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1 失脚の女神

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 僕は大叔母の呼び出しを受けて古びた喫茶店を訪れていた。
 喫茶店の外壁には蔦が巻き付いてモルタルを浸食している。
 店内に入ると酷いタバコの煙が充満していた。
 このご時世だというのに分煙はしていないようだ。本当に嫌になる。
 僕は大叔母を探して店内を見渡した。
「のんちゃん!」
 奥の席から聞き慣れた優しい声が聞こえた。
 声のした方向を見ると、そこには大叔母が一人で座っている。
「お待たせしましたー。すいません、大学の講義長引いてしまいまして……」
「こっちこそごめんね。忙しいとは思ったんだけどのんちゃんにお願いしたい事があって……」
 僕が大叔母の席に向かい合って座ると店員が注文を取りにきた。とりあえず、ブレンドコーヒーを注文する。
「のんちゃん大きくなったわねー。何年ぶりかしら?」
「中学ん時以来ですねー。おばさんもお変わりなくて何よりです」
 大叔母と会ったのは実に五年ぶりだ。
 彼女は多忙であまり親戚の集まりにも顔を出さなかった。
 大叔母はとある音楽のメジャーレーベルで働いていた。僕はあまり実感がないけれど、業界ではかなりの有名人らしい。
「単刀直入で悪いんだけど、のんちゃんに会わせたい人たちがいるの!」
 大叔母はそう言うと、一枚のCDを取り出して僕の前に差し出した。CDのジャケットには二〇歳前後の女の子が写っている。
「これは?」
「今度ウチのレーベルで抱える事になったバンドの子たちなのよ。『バービナ』って聞いた事ないかしら?」
「『バービナ』って……。あの『アフロディーテ』事件の被害者の?」
 僕が大叔母の質問に質問で返すと彼女はゆっくりと頷いた。
 あれはたしか一ヶ月くらい前の事だ。国内最大手のパンクバンド『アフロディーテ』のヴォーカル、鴨川月子が殺人未遂を起こしたのだ。
 被害者はかなり深手を負ったらしい。
 ワイドショーでは、被害者は後遺症が残るほどの怪我だと報道していた。
 その被害者が在籍していたバンドが『バービナ』という名前だったのだ。
「かなり騒ぎになりましたよね……。この事件……。『アフロディーテ』はこれが原因で事実上解散しちゃったみたいですし」
「そう……。あなたには話した事あったかしらね? だいぶ前だけど私、『アフロディーテ』の担当してた事があるのよ。ちょっと訳があってウチのレーベルからは出て行っちゃったけど……」
 大叔母はそう言うと、胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえた。
「そうだったんですね……」
「仕方ない事なんだけど、月子が今回こんな事件起こしたじゃない? まぁ刑事責任は私の預かり知るところじゃないから良いんだけれど、『バービナ』のメンバーが活動出来なくなったのがウチとしては問題なの!」
 大叔母は眉間に皺を寄せながらそう言うと、煙をいっぱい吸い込んでそのまま吐き出した。煙は宙を彷徨いながら少しずつ空気に溶けていく。
「はぁ……。そうですか……」
 僕は力なく適当な相づちを打つ。我ながら空気が抜けた風船のような返事だ。
「それでね! のんちゃんさえ良ければ、『バービナ』のドラムをやってほしいのよ! あなたは小さい頃からしっかり練習してるし、技術面で申し分ないのは私が一番良く知ってるから」
 大叔母は僕の眼を覗き込むと真剣な表情でゆっくりと頭を下げた。
「そうですね……。まぁバンド活動は今休んでるんで可能ではありますけど……。でも僕なんかに出来るんですかね? それに僕『バービナ』さんたちの事何も知らないですし……」
「とりあえず顔合わせだけでもしてほしい。会わない事には話も進まないし……。大丈夫! みんないい子たちだから!」
 大叔母は穏やかに微笑むと、僕の手を握って「お願い!」と言った。
「わかりました……。とりあえず会うだけ会ってみます。でも……。もし彼らと合わないようであれば今回は……」
 僕がそう言いかけると大叔母は言葉を遮るように「大丈夫! 会えば気に入るから!」と返してきた。
 どうやら大叔母は本当に困っているらしい。
 彼女の口調にはそんんなニュアンスが含まれているように感じられた。
 僕は諦めて『バービナ』のメンバーと会う事を了承した。
 まぁ……。気に入らなければ蹴っ飛ばせば良いだけだ……。
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