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15 愛の高山トレーニング

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 七月末。
 僕は重装備で中央線に乗っていた。
 ノースフェイスのトレッキングウェアを着るのは本当に久しぶりだ。
 隣には愛衣が居る。
「のんちゃん水筒持ったー?」
「ああ、持ってきたよ。準備は万端!」
 愛衣もトレッキング用の動きやすいウェアに身を包んでいる。
 彼女は大学でも山岳部に入ろうかと迷うほどの山好きで装備は完璧に近かった。
「今日は晴れてよかったねー! のんちゃんが山登りなんか誘うから雨が降るかと思ったけど……」
「いやいや……。どっちかって言うと僕は晴れ男だよ」
「インドアのくせにねぇ」
 その日、僕たちは二人で山登りをする事になっていた。
 高尾山なのでそこまで重装備である必要はないのだけれど、僕も愛衣に合わせて今回は軽装を避けた。
 いつもなら愛衣が誘って僕が嫌々着いて行くような流れだけれど、今回は僕から彼女を誘った。
「でもなんで山登りなんか……。のんちゃん何かあったの?」
 愛衣は自身のトレッキングシューズを眺めながら僕に聞いてきた。
「なんとなくね……。ほら、今度の長瀞旅行も行けないしさ。たまには一緒に出かけようと思ったんだ」
「ふーん……」
 愛衣は素っ気なさそうにそう言ったけれど今日の機嫌は良いらしい。
 学内で話している時より楽しそうだし鼻歌交じりだ。
「高尾山なんて何年ぶりだろ? 私たち二人で行くの中学ん時に遠足で行ったのが最後だよね?」
「そうだね……。アレ以来行ってない」
 僕は愛衣と中学時代の思い出話をした。
 どこそこに出掛けたとか、あの映画が良かったとかそんな他愛のない話。
 彼女は僕が思い出話をする度に「そうそう!」とオーバーリアクションして懐かしそうに笑った。
「あーあ……。気がつけばウチら、もうすぐ二〇代だよ……。早いよねー」
「そーだねー。来年は成人式だ……。あいちゃんは振り袖とかもう用意したの?」
「してるよー! 最初はウチのお姉ちゃんのお下がりにされそうだったんだけど、おばあちゃんが買ってくれたんだー!」
 僕は愛衣の振り袖姿を何となく想像した。彼女なら暖色の振り袖が似合うはずだ。
 彼女と会話をしていると、この前の事が少しだけ薄まって気が楽になった。
 例の病室での一件以来、京極さんとは一回も会っては居ない。
 彼女からの連絡もなく、多賀木さんから聞いた話だと今は丁度忙しいようだ。
 正直な話、僕は京極さんと会った時にどんな顔をしたら良いのかわからなくなっていた。
 別に彼女に直接何か言われた訳ではないのだけれど、喉元に突っかかってとれないような気持ち悪い感覚が拭きれずにいたのだ。
 電車はそんな僕の気持ちを置いて行くように着実に高尾に向かって進んで行った——。
「着いたねー!」
 高尾駅の改札を抜けると愛衣は大きく背伸びをした。
「やっぱり夏休みだから登山者多いねー」
 駅前は僕たちと同じような服装の登山客で賑わっていた。
 土産物屋も書き入れ時のようで、店員が店の外まで出て客引きをしている。
「よーし! じゃあ出発だね! 今日は天気も良いし富士山見えるかもよ!?」
 愛衣は嬉しそうにはしゃいでいる。
「あいちゃんは元気だねー」
「はいはい! おじいちゃんみたいな事言わないで元気に行くよー」
 そうして僕たちは登山口から登り始めた……。
 相変わらず愛衣は上機嫌だ。
 この前まで彼女からの誘いを一切断っていたのでその反動かもしれない。
「んー……。やっぱり高尾山くらいじゃ物足りなかったかもねぇ」
「そうかなー。僕はちょうどいいよ」
 僕たちの登山ペースは順調だった。
 途中で何人か追い抜けるくらいのペースだ。
「のんちゃんさー。バンドで何かあったの?」
「へ?」
 愛衣は登山のスピードを緩める事なく僕に尋ねてきた。
「だってさー。『バービナ』の話……。今日全然してないじゃん! いつもはもっとしてるのにさ!」
 完全に無意識だった。
 確かに愛衣と話している時はバンドの話を毎回していた気がする。
「んー……。まぁ色々とね……」
「あのさー。別にウチら気を使う仲でもないじゃん? 何があったのか言ってごらん?」
 愛衣は少し強めな口調だ。
「そうだね……。じゃあ山頂着いたらね」
「わかった! じゃあ急ごうか!」
 その後、愛衣は急激に登山ペースを上げた。置いていかれそうになる。
 思い返せば愛衣は幼い頃から運動少女だった。
 運動会ではリレーのアンカーになっていつもぶち抜きで一位になっていたし、体育の授業で球技をしても毎回活躍していた。
「はぁ、はぁ……。あいちゃん……。早いって……」
 僕はすっかり息を切らせていた。いくら何でも早すぎる。
「だらしないなー。この程度の登山で息が上がるなんて運動不足なんじゃないの?」
 一体どういう身体の作りをしているのだろう。
 彼女は息一つ切らしていない。
「仕方ないねー。じゃあ薬王院で少し休んで行こうか? あそこならベンチぐらいあるだろうし」
 僕はどうにか息を切らしながら薬王院を目指した。
 愛衣がなんて事なく登っているのが恐ろしくなる……。
 薬王院に着くと僕たちは参拝がてら休憩する事にした。
「……。だいじょうぶ?」
「はぁ、はぁ……。あんまりだいじょばないかな……」
「ま、ゆっくり休みなよ! 落ち着いたら山頂まで行こう!」
 勘弁してもらいたい。
 僕は素直にそう思った。
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