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21 妥協のロジック
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「いいよ。聞いてあげる」
京極さんは僕の目を穏やかで強い眼差しで覗き込んできた。
「とても簡単な話です。それにこの提案には今現在何の意味もないと思います」
「……。いいよ。言ってごらん?」
彼女はポニーテールの髪を一度解いてから梳かすとヘアゴムでもう一度結んだ。
これは彼女のクセのようなもので、何か気持ちを整理する前はこんな仕草をした。
「もし、松田さんが復帰出来る状況になった場合、『バービナ』を脱退させてください。それだけです」
僕の言葉に彼女の顔が曇るのが一瞬でわかった。
眉間に皺が寄り、優しかった目が僕の事を睨めつけるような強い視線に変わる。
「は?」
明らかに喧嘩腰だ。
少し気圧されそうになる。
「京極さんとしては僕を単なるドラマーで且つ、松田さんの穴埋めとさえ思ってないじゃないですか? 正直、僕はそれが気に入らないんです」
「うん? それで?」
彼女がイライラしている事が手に取るようにわかった。
手に持っているタバコのフィルターに力が入りすぎていて少し折れ曲がっている。
「僕だって京極さんの意思や意向に逆らおうとは思いません。でも、せっかくメンバーに迎え入れられたのに僕の立場はあまりにも中途半端だと思うんですよ……。外部のメンバーでもなく、松田さんの代替品でさえない……」
「気にいんねーなら辞めればいいよ……。何回も言ってっけど、竹井くんに大志の代わりは務まんねーし、そんな事これっぽっちも期待なんかしてねーから!」
京極さんが怒りを抑えている。
本当は胸ぐらを掴みたいぐらいだろう。
多賀木さんや七星くんの話では彼女は本来、かなり気性が荒いらしい。
「ええ! 気に入らないですね! というより僕はあなたのその中途半端な覚悟が気に入らないんです! 松田さんが大事で彼の事をいつも考えているのに、無理矢理彼の事を忘れようとしている」
ドァン!
京極さんは激しくテーブルを叩いた。
大きな音がタリーズの店内に響き渡る。
一瞬、周りの客と店員が僕たちの方を向いたが、彼女が睨みつけるとみんな視線を逸らした。
「……。つーかさ……。それと大志の復帰となんの関係があんの!? 君は何が望み!? 私はどう足掻いたって大志の事忘れねーし、これからもそれを背負って行くって決めてんだ! 会って一ヶ月かそこらのガキにそんな事言われる筋合いねーと思うけど!?」
彼女は荒げた声でそう言うと力が抜けように椅子に目深に座った。
「僕は何も京極さんと喧嘩したい訳じゃないんですよ……。確かに出会って間もないですけど、あなたの事は尊敬もしてるし人としてもすごく好きです。ただ……。辛そうにしているあなたを見ているのは僕も辛いんです……」
彼女は俯いて黙り込んでいた。
前髪で隠れて彼女の表情が読み取れない。
さっき、テーブルを叩いたので店員も他の客も意識的に僕たちの居るテーブルを避けているように見えた。
「あのね……竹井くん」
「はい……」
先に口を開いたの京極さんだった。
彼女はさっきとは違って静かな口調で淡々と続ける。
「私だってわかってるんだよ? おそらく大志は復帰できない……。彼自身もそれは理解してるからね。でもどうしても私はそれを認めたくないんだ。認めちゃったら何か大切なものが壊れちゃいそうな気がしてさ……」
「わかりますよ……。僕はあなたたちがどれほど信頼を寄せ合っていたのかは知りませんが、僕が完全に入る事で彼の帰る場所がなくなる事に抵抗があるんですよね?」
彼女は折れ曲がったマルボロに火をつけると苦そうに煙を吐き出した。
「抵抗……。そうかもね……。でも難しいんだー。もし大志に縋り続ければ竹井くんに申し訳ないと思うし、かといって完全に大志の代わりだって君の事を認める事も出来ない……。確かに君の言う通り、中途半端かもね……」
彼女の苦悩は僕が推し量るにはあまりにも重い。
グレーゾーンの感情にいつも苛まれてきたという事は確かなようだが、それにしたってこれは拷問だと思う。
「別に松田さんの事忘れたりする必要はないと思います……。むしろ忘れちゃいけないと思うし……」
彼女は嫌そうな苦笑いを浮かべた。
そしてため息を吐く。
「あーあ、やっぱり私は『まともな人間』にはなれないらしいね……。いっつも中途半端……」
彼女は肩を落として黙り込んだ。
どうしてあげるのが正解なのだろうか?
そもそも正解なんてあるのだろうか?
これは物理的あるいは行動的問題ではない。
だからこそ解決するためには彼女自身に決めてもらうしかないだろう……。
「妥協してくださいませんか?」
「妥協?」
僕はあまりにも不誠実で誰も得をしない選択肢を彼女に提示する事しか出来なかった。
「そうです。さっき話した僕の案を飲んでください。あなたは松田さんの事が大切で、僕の事を正式な『バービナ』のメンバーとは永遠に認めないでしょう……。それはそれで構いません! でも、松田さんにも僕にも後ろめたい気持ちを持ち続けるなんてあまりにも辛すぎます」
彼女は言葉にこそしなかったけれど僕に話の続きを促すような仕草をした。
「とりあえずで構いません。期限付きで僕を松田さんの代替品にしてください。それであれば僕は精一杯あなたに着いて行きます! それ以上何も望みません。どうですか?」
実に不毛だと思う。
この提案自体間違っているのだ。
松田大志はきっと復帰はしないだろう。
でも少しでも縋り付けるものがあるなら京極さんは決して彼を諦めないはずだ。
いや、諦められないはずだ。
「私だってわかってんだよ! 大志はもう戻らない! でもどうしても彼ともう一度一緒に演奏したいんだ。彼と一緒にたくさん演奏して、たくさん笑って、たくさん喧嘩して、たくさん打ち上げして、たくさん罵り合って、たくさん……」
そこまで話した京極さんの左目からは一筋の涙の筋が浮かんでいた。
彼女はどうしても彼が好きで、彼の事を大切に思って、彼の事が忘れられなくて、彼の事が……。
「京極さん……。どうか松田さんの事を諦める事を諦めてください。きっとあなたは生涯彼の事を諦めきれないと思います。だから、せめて僕に対する後ろめたさは持たないでください。それでも気に入らないようであれば、今すぐにでも僕は『バービナ』から出て行きます……」
そのあと彼女は一言『考えさせて……』とだけ言ってそれ以上何も言わなかった。
僕は諦めて席を立つと彼女を残してタリーズコーヒーを後にした。
それでも帰りがけ、僕は彼女の変化に少しだけ気が付く事が出来た。
本当にささやかで、小さな変化。
彼女の瞳には本当に小さな光が宿っていたのだ……。
京極さんは僕の目を穏やかで強い眼差しで覗き込んできた。
「とても簡単な話です。それにこの提案には今現在何の意味もないと思います」
「……。いいよ。言ってごらん?」
彼女はポニーテールの髪を一度解いてから梳かすとヘアゴムでもう一度結んだ。
これは彼女のクセのようなもので、何か気持ちを整理する前はこんな仕草をした。
「もし、松田さんが復帰出来る状況になった場合、『バービナ』を脱退させてください。それだけです」
僕の言葉に彼女の顔が曇るのが一瞬でわかった。
眉間に皺が寄り、優しかった目が僕の事を睨めつけるような強い視線に変わる。
「は?」
明らかに喧嘩腰だ。
少し気圧されそうになる。
「京極さんとしては僕を単なるドラマーで且つ、松田さんの穴埋めとさえ思ってないじゃないですか? 正直、僕はそれが気に入らないんです」
「うん? それで?」
彼女がイライラしている事が手に取るようにわかった。
手に持っているタバコのフィルターに力が入りすぎていて少し折れ曲がっている。
「僕だって京極さんの意思や意向に逆らおうとは思いません。でも、せっかくメンバーに迎え入れられたのに僕の立場はあまりにも中途半端だと思うんですよ……。外部のメンバーでもなく、松田さんの代替品でさえない……」
「気にいんねーなら辞めればいいよ……。何回も言ってっけど、竹井くんに大志の代わりは務まんねーし、そんな事これっぽっちも期待なんかしてねーから!」
京極さんが怒りを抑えている。
本当は胸ぐらを掴みたいぐらいだろう。
多賀木さんや七星くんの話では彼女は本来、かなり気性が荒いらしい。
「ええ! 気に入らないですね! というより僕はあなたのその中途半端な覚悟が気に入らないんです! 松田さんが大事で彼の事をいつも考えているのに、無理矢理彼の事を忘れようとしている」
ドァン!
京極さんは激しくテーブルを叩いた。
大きな音がタリーズの店内に響き渡る。
一瞬、周りの客と店員が僕たちの方を向いたが、彼女が睨みつけるとみんな視線を逸らした。
「……。つーかさ……。それと大志の復帰となんの関係があんの!? 君は何が望み!? 私はどう足掻いたって大志の事忘れねーし、これからもそれを背負って行くって決めてんだ! 会って一ヶ月かそこらのガキにそんな事言われる筋合いねーと思うけど!?」
彼女は荒げた声でそう言うと力が抜けように椅子に目深に座った。
「僕は何も京極さんと喧嘩したい訳じゃないんですよ……。確かに出会って間もないですけど、あなたの事は尊敬もしてるし人としてもすごく好きです。ただ……。辛そうにしているあなたを見ているのは僕も辛いんです……」
彼女は俯いて黙り込んでいた。
前髪で隠れて彼女の表情が読み取れない。
さっき、テーブルを叩いたので店員も他の客も意識的に僕たちの居るテーブルを避けているように見えた。
「あのね……竹井くん」
「はい……」
先に口を開いたの京極さんだった。
彼女はさっきとは違って静かな口調で淡々と続ける。
「私だってわかってるんだよ? おそらく大志は復帰できない……。彼自身もそれは理解してるからね。でもどうしても私はそれを認めたくないんだ。認めちゃったら何か大切なものが壊れちゃいそうな気がしてさ……」
「わかりますよ……。僕はあなたたちがどれほど信頼を寄せ合っていたのかは知りませんが、僕が完全に入る事で彼の帰る場所がなくなる事に抵抗があるんですよね?」
彼女は折れ曲がったマルボロに火をつけると苦そうに煙を吐き出した。
「抵抗……。そうかもね……。でも難しいんだー。もし大志に縋り続ければ竹井くんに申し訳ないと思うし、かといって完全に大志の代わりだって君の事を認める事も出来ない……。確かに君の言う通り、中途半端かもね……」
彼女の苦悩は僕が推し量るにはあまりにも重い。
グレーゾーンの感情にいつも苛まれてきたという事は確かなようだが、それにしたってこれは拷問だと思う。
「別に松田さんの事忘れたりする必要はないと思います……。むしろ忘れちゃいけないと思うし……」
彼女は嫌そうな苦笑いを浮かべた。
そしてため息を吐く。
「あーあ、やっぱり私は『まともな人間』にはなれないらしいね……。いっつも中途半端……」
彼女は肩を落として黙り込んだ。
どうしてあげるのが正解なのだろうか?
そもそも正解なんてあるのだろうか?
これは物理的あるいは行動的問題ではない。
だからこそ解決するためには彼女自身に決めてもらうしかないだろう……。
「妥協してくださいませんか?」
「妥協?」
僕はあまりにも不誠実で誰も得をしない選択肢を彼女に提示する事しか出来なかった。
「そうです。さっき話した僕の案を飲んでください。あなたは松田さんの事が大切で、僕の事を正式な『バービナ』のメンバーとは永遠に認めないでしょう……。それはそれで構いません! でも、松田さんにも僕にも後ろめたい気持ちを持ち続けるなんてあまりにも辛すぎます」
彼女は言葉にこそしなかったけれど僕に話の続きを促すような仕草をした。
「とりあえずで構いません。期限付きで僕を松田さんの代替品にしてください。それであれば僕は精一杯あなたに着いて行きます! それ以上何も望みません。どうですか?」
実に不毛だと思う。
この提案自体間違っているのだ。
松田大志はきっと復帰はしないだろう。
でも少しでも縋り付けるものがあるなら京極さんは決して彼を諦めないはずだ。
いや、諦められないはずだ。
「私だってわかってんだよ! 大志はもう戻らない! でもどうしても彼ともう一度一緒に演奏したいんだ。彼と一緒にたくさん演奏して、たくさん笑って、たくさん喧嘩して、たくさん打ち上げして、たくさん罵り合って、たくさん……」
そこまで話した京極さんの左目からは一筋の涙の筋が浮かんでいた。
彼女はどうしても彼が好きで、彼の事を大切に思って、彼の事が忘れられなくて、彼の事が……。
「京極さん……。どうか松田さんの事を諦める事を諦めてください。きっとあなたは生涯彼の事を諦めきれないと思います。だから、せめて僕に対する後ろめたさは持たないでください。それでも気に入らないようであれば、今すぐにでも僕は『バービナ』から出て行きます……」
そのあと彼女は一言『考えさせて……』とだけ言ってそれ以上何も言わなかった。
僕は諦めて席を立つと彼女を残してタリーズコーヒーを後にした。
それでも帰りがけ、僕は彼女の変化に少しだけ気が付く事が出来た。
本当にささやかで、小さな変化。
彼女の瞳には本当に小さな光が宿っていたのだ……。
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