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第六章 オフィス・トライメライ 幕張研修所

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 天沢さんは私にとっての憧れの先輩だった。スラっとしたスタイルも整った顔もその演技力も。その全てが私にとっての目標だった。漫画家としての目標が篠田先生なら役者としての目標が天沢さん。そう思っていた。まぁ……。二人とも雲の上の人なので手が届きはしないのだけれど。
「弥生ちゃんだよね! 初めまして」
 天沢さんはそう言って私の前に右手を差し出した。私は「は、初めまして」と言って彼女の手を握り返す。
「長旅大変だったでしょ?」
「はい……。ちょっと疲れました」
「だよねー。そっちの子はお友達かな?」
 天沢さんはそう言うと香澄ちゃんの方に視線を送った。香澄ちゃんは「こんにちは。鹿島です」と挨拶する。
「こんにちは! 鹿島さんも……。出演者さんかな?」
「私は……。えーと。スタイリスト見習いです!」
 天沢さんの問いに香澄ちゃんは戸惑いながらそう答えた。天沢さんは「そっかそっか。まだ小さいのにすごいね」と言ってニッコリ笑った。これ以上ないくらいチャーミングな笑顔だ。
「今ねぇ。スタッフさんたちみんなミーティング行っちゃって暇してたんだよね。他の出演者の子たちも買い物出かけちゃうしさ。だから私はお留守番してたんだ。参るよねぇ。取材までまだ時間あるってのに」
 彼女はそこまで話すと「良かったらケーキでも食べない?」と言った。
「食べたいです! 香澄ちゃんは……。大丈夫?」
 私は天沢さんからの誘いに一つ返事で答えると香澄ちゃんに事後報告的にそう尋ねた。すると香澄ちゃんは「私も食べたいです!」と元気よく答えてくれた。おそらく空気を読んでくれたのだと思う。私のわがままに付き合うために――。
 
 スカイラウンジのカフェには数組の宿泊客がいた。彼らは皆欧米人らしい顔つきでアジア系の人間は私たちしかいなかった。だから私は少しだけ不安な気持ちになった。ここは日本じゃなくてアメリカ。改めてそれを痛感する。
「実はここ入ってみたかったんだ!」
 席に着くと天沢さんが嬉しそうにそう言った。そして「一人で入る勇気なくてさ」と付け加えると私たちへ向けてメニューを開いてくれた。私は反射的に「ありがとうございます」と言ってメニューを手元に引き寄せる。
 それから天沢さんは「好きなの頼んで良いよ。今日は私の奢りだから!」と言った。思わず私は「いえいえ。そんな」と答える。これでもちょっとは分別があるのだ。流石にいきなり大先輩に奢って貰うわけにもいかないだろう。
「いいんだよ! ほら! 私ってだいたいどの現場でも最年少だからさ。いっつもご馳走になっちゃってるんだよねぇ。だからたまには先輩っぽいことさせて!」
 天沢さんはそう言うと「だから好きなの頼んで欲しいの!」とダメ押しした。どうやら彼女は私が思っていたよりずっと気さくな人らしい――。
 
 その後。結局、私と香澄ちゃんは天沢さんにご馳走になった。私はミルクレープとアイスレモンティーを。香澄ちゃんはチョコレートケーキとカフェオレをそれぞれ頼んだ。ちなみに天沢さんが頼んだのはアフタヌーンティーセットだ。注文するときの天沢さんが思いっきり日本語発音で注文していたので間違いないと思う。……店員さんにちゃんと通じたかは甚だ疑問だけれど。
「天沢さんは昨日から撮影入ったんですよね?」
 注文し終えると私は彼女にそう尋ねた。当たり障りのない質問。小学生の私にできる世間話なんてこれくらいしかない。
「そうだよー。こっち着いてすぐに夜のシーン撮ったんだ。あれはちょっとキツかったなぁ。眠いし、薄着だから寒いしでね」
 天沢さんはそう言うと「ふぅー。参った参った」と言って笑った。
「お疲れ様です。私は明日からです……」
「みたいだね。まぁ気楽にやればいいよ。スタッフは良い人ばっかだからたぶんそこまで緊張しないと思うしね」
「はい! ありがとうございます」
「フフフっ。弥生ちゃんってすごいしっかりしてるね。私のちっこいときとは大違いだよ」
 天沢さんはそう言うと嬉しそうに目を細めて笑った――。
 
 しばらくすると頼んでいた飲み物とケーキが運ばれてきた。ミルクレープとチョコレートケーキはごく普通。アフタヌーンティーセットだけやたら仰々しかった。三段重ねのプレートにスコーンと小さめのケーキたちとアイスクリーム。子供心をくすぐるようなデザートだと思う。
「アハハ……。やっぱりこんなん来るよね」
 天沢さんはそう言うとケーキを携帯のカメラで撮影した。そして「食べ切れなかったら二人とも手伝ってね」と言っていたずらっぽく笑った。確かにこれを女子一人で食べきるのはなかなか大変だと思う。
 それから私たちはお茶会をしながら色んな話をした。私は自分の子役としての話を。香澄ちゃんはお裁縫と服飾デザインの話を。それぞれ天沢さんに話した。天沢さんは私たちの話を聞くたび「マジで!?」とか「すごーい」とか言って感心したり驚いたりしてくれた。そのコロコロ変わる表情は本当に普通の女子高生のように見える。
「二人ともほんとしっかり者だねぇ。低学年とは思えないよマジで」
 一通り話し終わると天沢さんはそう言って残りわずかになったティーポットから紅茶をカップに注いだ。そしてそれを一口飲むと「ふぇぇ」とため息を吐いた。その姿は年下の私から見てもかなり可愛らしく見える。
 そうこうしていると天沢さんの携帯に着信が入った。天沢さんは「ごめんね」と言ってその電話に出ると「はい天沢です! お疲れ様です!」とハキハキと応答した。そこにはもうさっきまで「ふぇぇ」とか言っていた面影はない。完全にプロの役者の顔だ。
「――そうですね。夜には終わると思います。――ええ。分かりました。では終わり次第戻りますね。――はい! お疲れ様です。失礼します!」
 天沢さんはそう言って電話を切ると再び私たちに向き直った。そして「ごめーん。もう取材の人来てるんだってぇ。私行かなきゃ」と言って申し訳なさそうに眉をへの字に曲げた。
「こちらこそすいません。ご馳走になっちゃって……」
「いいんだって! 先輩や大人にはたかった方が良いんだよ? みんな大人ぶりたいんだからさ」
 天沢さんそう言って立ち上がった。そして「お金払っていくから食べてていいよ」と言ってニッコリ笑った――。
 
 夜になると叔母さんが戻ってきた。
「ごめんね遅くなって。変わったことなかった?」
 叔母さんはコートをハンガーに掛けながらそう言うとベッドに腰を下ろした。そして「流石に疲れた」と独り言を呟いた。思えば叔母さんは成田からここまで休みなしなのだ。そう考えると叔母さんに対して少し申し訳ない気持ちになる。
「あのね! 天沢さんとたくさんお話したの!」
「天沢さんって……。天沢天音さん?」
「そうそう! すごくいい人だったよ! 優しいし、面白いし! あとは……。すっごいできる女って感じだった!」
 私が興奮気味にそう言うと叔母さんは「そっかそっか」と嬉しそうに頷いてくれた。そして「さすがは時給二百万の女優ね」と妙な言葉を続ける。
「時給二百万?」
 私はその言葉の意味が分からずその言葉をそのまま復唱した。すると叔母さんは「ああ」と言ってニッコリ笑うと「あのね」と言って天沢さんの異名について教えてくれた――。
 
 叔母さん曰く、天沢天音という女優はかなりの高給取りらしい。しかもどの現場でもほとんどNGを出さずに毎回一時間くらいで撮影を終えてしまうのだそうだ。
 一時間集中して撮影。そして撮影が終わるとすぐに通っている学校に移動。彼女のライフサイクルはそんな感じらしい。
 そんな彼女についたあだ名が「時給二百万の女優」なのだそうだ。魂を込めた一時間で二百万円稼ぐ。その異名にはそんな意味が込められているとか。
「まぁ……。あの子は本当に特別よ。他の演者とはわけが違うわ。でも……。オフではけっこう普通みたいね」
 叔母さんはそこまで話すと「弥生ちゃんも天沢さんみたいになれたら良いね」と言った。
 でも……。私は内心では天沢さんみたいにはなれないと思っていた。私はただ言われたことを器用にできるだけの子供。天沢さんは言われないことまで熟す天才。その差はあまりにも大きいと思う。
 だからその大きすぎる差を表すかのように私たちのお給料は違うのだ。天沢さんは一時間二百万円。そして私は丸一日演技しても二万円。(二万円というのは叔母さんから貰える金額なので実際の出演料は分からないけれど)
 そんなことを思いながらも私は「うん! 頑張るね」と答えた。叔母さんを失望させてくない。その一心で。
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