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19 服を買いに行くために着ていく服がない

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 多賀木純の話の続き。

 それから一ヶ月後、俺たちは上京した。
 大志は入社してからすぐに新人研修で忙しくなり、バンド活動との両立に苦労していた。
 ちなみの俺も忙しくはあったけどれど、そこまで雁字搦めではなかった。
 やはりマリさんも人の親なのだろう。
 悪い言い方をすればえこひいきしてくれたのだ。
 そして京極さんは……。
「あーもうできないよー!!」
 京極さんはエクセルのシートと睨めっこしながらだだっ子のようにごねた。
「えーとね……。それは違うよ。選択範囲間違ってる……」
「えー! だってここからここまで押しっぱで引っ張るんじゃん? そしたらできんじゃねーの?」
 京極さんはさっきと同じように範囲指定をして画面を突きながら文句を言った。
「いやいや、そうではなく……」
 俺は一回手本を見せるように操作方法を説明するともう一度彼女にやってもらった。
「えーと、えーと……。あ、できた!」
 やれやれだ。
 範囲選択でここまで時間が掛かるんじゃ先が思いやられる……。
 その日、俺はパソコンを教えるために京極さんのアパートを訪れていた。
 彼女の部屋は引っ越ししたてという事もあり綺麗に整理整頓されていた。
 意外な事に彼女の部屋には可愛らしいぬいぐるみが置いてあった。
「じゃあ次は簡単な計算式教えるね」
「はい! 多賀木先生お願いします!」
 彼女のパソコン操作の技術は驚く程酷かった。
 マウスの使い方さえよく理解していないらしい。
「あ、京極さんそうじゃなくて、そこは右クリックね」
「ミギクリック?」
「んーとね……。マウスってボタン二つあるでしょ? その右側のボタンを押すんだよ」
 京極さんは顔を真っ赤にしながら四苦八苦している。
 時間は掛かるけれど一個一個操作を説明しながらやってもらうしかないだろう。
 彼女はその度、怒ったり喜んだりしながらパソコンと睨めっこしていた。
 かれこれ二時間ぐらい掛かっただろうか?
 簡単な計算式が入ったエクセルシートがようやく完成した。
「ジュン助かったよー! ありがとー」
「気にしないでいいよ。困った時はお互い様だし……。でも京極さんはもうちょっとワードとエクセルの使い方は覚えた方が良いかな?」
「だよねー……」
 彼女は本当に頭を抱えながら机に突っ伏した。
「まぁまぁ、そんなに気を落とさないでよ! ちゃんと勉強すれば出来るようになるからさ」
「だといいんだけど……」
 そう言うと彼女はゆっくり立ち上がった。
「コーヒーでいい?」
「うん。ありがとう」
 彼女はキッチンにあるエスプレッソマシンでコーヒーを作ってくれた。
「じゃあ一服しよー!」
 彼女はコーヒーを飲みながらマルボロに火をつけると一気に脱力した。
「京極さんよく頑張ったねー。また困った事あったら言ってよ! 出来る事ならしてあげるよ」
「うん……」
 彼女は静かにそう言うと、難しい顔をしてタバコの煙を吐き出した。
「ジュンさー。私本当にヤバいかもしんない!」
「え? ヤバいって何が?」
「全部!」
 全部?
 全部ヤバいってどういう状態なのだろうか?
「ごめん……。もう少し具体的に教えてもらっても良いかな?」
「あーね……。ごめんごめん。いやさー、付き人始めて気が付いたんだけど私って本当に世間一般の常識がないんだなーって思ったんだよね……」
「うん? それで?」
 俺は続きを促す。
「それでさー……。『アフロディーテ』の関係者に色々と説明受けるんだけど、正直まったく理解出来ないんだ……」
 京極さんは短くなったタバコを一気に吸い込むと宙に向かって吐き出した。
「入ったばかりだししょうがないと思うよ? みんな最初はそんな感じだって」
「いやいや! そういうレベルの話じゃないんだ。なんて言うか……。知っていて当然の事を知らないって言うのかな……? そんな感じなんだよ……。わかる?」
 彼女の言いたい事が何となく理解出来た。
 知識を得るための知識が足りないのだろう。
「なるほどねぇ……。言いたい事はなんとなくわかるよ。理解する前段階の知識がないから余計理解出来ないって感じだよね?」
「んー……? そうかな? そんな感じ……。だと思う……」
「そうだねー……。もっと具体的な例で例えると『服を買いに行くために着ていく服がない』って感じかな?」
 俺の例に京極さんは「それだよ! それ!」と言って腑に落ちたように頷いた。
「それは難しい問題だよねー。みんなわかってる前提で話を進めるからどんどん置いて行かれちゃうもんね……」
「そーなんだよー! ジュンは知ってるだろうけど私って本当に馬鹿じゃん? でもみんなそんな事知らないし……。どうしたらいいかな……」
 京極さんは本当に困っているようだった。
 『服を買いに行くために着ていく服がない』問題は本当に根深いのだ。
「まず一つ言っておくけど、京極さんは馬鹿じゃないと思うよ? あんまり意識した事ないだろうけど、作詞、作曲、演奏ができる人間は俺たちが思っているよりずっと少ないんだ」
「そーかなー……。でも私ってそれ以外できないし……」
「まーねー、でも得意不得意は誰にでもあると思う……。その中で京極さんは音楽的才能は抜群だけど、それ以外が苦手って事なんだよね……」
 きっと京極さんはこの事でずっと苦労してきたのだ。
 彼女の妹は世間一般の常識をバランス良く理解しているタイプのようだし、幼い頃からきっと比較されて育ってきたのだろう。
「何かいい方法ないかな……。本当に困ってるんだよ……。『わからない事あったら聞いて』って言われるけど、わからない事がわからないんだ……」
 どうしてあげるべきだろうか?
 パソコンの操作技術程度なら時間は掛かるけれどきっと教えられると思う。
 でも、わからない事、全てサポートするのはあまりに非現実的だ。
 それに俺だって全知全能な訳じゃない。神じゃあるまいし。
「とりあえず、シラミつぶししかないかな……。トライ&エラーを繰り返して覚えて行くしかないと思う」
「そっか……」
 京極さんは「はぁー」と力が抜けたようにため息を吐いた。
「とにかく! まずはメモとって来なよ! それが何なのかわからなくてもいいからさ! で! 『バービナ』のミーティングの時に俺か大志に相談するといいよ! 少しはマシになると思うしね……」
「うん……。ありがとうジュン」
 俺は彼女の抱えている問題を少しでも解決したいと思っていた。
 物事を理解するベースの部分をサポートするのは時間も掛かるし根気もいるだろう……。
 それから京極さんは必死に勉強していた。
 パソコンに始まり、マーケティング・ビジネスマナーなどなど……。
 必要に迫られれば出来るようになるというのは本当らしい。
 俺と大志は京極さんに山のように質問されたし、その度時間を掛けて勉強会をした。
 彼女は俺の言った通りメモを取って、わからない事がわからないままにならないように必死に努力していた。
 ただ……。
 これは彼女にとって明らかなキャパシティーオーバーのようだった。
 本来の彼女の持ち味は他人のマネージメントや新しい企画を立てる事ではない。
 彼女の持ち味は、力強くて共感を覚えるような歌詞を書き、ポップで華やかな曲を作り、抜群のテクニックでギター演奏して、その特徴的な綺麗な声で歌う事だ……。
 結果だけ見れば、彼女はどうにかこうにか業界で生きて行く術を学べたようだ。
 ただし、そのために支払った代償はかなり大きかったと思う。
 その代償のせいで彼女は、本来のポテンシャルを発揮するエネルギーが足りなくなってしまった。
 まぁ、これに関しては鴨川月子に一番の原因があった訳だが……。
 とにかく、京極さんは今現在も毎日必死にやっている。
 でもこのまま行けば確実に彼女は潰れてしまうだろう。
 今の彼女の状態は猫に首輪を付けて庭の猫小屋で飼うくらいナンセンスな話だと思う……。
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