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第六章 オフィス・トライメライ 幕張研修所

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 UGが閉店すると私たちは地上に戻った。辺りはすっかり日が暮れて薄暗くなっている。
「うー! 今日は疲れたねぇ」
 弥生さんはそう言うと大きく背伸びした。そして「聖那ちゃんもお疲れ様」とくたびれた顔で笑うとポニーテールにをほどいて手ぐしを掛けた。髪をほどいた彼女は普段より幾分可愛らしく見える。
「私は大丈夫だけど……。弥生さんこそ大丈夫? 私のせいで色々気を使わせちゃったし……」
「ううん。大丈夫だよ。聖那ちゃんは気にしないで! いつものことだからさ」
 弥生さんはそう言うとメガネを外した。そして「実は私伊達メガネなんだ。何気に目は良いんだよ」と言ってメガネをケースにしまった。メガネを外すと一層普段のサブカル女子感がなくなる。……まぁ、難しく言ったけれど要は普通にめっちゃ可愛いってことだ。
「弥生さんって可愛いんだね」
 気がつくと私はそんな失礼なことを口走っていた。そして「あ、ごめん」と咄嗟に謝った。我ながら失礼過ぎる発言だと思う。
 でも弥生さんは私の言葉に「いや……。ありがとう。嬉しいよ」とだけ言ってスマホに視線を落とした。心の中で『謙遜とか否定せんのかい!』とツッコミを入れる。まぁ、実際可愛いので否定するのもどうかとは思うけれど。
「あー……。ごめん聖那ちゃん。出雲社長からだわ」
 弥生さんはそう言ってため息を吐くと「はい、春日です」と電話に出た。どことなく声が震えているように聞こえる。
「はい……。そうですね。――逢川さんは夜には連絡くれるって言ってました。――いえ。大丈夫です。お気遣いだけで。――そうですね。もし流れたときは待機ってカタチで。――夏木さんにもそう伝えます。はい」
 通話中。弥生さんはまるで几帳面なキャリアウーマンみたいに仕事の要件だけ淡々と答え続けた。そこには人と人との繋がりの温度みたいなものはない。あくまで事務的要件だけ。そんな風に聞こえる。
「――えーと……。それは夏木さんに聞いてみないと分からないですが。――ええ、私はそれでも別に構いませんよ? 今日は母も成田ですし。――はい、父も今日はいません。――分かりました。では夏木さんと相談してから返事させてください。失礼します」
 弥生さんはそこまで話すと電話を切った。そして「ふぅー」とため息を吐くと私に向き直る。
「ごめんごめん。えーとねぇ……」
 弥生さんはそう言うとばつが悪そうに頭を掻いた。そして「聖那ちゃん。今日お泊まりとかできる?」と言った。
「え? お泊まり!?」
 思わず私はそう聞き返した。いきなりすぎて話の流れが全く読めない。
「そう……。実は社長からの指示でさ」
「社長の?」
「うん。ほら、聖那ちゃん明日初バイトじゃん? だから少し研修所でレッスンしたらどうか……。って。あそこの研修所なら一応寝泊まりできるしね」
 弥生さんはそこまで言うと「どうする? 帰るなら帰るでも良いけど?」と言って小さく首を傾ける。
「そうだねぇ……。ちょっとお母さんに聞いてみるよ」
 私はそう返事するとすぐに母に電話を掛けた。
『はーい。もしもしぃ?』
 数コール鳴らすと母が電話口に出た。声の感じは割と上機嫌。これならいきなり外泊の話をしても問題ないと思う。
 それから私は今回の幕張合宿について『魔法少女』のことだけぼかして正直に話した。経験的に母に嘘を吐いても確実にバレてしまうのだ。
「――だからね。弥生さんと二人で研修所泊まりたいんだ。良いかな?」
『……そっか。まぁ良いけど。……ねぇ聖那。悪いんだけどその弥生ちゃんって子に電話代わってくれない?』
「へ?」
『いやさ。一応娘が世話になるわけだし? 挨拶ぐらいはしときたいのよ。お願い』
「分かった……」
 母とそこまで話すと私は弥生さんに母から言われたことをそのまま伝えた。そして自分のスマホを彼女に手渡す。
 弥生さんは電話を受け取ると「お電話代わりましたぁ」と穏やかな声で電話口に話しかけた。さっき社長と話していたときとはだいぶ印象が違う。この弥生さんと出雲社長と話している弥生さん。どっちが本当の彼女なのだろう?
「はい、こんにちはぁ。――いえいえ。こちらこそすごくよくして貰ってます! ――フフフ、そうですね」
 弥生さんは母とそんな風に談笑する。電話越しの母の声も心なしか嬉しそうだ。
「ええ。――そうですね。小さなお子さんと接するお仕事です。――保育とは少し違いますねぇ。――仕事自体は印旛付近が多いですね。――そうですそうです! 一応は福祉施設なんかからの……。――はい、そうですね!」
 弥生さんは母からの問いにやたらテンション高く答えていた。相づちと笑い声の入れ方なんかまるでバラエティー番組の司会者みたいだ。
「――そうですね。香取さんも明日は一緒に行く予定だったんですが。――そうですね。心配です。――うんうん! お年寄りですからねぇ」
 そんな感じで二人は五分ほど話していた。その間、私は突っ立って待つことしかできなかった。流石に手持ち無沙汰過ぎる。
 私のそんな様子を見て弥生さんは口の動きだけで『もうすぐ終わる』と言った。どうやら母とのトークタイムも佳境に差し掛かっているらしい。
「いえいえ。大丈夫です! 聖那さん私よりずっとしっかりされてますし。――。わぁ、嬉しいですぅー。楽しみにしてます! じゃあ聖那さんに代わりますね!」
 そこまで話すと弥生さんは私にスマホを返してくれた。返ってきたスマホの画面には『母』とまだ表示されている。
「もしもし?」
『ちょっと聖那! 弥生ちゃんすごい良い子じゃない!? 本当に良いお友達できたねぇ』
 私が電話に出ると母にそんなことを言われた。どうやら美鈴さんに引き続き弥生さんも母に気に入られてしまったらしい。
「ハハハ……。まぁ弥生さんは良い子だよ。……じゃあ明日の夕方にはちゃんと帰るからね」
 私はそれだけ言うと母との通話を終えた。そしてスマホをしまって弥生さんに「うるさいお母さんでごめんね」と謝った。きっと母は弥生さんに仕事のことを根掘り葉掘り聞いたのだ。弥生さんだってかなり迷惑だったと思う。
 でも弥生さんは「そんなことないよ」と言ってくれた。そして「良いお母さんじゃん」と言って少し寂しそうに微笑んだ。
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