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第六章 オフィス・トライメライ 幕張研修所

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 それから弥生さんは壁の時計に目を遣った。時刻は二〇時を回ろうとしている。
「夕飯にしようか。昼のファミレス行く? それとも何か買ってくる?」
「そうだね……。私はどっちでも大丈夫だよ」
 私と弥生さんがそんな話をしていると香澄さんが「良かったら叔母さんのお店行かない?」と言った。
「ああ。『鹿の蔵』か……。良いかもねぇ」
 弥生さんは少し考えるとバッグから財布を取り出した。そしてその中身をチェックし始める。
「千円あれば食べれたっけ?」
 弥生さんは財布から顔を上げることなく香澄さんにそう尋ねた。香澄さんは「大丈夫だよぉ。千円あればお釣りくるくらいだし」と答える。
「じゃあそうしようかな。聖那ちゃん和食とかイケる人?」
「大丈夫だよー。むしろ和食のが好きかな」
 私がそう答えると弥生さんは「じゃあ決まりね」と言って背伸びをした。どうやら今日の夕飯はこの瞬間、和食に決まったらしい――。
 それから私たちは普段着に着替えた。そして研修所から歩いて一〇分ほどの場所にある『鹿の蔵』という店に向かった。香澄さん曰く、『鹿の蔵』は蔵田さんの奥さん……。つまり香澄さんの叔母さんがやっている和食のお店らしい。
「あの店行くの何年ぶりだろ? 女将さん変わりない?」
 店に向かう道すがら弥生さんは香澄さんにそう尋ねた。
「変わらないよぉ。叔父さんのことで頭痛いって言ってるのもそのまま」
「ハハハ。だろうね……。あーあ、懐かしい」
 二人はそう言うと思い出を振り返るみたいに顔を見合わせて笑った。その様子から彼女たちの付き合いの長さが窺えた。美鈴さんも弥生さんも香澄さんも……。みんな長い付き合いなのだろう。
 だからだろうか。私は少しだけ疎外感を覚えた。私だけ彼女たちの輪に含まれていない。そんな気持ちになった。たぶんそれは嫉妬だとか不甲斐なさだとかそんな気持ちだと思う。まぁ……。そんなことを言っても仕方ないのだけれど。
 私がそんなことを考えていると店にたどり着いた。ビルとビルの谷間。『鹿の蔵』はそんな場所にあった。入り口には白い暖簾が掛けられ、店の前には盛り塩がしてある。そして白い暖簾の右端に控えめに『創作和食の店 鹿の蔵』と書かれていた。パッと見ただけで高級そうな店に見える。
「こんばんはー」
 私の思いを余所に香澄さんがそう言って店の引き戸を開けた。明けた瞬間、店内の淡い光が溢れてくる。
「いらっしゃい。あら?」
 私たちが店内に入ると店主らしき女性がそう言って出迎えてくれた。そして彼女は「弥生ちゃん久しぶりねぇ」と弥生さんに駆け寄った。
「お久しぶりです。ご主人にはいつもお世話になってます」
「あらあら。すっかりお姉さんになったのね。フフフ……。えーと、そちらはお友達かしら?」
 彼女はそう言うと私に微笑み掛けてくれた。すごく上品そうな女の人だ。正直、蔵田さんの奥さんとは思えない。
「ええ。香取さんと一緒にバイトしてる夏木さんです」
 弥生さんはそう言って私にも挨拶するように促した。私は「こんばんは。夏木聖那です」と普通に自己紹介する。挨拶と名前だけ。よくよく考えるとかなりシュールな自己紹介だ。
 そうこうしてると香澄さんが「叔父さんは?」と女将さんに尋ねた。
「まだ帰ってきてないわ。なんか生地屋さんに会うんだって……。たぶん飲んでくるんじゃないかなぁ」
「またぁ? まったくあの人は……」
「本当にね。まぁ……。完全に遊びじゃないから文句も言えないんだけどね」
 香澄さんと女将さんは無遠慮に蔵田さんの悪口を言うと顔を見合わせて笑った。みんなから悪く言われる蔵田さんって……。と内心思った――。
 
 それから私たちはカウンター席の横を通り過ぎて奥の座敷に通された。カウンターでは常連客らしき男性たちが赤い顔でビールを飲んでいた。あとはテーブル席に大学生くらいのカップルが一組。見た感じ今日はそこまで混んでいないらしい。
 奥の座敷は六畳くらいの小綺麗な和室だった。その部屋には床の間があり、部屋の奥には丸い形の障子がはめ込まれていた。素人の私から見てもかなりお洒落な部屋だと思う。
「メニューにないものでも出せるから気軽に言ってね! 香澄に聞けばできるかどうか分かるから」
 女将さんはそう言うと微笑んでカウンターに戻って行った。本当に感じが良い。なんでこんな素敵な人が蔵田さんみたいな人と結婚したんだろう? ……ととても失礼なことを思った。
「叔母さんもああ言ってるので食べたいものがあったら言ってください」
「ありがと……。とりあえずメニュー見てから決めるね」
 弥生さんはそう言うとメニューに目を通し始めた――。
 
 それから私たちは各々料理を注文した。私は天ぷら定食を。弥生さんは刺身御膳を。香澄さんはまかないをそれぞれ頼んだ。まぁ……。まかないに関しては香澄さんが自分で作るらしいのだけれど。
「ここはねぇ。私が小さい頃よく通ってた店なんだ」
 香澄さんが調理場に行ってしまうと弥生さんが懐かしそうな口調でそう言った。
「へー。そうなんだ。もしかして弥生さんって昔は幕張に住んでたの?」
「うん。まぁ……。そうね。そんな感じ。何て言うのかなぁ……。寮生活みたいな感じ?」
 弥生さんは煮え切らない言い方をすると「うーん」と唸った。
「寮かぁ。中学まではこっちの学校だったんだね」
「いや……。そうじゃないんだけどさ。話すと長いんだけど……」
 彼女はそう前振りすると自身の幼少期の話を教えてくれた。
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