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11 FIAT500

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 僕たちは大学構内にある駐車場へと向かった。
「へー……。本当にブルジョワだったんだねぇ。外車じゃん!」
 京極さんは僕のフィアットをぐるっと一回りしながら物珍しそうに眺めていた。狭いリアシートも食い入るように見ている。
「大叔父のお下がりですよ」
「西浦さんの元旦那の?」
「そうです……。あの二人が別れる前に貰いました」
 このフィアットは大叔父が数年前に趣味に買った車だった。
 大叔父に冗談半分で「ほしいなー」と言ったら、本当にその車を贈って寄越したのだ。
 貰った当時は僕もまだ高校一年生だったし、免許を取るまでただの飾りでしかなかった。(高価なおもちゃだとは思う)
 高校生活の約二年ほどの間、僕は運転席に座ったり洗車したりして運転する自分を想像して楽しんでいた。やる事が子供っぽかった気もするけれど……。
 そして高校最後の春休みに免許を取って、晴れて僕の愛車となった訳だ。
「やっぱ金持ちは違うよねー。私の実家は貧乏だったからマジで羨ましいよ。ま、西浦さんとこなら仕方ない気もすっけどさ」
「いきましょう」
 僕は彼女の言葉を流すと車に乗るように促した。
 大叔母夫妻は二年ほど前に離婚していた。
 両親の話を盗み聞きした感じだと円満離婚ではあったらしい。
 円満離婚。不思議な言葉だ。
 京極さんは「お邪魔します」と言って助手席に座った。
「狭くないですか?」
「んー? 平気ー」
「あ、シートベルトお願いしますね! 助手席もしないと警告音がうるさいので」
 僕がそう伝えると京極さんは気怠そうにシートベルトを締めて少し座席を倒した。
「では……。いきますか……」
 僕は愛車のセルを回すとギアを一速に入れてアクセルを吹かした。
「いーなー! 私も去年免許取ったんだけどペーパーなんだよねー。車欲しいなー」
「京極さんはどんな車が欲しいんですか?」
 僕の質問に彼女は「うーん」と唸って考え始めた。
「そだね……。私は国産車が欲しいかなー。ネットで調べたらコペンとかロードスターがカッコいいと思う!」
 コペン……。ロードスター……。
 どちらも国産メーカーのコンバーチブルだ。
「スポーツカー好きなんですか?」
「スポーツカーが好きってよりあの形が好きなんだよねー。特にコペン可愛いし楽しそうじゃん?」
 実に彼女らしい。
 確かにコンバーチブルのスポーツクーペは彼女に似合っている気がする。
 他愛の無い話をしているうちに車は明治通りへと出た。
 池袋の街はいつものようにゴミゴミしている。
 最初こそ抵抗があったけれど、住んでみると意外と住みやすい街だと思う。
「二〇分もあれば着くよねー」
「そうですね……。混雑次第ですけど早ければそれくらいだと思います。約束は何時なんですか?」
「約束は九時過ぎだから全然余裕あるよー」
 現在時刻は夜の七時半、むしろ時間が有り余ってしまうだろう。
「そういえばどうかな? ウチらのバンド!」
 京極さんは僕の方を向かずに歩道を眺めたまま尋ねてきた。
「そうですね……。皆さん面白い方なので楽しいですよ」
「そう……。当たり障りのない回答ありがとう……」
 当たり障りのない回答。
 またしても皮肉だ。
「本当に不満とかないですよ? たしかに七星くんには少し困りものですけど、あれが彼の個性なんでしょう。僕としては許容の範囲内です」
「キョヨウノハンイナイ……」
 彼女は片言でオウム返しのように言うと深いため息を吐いた。
「むしろ僕が役に立ってるかが疑問ですね。だって僕まだ練習以外で『バービナ』の活動に参加した事ないですから」
 実際、僕はバンド活動らしい活動はしていない。
 ただセッションを何回かしただけだ。
「心配いらないよ! それに関しては七星も同じだから! むしろデビュー前から業界に携わってる私やジュンの方がイレギュラーだしさー」
 確かに彼女の言う通りだと思う。
 デビュー前から業界にここまで携われる人間なんてあまりいないだろう。
 京極さんはあの『アフロディーテ』の側にいつも居た訳だし、多賀木さんだって芸能界に携わってきたのだ。
「とにかくね! 八月が大事なんだよ! 八月! そこでウチらの命運が決まると言っても良い! 竹井くんは肝が据わってるから問題ないだろうけど、意識だけはしてほしいかなー」
「僕は出来る事を精一杯やるだけです……。というよりそれ以外できません」
「それでいいよ。『出来る事を頑張る』以上の努力なんて何一つ存在しないんだから」
「はい! 全身全霊頑張ります」
 全身全霊と言ってみたもののやる事は単純だ。
 本当に出来る事しか僕には出来ないだろう。
 ある意味において、これは諦めのようなものではないだろうか?
 やるべき事とやらなくていい事をきちんと決めて実行する。
 ただそれだけだ。
「ま、一つだけ付け加えるとしたら……」
 京極さんはそう言うと自分の中から言葉をひねり出すように付け加えた。
「やりたくない事はやらない事だよ! 君はやりたい事だけしてくれれば良い。もちろん、演奏とかイベントではある程度の形式には従ってもらうけれど、演奏のアレンジとか自分なりのやり方が見つかったら好きにやってほしい」
「……。つまりルール上なら自由に動けって事ですか?」
「そそ! 物わかりが良くてほんと助かるよ!」
 彼女は簡単にまとめた僕の言葉に嬉しそうに同意してくれた。
 すっかり見慣れてしまったけれど、そんな彼女の仕草は一つ一つ可愛らしいものだった。
 多賀木さんと七星くんの話だとこれでだいたいの男は落ちたとか落ちなかったとか……。
 多賀木さん曰く、『魔性の女』らしい。
 眉唾な気もしたけれど、今の彼女を見ていると少し真実味があると思う。
 三〇分くらい車を走らせると新宿駅付近までたどり着いた。
 多賀木さんとの待ち合わせは甲州街道付近のロイヤルホストらしい。
「だいぶ早い到着ですね」
「そだねー」
 僕は車をロイヤルホストの駐車場に入れると「着きました」と独り言のように呟いた。  
「ありがとー……。助かったよ」
「いえいえ」
「竹井くんさー。まだ時間ある?」
 彼女はシートベルトを外しながら僕にそう尋ねてきた。
「大丈夫ですよ。何か?」
「送ってくれたお礼に飯でも奢るよ! 今日竹井くんドーナツくらいしか食ってないんでしょ?」
 確かに今日は昼におにぎりを食べた後はオールドファッションドーナツしか食べてはいなかった。
 しかし……。
「ありがたいですが……。多賀木さん来るのにまずくないですか?」
「いーんだよ! ジュンも君もメンバーなんだから構わないって! それより何より私から聞きたい事あるんでしょ?」
 彼女はその長い黒髪を掻き上げながら僕の眼を覗き込んできた。
 くっきりとした二重で、黒目がちな大きな瞳……。
 慣用句通り、吸い込まれそうな瞳だ。
「聞きたい事ですか?」
 彼女が言わんとする事の意味を僕は理解していた。
 でも、あえて聞き返したのは「本当に話して問題ないのか?」の確認だ。
 そしてその事を彼女自身も感じていたのだろうと思う。
「今日はちゃんと話してあげるよ。君がずぅーと気にしてた『大志』の事をね」
 そう言う彼女の瞳は初めて会ったあの日と同じだった。
 忘れ去られ、うち捨てられた古井戸のように暗闇で満たされていた——。
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