上 下
6 / 28

5 血の祝宴

しおりを挟む
多賀木純の話。

 松田大志。
 それが俺たちのバンドのドラムだった。
 俺と大志は小学生からの付き合いの幼なじみだ。
 実は京極さんや七星くんより大志とはずっと付き合いが長い。
 腐れ縁って奴だと思う。
 そんな大志が脱退するなんて俺は予想だにしなかった……。

 今年の四月上旬。
 『バービナ』のメンバーで集まってメジャーデビューの祝賀会をしていた。
 あの時は、京極さんも大志もすっかり出来上がっていた。まぁ、大志は酒に強いからそこまで酔っぱらってはいなかったけどね。
 でも京極さんは思いのほか酔っていたんだ。
 メジャーデビューが決まって相当嬉しかったんだろうね。
 大志は気遣いの人だから酔いすぎた京極さんを介抱してたんだ。
 だからだと思う。
 大志は彼女を風に当たらせるために外に連れ出したんだ……。
 部屋に残された俺と七星くんはぼーっと過ごしていた。
 二人が居なくなって、特にする事もなかったからね。
 大志と京極さんが出て行ってから三〇分ぐらい後かな?
 俺のスマホに京極さんから電話が掛かってきたんだ。
「はい! どうしたのー?」
 俺は軽い気持ちで彼女からの電話に出た。
 あれだけ酔っ払っていたし、ふざけて掛けてきたんだろうと思ったんだ。
 でも……。予想は見事に裏切られた。
『ジュン……。大志が……』
 彼女の声は酷く擦れていた。泣き腫らしたような声で、一瞬京極さんかどうか疑ってしまうほどだった。
「え? どうしたの? 大志が何?」
『大志が大怪我したの……。どうしよう……』
 京極さんは恐ろしく動揺していた。震えた声から酷い状況だと言う事がヒシヒシと伝わってくる。
「とりあえず京極さん落ち着いて! 今どこにいるの?」
「近所の公園……」
 俺は京極さんを宥めながら場所を確認すると、七星くんに留守を任せて彼女の元へと向かった——。
 京極さんと大志の姿を確認した俺は愕然とした。
 地べたには京極さんが潰されたように座り、その横で黒々しく濡れた大志が横たわっていたのだ。
 暗がりで二人の姿はよく見えなかったけれど、金属のような臭いが鼻をついた。
 嗅いだ事のある臭い……。血液特有の鉄臭さだ。
「京極さん! 救急車は呼んだ!?」
 自分でも不思議なのだけれど、俺は気持ち悪いほど冷静だった。
 目の前に広がる凄惨な光景がまるで他人事のようで、とりあえず怪我人を手当てする事以外は思いつかなかった。
 目の前で幼なじみが血まみれだというのに……。
 ヒドイハナシダ。
「うん……」
 京極さんは聞こえるか聞こえないか判らないような声で返事をした。
 そこに横たわる大志は微動だにしない。
 まるで公園の地面に最初から有った遊具のように固まっている。
「わかった! 今は救急車を待とう!」
 公園の中は木の葉が揺れて擦れる音だけがこだましていた。
 それ以外は何もない。
 地面に横たわる大志も含めて公園全体が寝息を立てているようだった――。
 通報して五分ほど経っただろうか?
 木の葉の揺れる音に混じって微かにサイレンが聞こえ始めた。
 サイレンは次第に大きくなり住宅街の奥から赤く点滅する光が近づいてくるのが見えた。
 これでようやく大志を病院に連れて行ける……。
 そう考えた途端、急に俺の頭に現状がリアルに感じられた。
 目の前に倒れ込んでいるのは俺の幼なじみで、その幼なじみは今生死の境を彷徨っている。そう考えると急に不安が俺の胸に込み上げた……。
 救急車が到着すると救急隊員がすぐに駆け寄ってきた。
「こっちです!」
 俺は駆け寄ってきた救急隊員に事情を説明すると大志を指差した。
 救急隊員は大志を手早く担荷に乗せるとベルトで固定して救急車に乗せた。
 俺と京極さんも一緒に乗り込み、一緒に救急病院へと向かう。
 病院に到着すると、あっと言う間に大志はストレッチャーで集中治療室へと担ぎ込まれていった。
 集中治療室の不気味な赤いランプが灯ると俺は酷く重たい気持ちになった。
 京極さんはそれからしばらくの間、放心状態だった。
 そこに居る京極さんは魂の抜けた人形のようにさえ見えた。
 事情聴取で来た刑事たちも彼女の姿を見ると「また来ます」と言って帰ってしまうほどに彼女は空っぽに見えた。
 京極さんは魂がどこかへ抜け落ちてしまったようだった。
 彼女にどんな言葉を掛けても脊髄反射的に「ああ」とか「うん」とかしか返ってこなかった……。
 その晩、俺たちは一睡もせずに病院の待合室で夜を明かした。
 ようやく医師に呼ばれたのは夜明け前だ。
 医師の話では幸いな事に命に別状はないらしい。あくまで命には。
 俺は医療的な事には詳しくないけれど、医者が話した内容は大旨理解出来た。
 医師の言葉には、これからの大志の人生の重さが含まれているように感じられた。
 重たくて歩く事さえままならないような人生が含まれていた。
「つまり命には別状はないけど、後遺症が残る可能性が高いって事ですね?」
 俺がそう言うと、医者は「そうです」と軽く返す。情感などまったくない。
 医者から話を聞いた後、京極さんは幾らか冷静さを取り戻したようだった。
「ジュン、悪いんだけれど今からする話を警察に伝えてほしい。私はここを離れる訳にはいかないからさ」
 彼女はそう言うと大志を刺した犯人について話してくれた……。
 案の定、翌日の午前中には昨日の刑事がやってきた。
 俺は彼らに事情を説明し、京極さんの代わりに事件の概要を説明した。
 刑事は目撃者本人から話を聞きたいと言っていたが断った。
 今、京極さんはそれどころじゃない。
 それから彼女は大志が目覚めるまでの間ずっと病院に寝泊まりをした。
 看護士たちが引くほど付きっきりで、その様子は本物の母親よりずっと母親らしく見えた——。
 大志が目を覚ましたのはそれから一週間後の事だ。
 最初は意識混濁していた大志も次第に以前のようにはっきりと話せるようになった。
 大志の居る病室からは花がほとんど散ってしまった桜の木が見えた。
 これから季節は夏に向かって駆け上がっていく事を象徴しているようだ。
 俺はそんな新芽の芽吹いた桜の木を眺めながら大志の横に座った。 
「まったくー! あんたが死んだらどうしようかと思ったよー!」
 大志の面会謝絶が解かれた頃、京極さんは戯けた口調で彼の頭を軽く小突いた。
「おいおい、少しは気遣えよ……。これでも重症患者なんだぞ?」
「ハハハハ、減らず口だよねー。ま、さっさと治してよね? 大志に手伝ってもらわないとバンド運営大変なんだからさ!」
 表面的には京極さんは元気そうだ。明るい笑顔で酷い言葉を吐いている。
「じゃあ大志! 私帰るからねー! 家帰って洗濯物しなきゃ!」
「おう! ありがとな!」
 そう言うと京極さんはニッと白い歯を剥き出して笑った。
「俺はもう少しここにいるよ」
「りょうかいー。じゃあ二人ともごゆっくりー」
 京極さんは大げさに手を振ると病室から出ていった。
 彼女が居なくなると病室は火が消えたように静まり返る。
「あー、まったくよー! うっせー女だなマジ!」
 大志は嬉しそうに毒づいた。
「ほんとに賑やかだったねー。やっぱり京極さんはああじゃなきゃね」
「それな! ウラはやっぱりあれくらいイカれてたほうがアイツらしい……。それはそうと……」
 大志は枕元にある週刊誌を手に取ると俺に投げて渡した。
「ん? あー、読んだのか……。で? 感想は?」
 週刊誌の見出しには『人気パンクバンド、アフロディーテの凶行!』とデカデカと書かれていた。
「看護士さんが追い返してくれてるみてーだけど、マスコミ来てるらしいのな? まったくあいつらの飯の種にされてたまるかよ!」
「まーねー。まぁ、マスコミも仕事だから仕方ないけど、病室に押し掛けるのは非常識だよねー。でもこれでひとまず幕引きじゃないかな?」
 俺がそう言うと大志は、複雑そうな顔をした。
「鴨川月子の事はアレだけどよー。なんで他のメンバーまで被害被らなきゃいけねーのかなー」
「それも仕方のない事だよ。彼女が『アフロディーテ』の看板で、他のメンバーだってその恩恵を受けていたんだ。多少の歪みくらいは生まれるさ……。たしかにちょっと可哀想ではあるけどね」
 やっぱり大志はお人好しだ。
 自分を殺そうとした女が在籍してはバンドの事を心配している……。
 今回の殺人未遂事件はあっという間に解決した。
 そもそも犯人も分かっていて物証も山のようにあったし、現場から逃げ出した犯人も無計画ですぐに確保されたようだ。
 まぁ、京極さんの代わりに事情聴取された俺は少し煩わしく感じたけれど……。それだけだ。
 事件の話を一通りした後、大志が自身の容態について話し始めた。
「なぁ純? 正直な話だけどよ……」
「なぁに?」
「たぶん俺の身体は元通りには回復しねーと思うんだ。医者にもはっきり言われた。それを含めてこれからどうするか考えろとさ……」
「……。知ってるよ。大志のお母さんから聞いた」
 大志の母親からその話は聞いていた。
 彼が以前と同じように二本足で普通に生活するのは極めて難しいらしい。
「そうか……。ウラは? 知ってるのか?」
「知ってると思うよ? だって七星くんも知ってたしさ。京極さん知らないフリしてるだけで、かなり動揺はしてると思う」
 俺がそう言うと大志は目を閉じて眉間に皺を寄せた。
「お前は本当に冷てー男だよなー。そこまで分かっててなんでウラがカラ元気でいんのをニコニコ見てられるんだよ?」
 大志は恨めしそうに言うと、大きなため息を吐いた。
「彼女がそうするって決めたからだよ! あの子はこのままメジャーデビューの話が潰れたとしても大志が復活するまで待つつもりだと思うよ? 俺には彼女のそんな気持ちを止める権利はないからね」
 自分でも思う。大志の言う通り俺は冷たい男だ。
 でもせめて京極さんの意思だけは守ってやりたいと思ったのだ。どうしようもない。
「まぁ何でもいい! とにかく! 『バービナ』はメジャーデビューちゃんとしろよ! それが俺らの念願だろ?」
「メジャーデビューはもうしてるよ? 問題なのはこれからだからね」
「てめーは揚げ足を取るな! とにかく! 俺が言いたいのはだな!」
「わかってる……。大志……。俺もバンドの今後考えれば新しいドラムは入れなきゃいけないと思う。でもそれ以上に京極さんの意思が大事だからね……」
 それから大志はしばらく黙っていた。
 窓から見える桜の枝にはわずかな花びらと緑色の新芽が色鮮やかに浮かんでいた——。
しおりを挟む

処理中です...