あの、私、生徒会庶務なので、私が行ってきますよ」
「あ、本当?じゃあ、お願いして……」
「ま……待って!」
津島先輩は顔を真っ赤にしながら私の腕を掴み、体育祭の事務局がある場所へ向かおうとした私を静止した。
「ごめん。やっぱり、出場するわ」
「え?そんな、別に無理しなくても……」
「大丈夫、無理はしてないわ。……悪いけど、古市に伝えに行ってもらえる?私の足を引っ張るような真似はやめてよねって」
先輩の強気な言葉に、男子生徒は驚いたような顔をしたあと頷き、慌てて古市先輩の元へ向かって行った。
「……そう……むしろこれはチャンスよ心菜……これをきっかけに……前みたいに……ぶつぶつ」
私は津島先輩に何か声を掛けようとしたが、掴んだ私の腕をぎゅっと握りしめながら独り言を呟き、一人の世界に入り込んでいた。
さっき愚痴を聞いてもらった以上、その腕を振り払うことはできず……私はただただ、その独り言を聞きながら、その言葉の意図を想像したのだった。
+++
<Cチーム・遥視点>
彼方の勝利を見届けた後、俺は担当種目である徒競走のエリアに移動していた。
既に何名かのチームが競争を終えており、競技場は賑やかな雰囲気に包まれている。
俺は、少しだけ緊張していた。レースに向けて気を引き締め、ストレッチを始めようとした。その時だった。
「こんにちは!まさか、あなたと同じ組になるとは思いませんでした!」
その声に驚き、思わず隣を見た。薄墨色の髪をした男子生徒が、にっこりと俺をいる方を向いている。
……知らない人だったし、心当たりもない。俺は一度反対のレーンの生徒を見たが、その生徒は何の反応もしていなかった。
「え?もしかして、俺に対して言ってます?」
「はい、あなたに話しかけています。……あ、知ってるとは思いますが、同じ学年なのでタメ口でいいですよ」
「はあ……」
馴れ馴れしく話しかけてくる彼を怪訝に思いながら、気にせずストレッチを始めた。
すると、彼は入念に周囲を見渡したあと、俺に耳打ちしてきた。
「あの。いい機会なので伝えておきますが、生徒会メンバーの三年生には気を付けたほうがいいですよ」
「は……?なんで?」
「僕にも彼女らの思惑はわかりません。しかし、武道遥さんのことをターゲットにしているのは事実です」
その言葉を聞いても、まだよく理解できなかった。俺がターゲット? 何の話だ?
しかも、どうしてこいつがそんなことを俺に伝えてくるのかもわからない。
だが、彼の顔は真剣そのもので、あまり冗談で言っている感じではなかった。
「抽象的な表現をして申し訳ない。本人たちから口止めをされていまして。誰かに言うのは勝手ですが、僕からの情報であることはオフレコでお願いしますよ」
俺は軽く頷き、口をつぐんだ。とりあえず、頭の片隅には入れておこう。
だが、それにしても意味不明だ。初対面なはずなのに、彼はまるで俺とは既に友達であるかのように気さくに話しかけてくる。
生徒会メンバーのことなら、彼方か……冬美に聞けば、何かわかるかもしれない。
体育祭が終わったら、聞いてみることにしよう。
「位置について!」
その声が響くと同時に、周囲の生徒たちがスタートラインに並び、緊張感が高まる。俺も気を引き締め、足元を確認する。
「よーい、ドン!」
だが、隣の彼の発言に気を取られていたせいか、スタートの合図に遅れて反応してしまう。
最初の一歩で、他の生徒たちが先に出ていった。遅れを取り戻さなければ、と焦る気持ちが強くなる。
「くっ!」
俺は気合を入れて足を前に出す。周りの男子たちと並んで走るが、息が上がり始め、なかなか思うように体が動かない。
全身が重く感じる中、力を振り絞って走り続ける。
無意識のうちに、競争に熱くなっていたのだろうか。追い抜かれるわけにはいかないという気持ちが、俺の身体を強くさせた。
残りわずかの距離、足がもつれそうになりながらも、なんとかスピードを維持し、ゴールを見据えて踏み込む。
隣の男子が少し遅れているのがわかり、最後の一歩でその差を詰め、ギリギリでゴールラインを越えた。
息が切れ、心臓がドキドキしているが、振り返ると、周りの男子生徒が次々とゴールインしているのが見えた。
その瞬間、やっとレースが終わったことを実感し、安堵のため息が漏れた。
「ハァ……ハァ……さすが、僕の大親友ですね!」
「はい?あの、俺たち初対面だよな?親友って……」
俺がそう言うと、彼はきょとんとした顔をする。
そして、予めゴール地点に置いていたであろう、黒縁眼鏡を装着しながら、こう言った。
「あ~……"今"はそうでしたね。失礼しました。ですが、いずれ……僕とあなたは親友同士になりますよ」
「?あの、何を言っているのかさっぱりわからないんだが。せめて、名前だけでも……」
「名前?それはもちろん、東洋……あっ!もう作業に戻らなくては!
では、これにて失礼致します!くれぐれも、さっき言ったことは僕からの情報だと言わないでくださいよー?!」
そう言いながら、彼は駆け足で生徒会テントへと向かっていった。
俺は底知れぬ恐怖を感じ、思わずその場に立ち尽くしてしまった。
東洋……彼についても、彼方や冬美に聞けば、何かわかるだろうのだろうか。
せっかく一位を獲ったのに、それを喜ぶ暇もなく。
俺は悶々とした状態で、Cチームへのテントがある方へと向かった。
+++
Cチームのテントに戻る途中、二人三脚のエリアを通りかかった。
なにやらトラブルがあったようで、競技はまだ開始されていなかった。せっかくなので、俺は人通りが少ない場所から様子を伺うことにした。
Cチームからは神野兄弟が二人三脚を担当しており、一位は間違いないと評判だった。周りのチームの一部からは、兄弟がやるのは卑怯だという声もあったそうだが。
そういえば、二年一組からも誰か出場することになっていたな。確か……津島さんと、津島さんと同じ図書委員の子が参加するはずだ。
「つ、津島さん。もっと私に近寄っていただかないと、うまく走れないですよ」
「……わかってる」
その声で、俺は津島さんを見つけた。しかし、片足を結んで隣にいるのは、なんと古市だった。……図書委員の子はどうしたんだろうか。
古市は大きな声で掛け声を出しながら、津島さんとテンポを合わせようとしている。
しかし、津島さんがぎこちない様子で、なるべく古市と触れないように必死になっているのがわかる。
「津島さん……私のことが嫌いなのはわかりますが、しっかり息を合わせないと、あなたが怪我をしてしまいます」
「べ、別に、アンタのことが嫌いなわけじゃないわよ!」
「嫌いでないのであれば、私の肩を掴んで、密着してください」
津島さんは黙り込んで動かなくなった。それを見かねた古市が、「失礼」と言いながら津島さんの腰に手を当て、距離を近づけようとする。
「……!」
津島さんの顔が見る見るうちに真っ赤になり、口をパクパクと動かす。その表情は今まで見たことがなかった。古市の言葉に反応できず、焦りが見て取れる。
「……そうだ。アイツを利用すれば……」
すると、津島さんは何かに気づいたように顔をあげ、突然虚空を見つめ始めた。
その瞬間、何かが変わったのか、津島さんの表情が冷静さを取り戻した。
「つ、津島さん?大丈夫ですか?」
「………………うん」
それからは、古市からの問いかけにもしっかり受け答えし、身体を密着させながら息を合わせて走る練習を行っていた。
明らかに何かが切り替わったような、落ち着いた様子が見て取れた。
そして、いよいよ二人三脚が開始される時間になった。
「やあ、心菜君。雷君。いくら顔見知りの君たちとはいえ、手加減はしないよ」
「神野さん、勉強会ではお世話になりました。即席のチームですが、兄弟の仲に負けないよう努めます」
「ほう?それは楽しみだ。ところで……心菜君は大丈夫かい?先ほどからどこか生気がないような印象を受けるのだが……」
「………………へいき」
「なんとか反応はするので、大事ではないとは思うのですが……心ここにあらずといった感じで、私も戸惑っています」
冬美の隣で嫌そうな顔をしていた神野くんも、心菜の様子を気にして、少し不安げな表情を見せたような気がした。
「位置について!」
その言葉で、神野兄弟と古市&津島さんペアはスタートラインに立つ。
津島さんはしっかりした足取りで、だが呆然とした様子で古市にくっついていた。
「よーい、ドン!」
先生による掛け声と、空に広がるピストルの音が鳴るや否や、全員が一斉に駆けだした。
誰よりも早く他の生徒と差をつけたのは神野兄弟で、さすがの連携で先行する。しかし、古市&津島さんペアもそれに食らいつき、追い上げる。
津島さんは変わらず虚空を見つめ続けているものの、古市による掛け声にしっかり適応し、テンポを合わせる。
ゴールが目前の状況で、神野兄弟と古市&津島さんペアが並び、誰もがその接戦に息を呑んだ。
そして……最後の一歩で、神野兄弟を抜き去った。
観客の歓声が上がり、古市&津島さんペアが見事に一位を獲得した。
「や……や、やりましたね!一位ですよ、津島さん!」
嬉しさのあまり、古市が大きな手で津島さんの小さな手を覆うように握る。
「……えっ?」
その瞬間、津島さんの表情が一変した。先ほどまでの生気がない表情が消え去ったようだ。しかし、現在の状況を理解できていないようで、戸惑っている。
そして、古市に握られている手と、虚空を交互に見つめたかと思うと……顔色が真っ青になっていき、言葉にならない言葉を発している。
「……………………おえ」
津島さんはそのまま意識を失い、ふらりと倒れ込んだ。
「!?つ、津島さん!しっかり!」
その場の空気が一変した。周囲の生徒たちは呆然と立ち尽くし、何が起きたのか理解しきれずにいる。
誰もが動けずにいたが、古市だけが素早く反応し、津島さんの身体を抱きかかえて、お姫様だっこの要領で救護テントへと駆け出していった。
津島さんの心配が募り、考えるよりも先に身体が動き出しそうになったが……すぐに、テント内や道中で女性と接触する危険性を思い出し、足を止めた。
立ち尽くしたまま、ただ見守るしかできない自分に苛立ちを覚える。
その後すぐ、同じく二人三脚の様子を見ていたと思われる桃が、古市の後を追うのを目にした。
それを見て、ようやく気持ちを落ち着けることができた。
今の自分には、何もできないことを再認識し、ここは桃に任せるべきだと自分に言い聞かせる。
女性恐怖症というだけで行動が制限される自分の無力さに、嫌悪感が胸の中で膨らんでいくのを感じた。
+++
<Aチーム・桃視点>
正直なことを言うと、古市先輩によるお姫様抱っこにキュンと来てしまった。
お姫様抱っこという行為もだけど、あの二人の信頼関係に、憧れに似た気持ちが生まれた。
特別仲良くしているところは見たことがないけど、なぜか深い……特別な関係があるように見えて、あの二人が少し羨ましいと感じた。
いや、倒れている人がいるのに、こんなことを思うのは不謹慎だ!と、自分の両頬を軽く叩き、お花畑思考を追い払った。
そして、私は古市先輩の後を追いかける。しかし、古市先輩はとても足が速く、最後まで追いつくことはできなかった。
救護テントに着くと、津島先輩が簡易ベッドで横になっているのが見えた。
ベッド近くでは、保健の先生である黒房志寿佳《くろふさしすか》先生が、脈拍や心音を丁寧にチェックしている。
テント内には私たちしかおらず、古市先輩の不安や戸惑いの感情が漂っていて、少し張り詰めた空気が流れていた。
「古市先輩っ!」
椅子に座っていた古市先輩は、驚いた表情で私の方を振り向いた。
「あ、麻平さん!?どうしてここに」
「見てましたよ、お二人の活躍。ハラハラする試合でしたけど、今の方がもっとハラハラしています……」
私はわざとらしく明るい声で話しかけると、古市先輩は少し気持ちを緩ませ、張り詰めていた空気も少し和らいだようだった。
「ハハ……間違いないですね。私も同じです。」
すると、検査を終えた黒房先生が、細い丸縁眼鏡を外しながらこちらを向いた。
「安心してください。あなたの彼女さんは無事です。かなりの貧血のようですが、しばらく安静にしていれば回復するでしょう」
津島先輩の無事を聞いてホッとしながら、古市先輩の様子を伺う。
"彼女さん"と言われて顔を真っ赤にしているのかと思ったけど……そんなことはなく、至って冷静な態度で、
「いえ。私にお付き合いしている方はいません」
と即答した。これがきっかけで意識し合うようになる、なんてのは恋愛漫画だけの話のようだ。
「私も、津島先輩とは付き合っていませんよ」
一応、私も黒房先生にそう伝えた。最近は色々な恋愛模様があるから、勘違いされないようにしておきたかったのだ。
ふと古市先輩の方を見ると……あれ?先輩の耳が、真っ赤になっているような……?
「もしかして彼女の名前、津島心菜さん?」
「っ!は、はい!そうです!」
黒房先生の深刻そうな言葉が気になり、先生の方を向く。
先生方は全員、二年一組の生徒の基本情報を把握している。そして、学校生活で関わる機会が多いとされる先生は、更に深い事情を知っていると聞いている。
黒房先生は保健の先生だし、きっと、私たちが知らないような事柄を知っているのだろう。
「この後、保護者の方に連絡しようと思っていたのですが……無駄というわけですね。わかりました。柿澤先生に確認してきます。」
黒房先生は私たちの返事を待たず、「すぐ戻ります!」と言い残して、テントを出て行ってしまった。
保護者への連絡が無駄?
一体どういうことなんだろう。親戚と仲が悪いのかな……もしそうなら、少しだけ津島先輩に親近感が湧く。
しばらく沈黙が続く。いまは何の種目をしているんだろう。そろそろ、私が参加する種目が始まる時間かな。
「……津島さんは、私のことが嫌いなのでしょうか」
そう考えていると、俯いていた古市先輩が、小さな声で呟いた。
それが独り言だとはわかっていた。けど、スルーすることができなかった。
「いやいや!本当に嫌いだったら、古市先輩との二人三脚は辞退していますよ!」
古市先輩は私が返事をするとは思わなかったのか、驚いた顔で私の顔を見る。
そしてまた俯き、先ほどより少し大きな声で、言葉を発した。
「私もそう思いたいです。しかし、彼女は……私と二人きりになると、やたらと緊張して話ができなくなったり、語気が強くなったりするんです」
「そ、それって、むしろ古市先輩のことを意識しているんじゃないですか?」
「意識……ですか……?」
私自身、津島先輩が古市先輩に抱いている感情に確証が持てないので、ずいぶん抽象的な伝え方になってしまった。
案の定、古市先輩はあまりピンと来ていない様子だった。
ちょうどその時、黒房先生が息を切らせながら戻ってきた。
「ハァ、ハァ……お待たせしました。葉院先生が保健室で付き添ってくれることになったので、二人とも戻って大丈夫です」
……意外だった。葉院先生は体育祭が始まってから、あんなに楽しそうにグラウンド中を駆け回っていた。
マグロのように、止まったら死んでしまうのではないか?と小ばかにする生徒もいたくらいだ。
黒房先生は、不思議そうな表情を浮かべていた私を見て、少し呆れた様子で言った。
「葉院先生、働きすぎて軽度の頭痛が出てしまったんです。それでも本人は『まだやれる!』と息巻いていて、説得するのに一苦労しました……。
……結局、保健室で生徒の様子を見てもらう役割を頼んだ途端、『それなら任せてください!』と張り切って保健室に向かっていきました」
なんとも葉院先生らしい理由で、思わずくすりと笑ってしまった。
体調不良が二人いる状況ではあるものの、どこか安心した気持ちで、古市先輩と一緒にAチームへのテントへと戻った。
次々に種目が終わり、結果に一喜一憂する生徒や、そもそも体育祭に興味がなく友人同士で談笑している生徒など、それぞれが思い思いにこのイベントを楽しんでいた。
皆から少し離れた位置でその様子を眺めていると、次の種目の開始アナウンスが聞こえてきた。
「大玉転がし、または玉入れに参加する選手は、集合してください……」
そろそろ、大玉転がしが始まる時間だ。俺は少しだけ席を移動させ、競技が見やすい位置についた。
この巨大パラソルがあるとはいえ、、むやみに立ち歩くと女生徒と接触する恐れがある。だから、担当種目まで大人しく自席にいるつもりだった。
……という話を彼方にしてしまったせいで、彼方は生徒会メンバーを何とか言いくるめ、Cチームテントからよく見える位置で大玉転がしを行うことにさせたらしい。
生徒会にそんな権限はないだろうと高を括っていたのだが……。もしかしたら彼方の目論見は、理に適っていたのかもしれない。
いつか、「生徒会のコネで俺を優遇させる」という我儘が通ってしまわないことを祈るばかりだ。
しばらくすると、大玉転がしの選手たちが入場してきた。
橙色の大きな玉の前に、彼方を含めて5~6人の生徒が集まっている……んん?
……彼方が、隣にいる大きなツインテールの女生徒と何かを言い合っている。
「遥君。僕には、妹君が誰かと言い争っているように見えるのだが、これは見間違いかな?」
隣にいた冬美が不思議そうに尋ねてきた。
「い、いやっ!きっと鼓舞しているだけだ!そう思わせてくれ……っ!」
彼方は昔から頑固で、小学生の頃はクラスメイトとよく口喧嘩をしていた。
最近になってから……特に、俺が女性恐怖症になってからは、人とのトラブルは極端に減っていた。
だが、それはあくまでトラブルにまで発展してないというだけで、彼方の根っこの部分は変わっていないのかもしれない。
「……なあ、神野くん。クラスでの彼方ってどんな感じなのか教えてくれるか?」
ふと気になって、彼方のクラスメイトである神野くんに尋ねる。
神野くんは非常に面倒そうな顔をしながら、目線を合わせずに口を開いた。
「……武道さんは、気に入らないことがあれば、しょっちゅう口答えしてるスね。生徒とか先生とか関係なく」
「やっぱりそうなのか……」
がっくしと肩を落とす俺を見かねたのか、神野くんは慌てて言葉を付け足す。
「で、でも、自己都合で文句を言うことは少ないスね。大抵は人やクラスのために言ってくれてるんで、感謝してる奴もいると思います」
……そういえば、この前も彼方が、クラスであまりに酷いイジりかたをする生徒に物申したと聞いた。誇らしく思う反面、それが新たなトラブルの火種にならないかが心配だ。
「そうだ。ちなみに、桃はクラスではどんな様子なんだ?」
俺は少し興味を持って尋ねた。
「っ!あ、麻平さんは、いつも明るくて、誰に対しても……俺みたいな奴にも愛想良くて、細かいところにも気を配ってますね!
でも、人間関係のことで考え過ぎることも多いみたいで、よく相談に乗っては頭を悩ませている様子を見かけることもあって……」
神野くんは、まるで別人のように嬉しそうな表情で俺の顔を見ながら、大きな声で語り始めた。
こんなに生き生きとした彼を見るのは初めてだ。普段の彼からは考えられないような、明るい表情が浮かんでいる。珍しいこともあるものだなと、少し驚いた。
「へぇ。桃のこと、よく見てるんだな」
俺は素直に感心して、正直にそう言った。
「ハッ……! い、いや、別に、そんなんじゃないッス。クラスのムードメーカーなんで、自然と目に入るっていうか」
神野くんは急にトーンを落とし、しどろもどろになりながら言葉を濁していく。
「というか、麻平さんのことならアンタの方がよく知ってるだろ。いっつも一緒にいて、麻平さんの自由な時間を……」
しまった、という顔をした神野くんは、気まずそうに俺の顔を見た。
「……いや、すんません。何でもないッス」
逃げるようにどこかへ行ってしまった神野くんを目で追っていると、冬美が申し訳なさそうに声をかけてきた。
「遥君。私の愚弟が失礼なことを言ったようで申し訳ない。私からしっかり注意しておくよ」
「いや、いいんだ。気にしないでくれ。普通の人ならああいうイメージを抱くだろうし……神野くんの意見はごもっともだ」
俺は気にしていない素振りで答えるが、その一言には少し自嘲も混じっていた。
すると、冬美は俺の手をそっと握った。彼の手は温かく、優しい感触が伝わってくる。
「そこまで自分を非難する必要はないよ。マイナスな言葉は、知らない間に大きな傷になっていくものだ。
それに、彼女だって何も義務感で君と一緒にいるわけではないだろう。……彼女のことだ。もし本当に不満を感じているのなら、素直に君に伝えているさ」
冬美は俺の目を見つめ、静かにそう言った。彼女の瞳には、心配と優しさが滲んでいる。
「……冬美は優しいな」
俺は少し照れくさそうに答えたが、その優しさにどこか救われた気持ちもあった。
「ほら、大玉転がしが始まるぞ」
俺は視線を競技場に戻し、話題を切り替えるように声を上げた。ちょうどそのタイミングで、選手たちが大きな玉を一斉に押し始めるのが見えた。
「今は、体育祭を心から楽しもう」そう自分に言い聞かせながら、桃への感情を一度押し込める。
そして、遠くで真剣な表情を浮かべる彼方の姿に目を向けた。
+++
<Bチーム・彼方視点>
「大玉転がし、または玉入れに参加する選手は、集合してください……」
アナウンスの声が響き、作業の手を止めた。
今までの競技結果をまとめる作業を体育委員に任せ、私の担当種目である大玉転がしの準備場所へ急ぐ。
……お兄ちゃんにかっこいいところを見てもらうために、絶対に一位にならなくちゃ!
大玉転がしは、お兄ちゃんが所属するCチーム近くで行われる。……いや、私がそうなるように仕向けた。
うまく生徒会メンバーを言いくるめ、競技の開催エリアを指定するのには、かなり骨が折れた。
最難関は柚子先輩だった。どんなにそれらしい理由を言っても一蹴されてしまい、何度も頭を悩ませた。
しかし、無花果会長の、「彼方さんの意思に沿いましょう」という一声で、私の意見はすんなり可決された。
無花果会長も意地が悪い。あの人は、自分がそう言えば場が収まると知りながら、私の多種多様な言い訳を楽しんで、ずっと黙っていたのだ。
Bチームが運ぶ予定の橙色の大玉の近くには、同じBチームのメンバーが既に揃っていた。
顔見知りの人は……ほぼいない。でも、「お互い頑張りましょうね」と言い合いながら、和気あいあいとしていた。
「か、彼方ちゃん。遅かったね」
大玉転がしのメンバーの中で、唯一顔見知りの女生徒が話しかけてきた。
「そうだね」
薄墨色の大きなツインテールを揺らしている彼女は、私と同じ生徒会庶務で、同じ学年で、同じクラス。名前は東洋梨愛。
生徒会に入る前、一年生の募集メンバーは二人で、二人一組で動けるように同じクラスの生徒を選ぶと聞かされていた。
その時私は、"自分と合わない性格の人だったら嫌だな"と思っていたが……その嫌な想像は的中した。
東洋梨愛は一言で言えば天然ボケで、空気が読めない言動はもちろん、そのせいでいつも誰かしらを振り回している。
私もその被害をよく受けているが、持ち前の愛嬌で、周りの人からは「仕方のない奴だ」と甘やかされている。
たちが悪いのは、本人には全く裏や思惑がないこと。それから、最終的には良い結果になることが多いこと。
あの明るさと無邪気さ、純真無垢な感じが……あの頃の私を見ているみたいで、嫌になる。
八つ当たりなのはわかっているが、どうにもこの感情は抑えられなかった。
「ね、ねぇ彼方ちゃん! あそこにおっきな傘があるよ! 何だろうね?」
Cチームのテントから少し離れた場所に、派手なパラソルの下で誰かと話しているお兄ちゃんの姿が見えた。
東洋梨愛は、私との距離感を測りかねているようで、必死に会話を続けようとしている。
その様子を見て申し訳ないと思いつつも、彼女の無邪気さに絆されないよう、ドライな態度を崩さないよう努めた。
「アレ、私のお兄ちゃん」
「えっ! あの人がお兄さんなんだ!」
東洋さんは驚いた表情を見せ、一瞬言葉を失った後、慌てて続けた。
「え、えっと……よく、桃ちゃんと一緒にいるところを見かけるよ!」
「そう」
一言だけ呟き、私は軽くストレッチを始める。
「そ、それにしても彼方ちゃん、生徒会活動がないときは、いつもお兄ちゃんにべったりだよね!仲が良くて、羨ましいなあ」
東洋さんはさらに慌てて会話を続ける。私は距離を取ろうと壁を作っているのに、彼女はいつもその壁を突き破ろうとしてくる。
「……東洋さんだって、梨仁先輩と仲が良いでしょ。それに……お兄ちゃんには、私がいなきゃダメだから。私が一緒にいてあげなくちゃいけないの」
「……その言い方、良くないと思う」
いつにない強い言い回しに、私はぎょっとして彼女の顔を見る。
東洋さんの顔からぎこちない笑顔が消え、どこか悲しそうにしていた。
すると東洋さんは、「握ってもいい?」と一言発したかと思うと、私の返事を待たずに、両手を優しく握ってきた。
「……ごめん。私、彼方ちゃんのこともお兄さんのこともよく知らない。でも、その考え方は危ないと思う……」
「別に、東洋さんには関係ないでしょ。放っておいて」
「あっ!そうだ!学校内でサポートできる人を増やすとか、どうかな? 私も協力するよ!」
彼女のその純粋な気持ち自体はありがたい。暖かな手も相まって、つい心が緩みそうになる。
だが、すぐにその思いを打ち消す。……そんなこと、わざわざ言われなくてもとっくにわかっている。
私たち家族は、あの事件以来、様々なアイデアを何度も考えて、何度も実行してきた
赤の他人が思いつくようなアイデアなんて、所詮たかが知れているし、すでに試したものばかりだ。
それに、いくら東洋さんが協力を申し出たとしても、簡単にできることではないし、何よりお兄ちゃんを他人の実験台にするわけにはいかない。
「友達にそういう子がいて……その子、病んじゃったんだ。だから、心配だよ……」
ただのクラスメイト同士なのに、なぜ彼女がそこまで私のことを心配するのか、私にはまったくわからなかった。
私はそんなことで心を病んだりなんかしない。
どうしてものときは、桃や両親がいるし、何の不都合もない。
私は無言で、東洋さんの手をそっと引き剥がす。
「私のことはどうでもいい。お兄ちゃんが普通に過ごせるようになれば、それでいいの!……もう、この話はおしまい」
苛立ちが募ってしまい、つい語気を強めてしまった。
深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせる。自分の都合でトラブルを起し、またお兄ちゃんに迷惑をかけたくない。
「で、でも……」
東洋さんは驚いた顔で私を見つめ、言葉を失っていた。彼女に変に誤魔化すと、きっとまたしつこく聞いてくるだろう。
そう思い、私は詳細は伏せながらも、正直に答えることにした。
「……私のせいだから」
「え?」
「お兄ちゃんが不自由になったのは、私のせいだから」
梨愛の目が大きく見開かれ、言葉を探そうとする。
「それって、どういう……」彼女が続きを聞こうとしたその瞬間、
パン。
突然、ピストルの合図が耳を劈き、私は反射的に大玉へと手を伸ばした。
「いーち! にー! いーち! にー!」
周りのメンバーは、予め決めていた掛け声に合わせて大玉を押し始めた。私もその掛け声に合わせ、大玉に力を込める。
自分への苛立ちと東洋さんへの怒りを大玉にぶつけるように、全力で押し進めた。
大きな声を出しながら、大玉を転がし、感情を発散させる。
東洋さんの視線が突き刺さるように感じるが、今はただひたすら、前に進むことだけに集中した。
その後、ゴールに着くまで……いや、着いてからも、謎の苛立ちは収まらなかった。
結局大玉転がしは、見事、一位を飾ることができた。
お兄ちゃんに良い所を見せることができたのは嬉しいけど、その原動力となったのが東洋さんの言葉という、私としてはなんとも複雑な結果で幕を閉じた。
「一位獲れてよかった~!」
「あなたのおかげだよ!」
「頼もしかったよ!」
大玉転がしのメンバーは結果を聞いて大喜びし、感謝の言葉をかけてくれる。
でも、私のあのパワーは、東洋さんの言動によるものだ。だから、私は少し考えて、
「この結果は、こちらの方のおかげですよ」
と皮肉を言って東洋さんを指差したあと、早々にBチームのテントに戻った。
本来であれば、Bチームのテントに戻って結果を報告するのは東洋さんの仕事だった。でも、私は勝手にその役割を請け負った。
自分に向けられる称賛の言葉に慣れていないし、東洋さんと顔を合わせるのも気まずかった。一刻も早くその場を離れたかったのだ。
すると、テントに戻った途端、黒い物体がゆらりと近づいて来るのが見えた。
「彼方ちゃ~ん……一位おめでとう~……!ずーっと見てたよ~……」
……やっぱり、報告は東洋さんに任せておくべきだったかもしれない。
由依先輩は不気味な笑顔で私を迎え入れた後、ペタペタと私の身体を触ってきた。
「あの、由依先輩。そんなに触られても、お兄ちゃんのことは何も言いませんよ」
「え~?でも、さっき梨愛ちゃんには何か言ってたよね~?何で私は駄目で、梨愛ちゃんはいいの~……?」
ぐっ、痛い所を突かれた。今思えば、何で東洋さんにあんなこと言っちゃったんだろう。
なんだか彼女と会話していると、不思議と本心が漏れ出てしまいそうになる。
きっと、彼女には老若男女問わず惹きつける、魅了のような不思議な力があるのだろう。そうだ、そうに違いない。
そう考えていると、急に由依先輩が私の身体から手を引いた。
驚いて目をやると、背後に津島先輩が立っていた。そして、由依先輩の顔をじっと見つめている。
「ひ、ひぃっ……!し、知らない人に睨まれた~……っ!」
由依先輩はまたしても、心底怯えた表情でどこかへ消えてしまった。
「あ、ありがとうございます。津島先輩」
津島先輩は私の言葉を聞くと、キッとした表情を和らげ、「気にしないで」と微笑む。
強くてカッコよくて美人。まさに、私の理想としている大人の女性という印象だ。
「中盤からだけど、私も見てたわ。すごい迫力だった」
「あ、見てたんですね……!は、恥ずかしいです」
「ふふ。武道……お兄さんが近くで見ていたようだし、その影響が大きいのかしら」
津島先輩の発言は間違いではないので、そのまま話を流そうとした。
でも、私はさっきあったことを誰かに話して発散したくなった。
「いえ。実は始まる前、クラスメイトの……同じ生徒会庶務の子に、少し気になることを言われて……それで自棄になってただけなんです」
「あ。もしかして、あのツインテールの子?」
その言葉を聞いて私は驚き、目を丸くして津島先輩の顔を見た。
「あれ?津島先輩、東洋さんのこと知っているんですか?」
大玉転がしは中盤から見ていたと言っていたので、開始前の言い合いを見ていたとは思えない。
それに、生徒会庶務は公に出ることは少ないし、ましてや入ってきたばかりの一年生だ。知らない先輩の方が多いと思うけど……。
私が首を傾げていると、津島先輩は明らかに慌てた様子で弁明した。
「あっ、い、いや。二人の様子を見て、なんとなくそうなんじゃないかって思っただけよ」
「そ、そうですか?……とにかくその子、私に対して見当違いな心配をしてて。それで勢い余って、言う必要ないことを正直に暴露しちゃったんです。
私以外にもクラスメイトや……先生たちでさえ、彼女に気を許して正直なことを言う人が多いみたいで……」
「ふ~ん。なるほどね。だから、あんなにたくさんいたんだ」
「ん?いたって、誰がですか?」
「いや、なんでもないよ。……言ったことは覆らないし、後悔しても仕方ないわ。それよりも、今後その子とどう折り合いをつけるかを考えた方がいいんじゃない?」
「……それもそうですね!なんだか、話したら少しスッキリしました。ありがとうございます!」
津島先輩はクールに微笑んで、「私はなにもしてないわよ」と呟いた。
……お兄ちゃんからは、津島先輩はサバサバした性格で、積極的に人と関わろうとはせず、一匹狼のような存在だと聞いていた。
でも、その割には勉強会のときに顔を出してくれたり、今も、私の愚痴を優しく受け止めてくれている。
こんなに優しいのに、なんで人と深く関わろうとはしないんだろう。
……もしかしたら、東洋さんも私に対して、「なんで壁を作っているんだろう」って思ってるのかな。
まあ、私は津島先輩とは違って、彼女に優しく接しているつもりはないけど。
「あ、あの。津島さん……だっけ?ちょっといいかな?」
突然、知らない男子生徒が話しかけてきた。
「何の用?」
「え、えっと、結論から言うんだけど……二人三脚、古市くんと出場してくれないかな?」
「ハァ!?なっ、なな、なんで!?ら、蘭は!?……よ、よりによって、なんで古市なの?!」
津島先輩の動揺した様子に、私は思わず目を丸くする。そういえば、先輩の担当種目は二人三脚だっけ。
「それが、栗門部さん、玉入れの玉を運悪く踏ん付けて怪我しちゃったんだ。
君と近しい身長の生徒はほとんど出払っていて、残った生徒の中だと……このチームでは古市くんしかいなくて」
「だ、だからって別に古市じゃなくても……そうよ!普通に出場停止にして不戦敗にすれば……」
「……あの、どうしてそんなに古市先輩が嫌なんですか?」
私は思わず、津島先輩に問いかけてしまった。彼女の様子が普段と違いすぎて、純粋に気になったのだ。
「べ、別に嫌とかじゃないわ。ただ……あいつとは相性が悪いのよ」
先ほどまでの熱のこもった態度を落とし、徐々に冷静な態度に戻っていく津島先輩。
男子生徒は申し訳なさそうに再び口を開く。
「そうだよね。無理言ってごめんね。じゃあ僕、生徒会メンバーに頼んで、出場を取り消してもらってくるよ」
「あ!あの、私、生徒会庶務なので、私が行ってきますよ」
「あ、本当?じゃあ、お願いして……」
「ま……待って!」
津島先輩は顔を真っ赤にしながら私の腕を掴み、体育祭の事務局がある場所へ向かおうとした私を静止した。
「ごめん。やっぱり、出場するわ」
「え?そんな、別に無理しなくても……」
「大丈夫、無理はしてないわ。……悪いけど、古市に伝えに行ってもらえる?私の足を引っ張るような真似はやめてよねって」
先輩の強気な言葉に、男子生徒は驚いたような顔をしたあと頷き、慌てて古市先輩の元へ向かって行った。
「……そう……むしろこれはチャンスよ心菜……これをきっかけに……前みたいに……ぶつぶつ」
私は津島先輩に何か声を掛けようとしたが、掴んだ私の腕をぎゅっと握りしめながら独り言を呟き、一人の世界に入り込んでいた。
さっき愚痴を聞いてもらった以上、その腕を振り払うことはできず……私はただただ、その独り言を聞きながら、その言葉の意図を想像したのだった。
+++
<Cチーム・遥視点>
彼方の勝利を見届けた後、俺は担当種目である徒競走のエリアに移動していた。
既に何名かのチームが競争を終えており、競技場は賑やかな雰囲気に包まれている。
俺は、少しだけ緊張していた。レースに向けて気を引き締め、ストレッチを始めようとした。その時だった。
「こんにちは!まさか、あなたと同じ組になるとは思いませんでした!」
その声に驚き、思わず隣を見た。薄墨色の髪をした男子生徒が、にっこりと俺をいる方を向いている。
……知らない人だったし、心当たりもない。俺は一度反対のレーンの生徒を見たが、その生徒は何の反応もしていなかった。
「え?もしかして、俺に対して言ってます?」
「はい、あなたに話しかけています。……あ、知ってるとは思いますが、同じ学年なのでタメ口でいいですよ」
「はあ……」
馴れ馴れしく話しかけてくる彼を怪訝に思いながら、気にせずストレッチを始めた。
すると、彼は入念に周囲を見渡したあと、俺に耳打ちしてきた。
「あの。いい機会なので伝えておきますが、生徒会メンバーの三年生には気を付けたほうがいいですよ」
「は……?なんで?」
「僕にも彼女らの思惑はわかりません。しかし、武道遥さんのことをターゲットにしているのは事実です」
その言葉を聞いても、まだよく理解できなかった。俺がターゲット? 何の話だ?
しかも、どうしてこいつがそんなことを俺に伝えてくるのかもわからない。
だが、彼の顔は真剣そのもので、あまり冗談で言っている感じではなかった。
「抽象的な表現をして申し訳ない。本人たちから口止めをされていまして。誰かに言うのは勝手ですが、僕からの情報であることはオフレコでお願いしますよ」
俺は軽く頷き、口をつぐんだ。とりあえず、頭の片隅には入れておこう。
だが、それにしても意味不明だ。初対面なはずなのに、彼はまるで俺とは既に友達であるかのように気さくに話しかけてくる。
生徒会メンバーのことなら、彼方か……冬美に聞けば、何かわかるかもしれない。
体育祭が終わったら、聞いてみることにしよう。
「位置について!」
その声が響くと同時に、周囲の生徒たちがスタートラインに並び、緊張感が高まる。俺も気を引き締め、足元を確認する。
「よーい、ドン!」
だが、隣の彼の発言に気を取られていたせいか、スタートの合図に遅れて反応してしまう。
最初の一歩で、他の生徒たちが先に出ていった。遅れを取り戻さなければ、と焦る気持ちが強くなる。
「くっ!」
俺は気合を入れて足を前に出す。周りの男子たちと並んで走るが、息が上がり始め、なかなか思うように体が動かない。
全身が重く感じる中、力を振り絞って走り続ける。
無意識のうちに、競争に熱くなっていたのだろうか。追い抜かれるわけにはいかないという気持ちが、俺の身体を強くさせた。
残りわずかの距離、足がもつれそうになりながらも、なんとかスピードを維持し、ゴールを見据えて踏み込む。
隣の男子が少し遅れているのがわかり、最後の一歩でその差を詰め、ギリギリでゴールラインを越えた。
息が切れ、心臓がドキドキしているが、振り返ると、周りの男子生徒が次々とゴールインしているのが見えた。
その瞬間、やっとレースが終わったことを実感し、安堵のため息が漏れた。
「ハァ……ハァ……さすが、僕の大親友ですね!」
「はい?あの、俺たち初対面だよな?親友って……」
俺がそう言うと、彼はきょとんとした顔をする。
そして、予めゴール地点に置いていたであろう、黒縁眼鏡を装着しながら、こう言った。
「あ~……"今"はそうでしたね。失礼しました。ですが、いずれ……僕とあなたは親友同士になりますよ」
「?あの、何を言っているのかさっぱりわからないんだが。せめて、名前だけでも……」
「名前?それはもちろん、東洋……あっ!もう作業に戻らなくては!
では、これにて失礼致します!くれぐれも、さっき言ったことは僕からの情報だと言わないでくださいよー?!」
そう言いながら、彼は駆け足で生徒会テントへと向かっていった。
俺は底知れぬ恐怖を感じ、思わずその場に立ち尽くしてしまった。
東洋……彼についても、彼方や冬美に聞けば、何かわかるだろうのだろうか。
せっかく一位を獲ったのに、それを喜ぶ暇もなく。
俺は悶々とした状態で、Cチームへのテントがある方へと向かった。
+++
Cチームのテントに戻る途中、二人三脚のエリアを通りかかった。
なにやらトラブルがあったようで、競技はまだ開始されていなかった。せっかくなので、俺は人通りが少ない場所から様子を伺うことにした。
Cチームからは神野兄弟が二人三脚を担当しており、一位は間違いないと評判だった。周りのチームの一部からは、兄弟がやるのは卑怯だという声もあったそうだが。
そういえば、二年一組からも誰か出場することになっていたな。確か……津島さんと、津島さんと同じ図書委員の子が参加するはずだ。
「つ、津島さん。もっと私に近寄っていただかないと、うまく走れないですよ」
「……わかってる」
その声で、俺は津島さんを見つけた。しかし、片足を結んで隣にいるのは、なんと古市だった。……図書委員の子はどうしたんだろうか。
古市は大きな声で掛け声を出しながら、津島さんとテンポを合わせようとしている。
しかし、津島さんがぎこちない様子で、なるべく古市と触れないように必死になっているのがわかる。
「津島さん……私のことが嫌いなのはわかりますが、しっかり息を合わせないと、あなたが怪我をしてしまいます」
「べ、別に、アンタのことが嫌いなわけじゃないわよ!」
「嫌いでないのであれば、私の肩を掴んで、密着してください」
津島さんは黙り込んで動かなくなった。それを見かねた古市が、「失礼」と言いながら津島さんの腰に手を当て、距離を近づけようとする。
「……!」
津島さんの顔が見る見るうちに真っ赤になり、口をパクパクと動かす。その表情は今まで見たことがなかった。古市の言葉に反応できず、焦りが見て取れる。
「……そうだ。アイツを利用すれば……」
すると、津島さんは何かに気づいたように顔をあげ、突然虚空を見つめ始めた。
その瞬間、何かが変わったのか、津島さんの表情が冷静さを取り戻した。
「つ、津島さん?大丈夫ですか?」
「………………うん」
それからは、古市からの問いかけにもしっかり受け答えし、身体を密着させながら息を合わせて走る練習を行っていた。
明らかに何かが切り替わったような、落ち着いた様子が見て取れた。
そして、いよいよ二人三脚が開始される時間になった。
「やあ、心菜君。雷君。いくら顔見知りの君たちとはいえ、手加減はしないよ」
「神野さん、勉強会ではお世話になりました。即席のチームですが、兄弟の仲に負けないよう努めます」
「ほう?それは楽しみだ。ところで……心菜君は大丈夫かい?先ほどからどこか生気がないような印象を受けるのだが……」
「………………へいき」
「なんとか反応はするので、大事ではないとは思うのですが……心ここにあらずといった感じで、私も戸惑っています」
冬美の隣で嫌そうな顔をしていた神野くんも、心菜の様子を気にして、少し不安げな表情を見せたような気がした。
「位置について!」
その言葉で、神野兄弟と古市&津島さんペアはスタートラインに立つ。
津島さんはしっかりした足取りで、だが呆然とした様子で古市にくっついていた。
「よーい、ドン!」
先生による掛け声と、空に広がるピストルの音が鳴るや否や、全員が一斉に駆けだした。
誰よりも早く他の生徒と差をつけたのは神野兄弟で、さすがの連携で先行する。しかし、古市&津島さんペアもそれに食らいつき、追い上げる。
津島さんは変わらず虚空を見つめ続けているものの、古市による掛け声にしっかり適応し、テンポを合わせる。
ゴールが目前の状況で、神野兄弟と古市&津島さんペアが並び、誰もがその接戦に息を呑んだ。
そして……最後の一歩で、神野兄弟を抜き去った。
観客の歓声が上がり、古市&津島さんペアが見事に一位を獲得した。
「や……や、やりましたね!一位ですよ、津島さん!」
嬉しさのあまり、古市が大きな手で津島さんの小さな手を覆うように握る。
「……えっ?」
その瞬間、津島さんの表情が一変した。先ほどまでの生気がない表情が消え去ったようだ。しかし、現在の状況を理解できていないようで、戸惑っている。
そして、古市に握られている手と、虚空を交互に見つめたかと思うと……顔色が真っ青になっていき、言葉にならない言葉を発している。
「……………………おえ」
津島さんはそのまま意識を失い、ふらりと倒れ込んだ。
「!?つ、津島さん!しっかり!」
その場の空気が一変した。周囲の生徒たちは呆然と立ち尽くし、何が起きたのか理解しきれずにいる。
誰もが動けずにいたが、古市だけが素早く反応し、津島さんの身体を抱きかかえて、お姫様だっこの要領で救護テントへと駆け出していった。
津島さんの心配が募り、考えるよりも先に身体が動き出しそうになったが……すぐに、テント内や道中で女性と接触する危険性を思い出し、足を止めた。
立ち尽くしたまま、ただ見守るしかできない自分に苛立ちを覚える。
その後すぐ、同じく二人三脚の様子を見ていたと思われる桃が、古市の後を追うのを目にした。
それを見て、ようやく気持ちを落ち着けることができた。
今の自分には、何もできないことを再認識し、ここは桃に任せるべきだと自分に言い聞かせる。
女性恐怖症というだけで行動が制限される自分の無力さに、嫌悪感が胸の中で膨らんでいくのを感じた。
+++
<Aチーム・桃視点>
正直なことを言うと、古市先輩によるお姫様抱っこにキュンと来てしまった。
お姫様抱っこという行為もだけど、あの二人の信頼関係に、憧れに似た気持ちが生まれた。
特別仲良くしているところは見たことがないけど、なぜか深い……特別な関係があるように見えて、あの二人が少し羨ましいと感じた。
いや、倒れている人がいるのに、こんなことを思うのは不謹慎だ!と、自分の両頬を軽く叩き、お花畑思考を追い払った。
そして、私は古市先輩の後を追いかける。しかし、古市先輩はとても足が速く、最後まで追いつくことはできなかった。
救護テントに着くと、津島先輩が簡易ベッドで横になっているのが見えた。
ベッド近くでは、保健の先生である黒房志寿佳《くろふさしすか》先生が、脈拍や心音を丁寧にチェックしている。
テント内には私たちしかおらず、古市先輩の不安や戸惑いの感情が漂っていて、少し張り詰めた空気が流れていた。
「古市先輩っ!」
椅子に座っていた古市先輩は、驚いた表情で私の方を振り向いた。
「あ、麻平さん!?どうしてここに」
「見てましたよ、お二人の活躍。ハラハラする試合でしたけど、今の方がもっとハラハラしています……」
私はわざとらしく明るい声で話しかけると、古市先輩は少し気持ちを緩ませ、張り詰めていた空気も少し和らいだようだった。
「ハハ……間違いないですね。私も同じです。」
すると、検査を終えた黒房先生が、細い丸縁眼鏡を外しながらこちらを向いた。
「安心してください。あなたの彼女さんは無事です。かなりの貧血のようですが、しばらく安静にしていれば回復するでしょう」
津島先輩の無事を聞いてホッとしながら、古市先輩の様子を伺う。
"彼女さん"と言われて顔を真っ赤にしているのかと思ったけど……そんなことはなく、至って冷静な態度で、
「いえ。私にお付き合いしている方はいません」
と即答した。これがきっかけで意識し合うようになる、なんてのは恋愛漫画だけの話のようだ。
「私も、津島先輩とは付き合っていませんよ」
一応、私も黒房先生にそう伝えた。最近は色々な恋愛模様があるから、勘違いされないようにしておきたかったのだ。
ふと古市先輩の方を見ると……あれ?先輩の耳が、真っ赤になっているような……?
「もしかして彼女の名前、津島心菜さん?」
「っ!は、はい!そうです!」
黒房先生の深刻そうな言葉が気になり、先生の方を向く。
先生方は全員、二年一組の生徒の基本情報を把握している。そして、学校生活で関わる機会が多いとされる先生は、更に深い事情を知っていると聞いている。
黒房先生は保健の先生だし、きっと、私たちが知らないような事柄を知っているのだろう。
「この後、保護者の方に連絡しようと思っていたのですが……無駄というわけですね。わかりました。柿澤先生に確認してきます。」
黒房先生は私たちの返事を待たず、「すぐ戻ります!」と言い残して、テントを出て行ってしまった。
保護者への連絡が無駄?
一体どういうことなんだろう。親戚と仲が悪いのかな……もしそうなら、少しだけ津島先輩に親近感が湧く。
しばらく沈黙が続く。いまは何の種目をしているんだろう。そろそろ、私が参加する種目が始まる時間かな。
「……津島さんは、私のことが嫌いなのでしょうか」
そう考えていると、俯いていた古市先輩が、小さな声で呟いた。
それが独り言だとはわかっていた。けど、スルーすることができなかった。
「いやいや!本当に嫌いだったら、古市先輩との二人三脚は辞退していますよ!」
古市先輩は私が返事をするとは思わなかったのか、驚いた顔で私の顔を見る。
そしてまた俯き、先ほどより少し大きな声で、言葉を発した。
「私もそう思いたいです。しかし、彼女は……私と二人きりになると、やたらと緊張して話ができなくなったり、語気が強くなったりするんです」
「そ、それって、むしろ古市先輩のことを意識しているんじゃないですか?」
「意識……ですか……?」
私自身、津島先輩が古市先輩に抱いている感情に確証が持てないので、ずいぶん抽象的な伝え方になってしまった。
案の定、古市先輩はあまりピンと来ていない様子だった。
ちょうどその時、黒房先生が息を切らせながら戻ってきた。
「ハァ、ハァ……お待たせしました。葉院先生が保健室で付き添ってくれることになったので、二人とも戻って大丈夫です」
……意外だった。葉院先生は体育祭が始まってから、あんなに楽しそうにグラウンド中を駆け回っていた。
マグロのように、止まったら死んでしまうのではないか?と小ばかにする生徒もいたくらいだ。
黒房先生は、不思議そうな表情を浮かべていた私を見て、少し呆れた様子で言った。
「葉院先生、働きすぎて軽度の頭痛が出てしまったんです。それでも本人は『まだやれる!』と息巻いていて、説得するのに一苦労しました……。
……結局、保健室で生徒の様子を見てもらう役割を頼んだ途端、『それなら任せてください!』と張り切って保健室に向かっていきました」
なんとも葉院先生らしい理由で、思わずくすりと笑ってしまった。
体調不良が二人いる状況ではあるものの、どこか安心した気持ちで、古市先輩と一緒にAチームへのテントへと戻った。
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