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22 光の戻った日

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 九月になった。
 鬼のように忙しかった八月のツアーも終わり、僕はようやく自宅に戻る事が出来た。
 京極さんと多賀木さんはまだ事後処理があるらしく、忙しく動き回っていたけれど僕と七星くんはとりあえず解放された。
 七星くんは実家にもう一度帰省するらしい。
 僕は彼の帰省を見送るために新宿駅までやってきていた。
「じゃあ竹井さん一週間くらいで戻ります」
「ああ、気をつけて」
 電車に乗り込もうとする七星くんは大きな欠伸をしながら背伸びをした。
「次の大きなイベントは日比谷でしたよね?」
「そうだね。来月だからまだ日はあるけど、早めに準備しといた方が良いかなー」
「了解っす……。はぁー疲れた……」
 慣れないライブツアーに七星くんは疲れを溜め込んでいるようだ。
 僕も人の事は言えないけれど、彼は目に見えて疲れているようだ。
 彼を見送ると僕は一人で中央線のホームに取り残された。
 明日には愛衣や大学の友人たちと会う約束をしていたけれど、久しぶりの暇な時間は僕を酷く孤独な気持ちにさせた。
 『バービナ』のツアーは予想以上の盛況ぶりだった。
 元々、当日券も用意して対応する予定だったが前売りで全てのチケットは捌けてしまったらしい。
 これに関して、大叔母も京極さんも予想外だったらしく二人は顔を見合わせていた。
 京極さんは「キャパシティが少ない会場とはいえ嬉しい悲鳴だよ」と複雑そうに喜んでいた。
 名古屋、大阪、福岡、仙台、札幌の各公演大盛況だったけれど、特に札幌での公演は大人気だった。
 『バービナ』のメジャーデビューのきっかけが北海道地方局のテレビ番組の主題歌だったから当然なのだろうけれど、それにしても引くぐらいの盛り上がりだった。
 まぁ何にしても、今回のツアーで『バービナ』の知名度はかなり上がったのではないだろうか?
 僕としてもそれは嬉しい。
 そして、このツアー中にささやかな変化が一つあった……。
 僕は新宿駅を後にすると山手線で池袋の自宅に戻った。
 この夏の暑さで僕のアパートの中は熱が隠っていて、なんとなく嫌な臭いがした。
 久しぶりに部屋の換気と掃除をしなければいけないだろう。
 僕は窓を全開にして部屋掃除を始めた。家具をずらして埃を払い、いらない書類やゴミをまとめる。Tシャツがシミになるくらい汗をかいてしまった。
 部屋掃除を終えると僕は窓を閉めて冷房を付けた。
 汗をかいたせいで冷房が酷く寒い。
 仕方がないので僕は一度シャワーを浴びて着替える事にした。
 このまま濡れたTシャツで冷房に当たっていたら風邪を引いてしまう……。
 シャワーを浴びているとツアーでの疲れが水滴になって排水溝に流れていくような気持ちになった。
 思い返せば、ツアー中も温泉に入ったり、打ち上げで盛り上がったりしたけれどずっと気を張っていた。
 本来の僕は独ぼっちが好きなのだ。
 愛衣は別してそれ以外の人間と泊まりがけで出掛けると気が休まらない。
 髪をシャンプーでしっかり洗い、身体もボディソープで隈無く洗った。
 別に不浄な場所に行った訳ではないのだけれど禊ぎのように身体中ピカピカに磨き上げる。
 浴室を出ると、バスタオルで水滴を拭って新しい下着に着替えた。
 洗面所の鏡に映る僕の顔には疲れを称えるような隈がしっかり付いている。
 今日ぐらいはしっかり睡眠を取った方が良さそうだ。
 浴室から自室に戻って携帯を確認すると着信履歴があった。
 画面に表示されている名前は『京極裏月』。
 僕は履歴画面を開くと彼女に電話を掛けた。
『もしもし? ごめーん忙しかった?』
 聞き慣れた声が聞こえた。
 京極さんは今日も元気らしい。
「大丈夫ですよー。すいません、シャワー浴びてました」
『ああ、お風呂中だったのね。ごめんごめん。のんちゃん無事自宅戻れたか心配してたんだー』
 どうやら彼女は僕の事を心配して電話を掛けてくれたらしい。
「ご心配してくださってありがとうございます。さっき七星くんを新宿駅まで送ってきて帰ってきたところですよ」
『そっかー。七星送って行ってくれたんだねー。さんきゅ』
「いえいえ、京極さんこそ大丈夫ですか? まだお仕事中ですよね?」
『うーん……。今日一日くらいは忙しいかなー。明日から連休貰うけどねー』
 一体何連勤なのだろう?
 彼女はもう何ヶ月も休んでいない気がする。
「休みの日はゆっくりしてくださいね」
『ありがとー。私も明日から帰省するから三日ぐらい東京離れるねー』
 そう言うと京極さんは電話を切った……。
 帰省が出来るのが嬉しいようで、彼女の声はいつもより軽やかに聞こえた。
 気が付くと京極さんは僕の事を名前で呼ぶようになっていた。
 確かアレは、大阪公演からだった気がする。
 僕はあの日の夜の事を思い出していた。
 京極さんの目に光が戻った日の事を——。
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