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第十一章 成田国際空港 北ウイング

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 私は向かい合う二人を黙って見ていることしかできなかった。雰囲気としては天音ちゃんの方が余裕ありそうかな。何となくそう感じる。
「言ってる意味がよく分からないんだけど?」
 重たい空気の中、椎名さんがやっと口を開いた。彼女の表情は普段のポーカーフェイスではない。明らかに怒りを抑えているように見える。
 そんな最悪の空気の中、天音ちゃんは「今度から弥生ちゃんも魔法少女に入るんだ」と独り言みたいに呟いた。その声は椎名さんとは対照的に穏やかで、まるで食事中に『お醤油取って』と言うぐらいのテンションに聞こえた。まぁ、この場合穏やかに返す方が異常なのかも知れないけれど。
「だからね。あの子が入るまでにどうにかウチらの仲を良くしておきたかったんだよね。だってあの子まだ小学二年生だよ? そんな歳で現場のギスギスした雰囲気味わわせるのはちょっと酷だからさ」
 天音ちゃんはそう言うと椎名さんの左手をソッと両手で包んだ。手を握られた椎名さんは一瞬戸惑うとすぐに表情を固くする。
「みのりん……。私はね。子役としてこの業界にずっといるんだ。それこそ物心が付く前からずっとね。私の本当の業界デビューは紙おむつのCMだったんだよね。だから……。私は真の意味で箸を持つことより先に演技を覚えたんだ」
 天音ちゃんはそこまで話すと椎名さんの手を握る力を少し強めた。椎名さんはそれに対して俯いて「そう……」とだけ返す。
「そんな環境で育ったせいかな? 私は大人の不機嫌そうな顔色を見て何を望むか分かるようになったんだ。こうしたら喜ぶだろうなぁとか、こうしたら怒るだろうなぁってね。……正直こんな能力持っちゃった自分に反吐が出るよ。私だってさ。ムカつくことたくさんあるし、蹴っ飛ばしてやりたいと思うことたくさんあるもん。でも……。残念だけど身体と口が勝手に動くんだよね。まるで子役するために作られたロボットみたい。本当クソクラエだよ。バカみたい」
 天音ちゃんはそう吐き捨てると大きなため息を付いた。そして続ける。
「だから……。まだ私ほど染まってない弥生ちゃんには私と同じようにはなって欲しくないんだ。たぶんあの子は既に大人の顔色見る才能が開きつつあるとは思うけどさ……。そんな才能開かない方がいいんだよ。もし私みたいになったら……。あの子もただの演技ロボットになっちゃうからね」
 天音ちゃんはそこまで話すとゆっくり椎名さんの手を離した。そしてすっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲む。
「天沢さんが苦労人だってことは分かったけど……。それで? 私にどうしろって言うの?」
 椎名さんはテーブルの上に置いてある自身の左手を見つめながら天音ちゃんにそう尋ねた。心なしか彼女の左手は震えているように見える。
「ま……。長々と話したけど弥生ちゃんが出演する現場ではバネっちと仲良いフリして欲しいんだよね。ほら、みのりんって露骨にバネっち避けてるじゃん? たぶんアレは弥生ちゃんに伝わるからねぇ」
「……別に私は避けてないよ。アレは赤羽さんが勝手に私を毛嫌いしてるだけで」
「うん。それも分かるよ。だからバネっちにも話しといたよ。『いつまでも引きずってんじゃねーよ』ってね。あの子もねぇ。結構頑固だから説得するの苦労したけど」
 天音ちゃんはそう返すと穏やかに口元を緩めた。そこにはもうさっきまで重たい話をしていた空気は微塵も残っていない。
「……とりあえず話は分かったよ。トライメライの子が入った現場では『仲良しごっこ』すればいいんでしょ?」
 椎名さんはそう言うと呆れたみたいにため息を吐いた。そして彼女は今まで見たことがないような表情を浮かべた。怒りでも悲しみでも、ましてや喜びでもない。これは……。好奇の表情だと思う。
「ありがとう。それが聞けて安心したよ。……あと迷惑かもだけどもう一つだけお願いしていいかな?」
「何?」
「あのねぇ。できれば私のことは名前で呼んで欲しいんだよね。ほら、その方が仲良さげに見えるからさ」
 天音ちゃんはそう言うと戯けたように笑った。そして……。それに対して椎名さんは「分かったよ天音ちゃん」と返した――。
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